贔屓ということ

 劇場の席につくと、両脇の人や前後の人の様子も、結構気になったりします。仲良しオバサン五人づれなどが隣り合わせになったりして、彼女たちのウキウキとオクターブの高い声が飛び交って、幕があいているのに静まらなかったりする。あーア、早く口を閉じて芝居を見ろよ、と心の中でブツブツ言ってしまう。
 とはいうものの、周りのお客さんの思わず発する感想も面白いのです。
 ある時、何の芝居だか忘れたが、舞台も終わりのあたり、ツケ打ちの音もバラバラと登場した捕手の一団が主役を取り囲んだとき、私のすぐ後の席で
「ね、ね、○○ちゃんどれ? どこにいるの」
と年配らしき女の人の声。
「ほら、あの左から三番目」
「あ、ああアー」
 折りから四天の扮装の捕手が、ひとりずつ主役に向かってとんぼを切ると
「ああッ、○○ちゃん、よくやってるね」
「たいしたもんだわ、ここまできたんだもの」
と感に堪えない声。
「形になってきたわね」
「ほんと、ああやっているのを見ると、歌舞伎の人になってきたと思うわ」
「あの子、目立つわよ」
 私は、彼女たちの会話につられて、○○ちゃんらしき、左から三番目の捕手を目で追った。たしかにちゃんととんぼも切っている。揃いの型もきまっています。でも私には、○○ちゃんが特別の人には見えない。捕手の列が変わると、もうどれがその○○ちゃんかわからなくなった。でも後の人たちにはわかるのだ。そして一所懸命応援しているのだ。彼女たちはこの瞬間、主役の役者以上に心を寄せていると思う。
 この心情は、○○ちゃんという役者ではなく、あまり強くなれないかもしれないスポーツ選手でも、トップダンサーの後で踊る、その他大勢のダンサーのひとりでもいいのだ。
 「私の贔屓」ということが大切なのです。
 後の席の女の人たちだって、○○ちゃんがいつの日か團十郎になるなんて、ユメにも思っていない(と思う)。ただひたすら彼の成長を願っている人たちなのだ。
 歌舞伎を見続けている人たちの中には、「私の贔屓」を持っている人はたくさんいるようです。
 若くて初々しい、まだどことなくたどたどしい役者さんが、十年後、十五年後にどんな実のある芸を見せてくれるかすごく楽しみで、今、売り出し真っ最中の新之助、菊之助、辰之助の三之助の舞台を必ず見るというオバサマもいます。たとえ十五年後二十年後、自身は高齢のため、劇場に来られなくなっているかもしれないけど、そのところは考えず、若き役者さんの成熟した姿に思いをはせる。
 それが歌舞伎ファンのひとつの姿です。