あとがきより

 プロローグに記したように、十年ほど前に北海道の古老が聞かせてくれた唄が、私の旅の起点であった。それまで抱いていた「唄」に対するイメージが激しく崩れ去った瞬間でもある。メディアから流れてくる、詞章と曲とがかっちりと固定している唄ではなく、時や所や場面によっていかようにでも変化する唄。いや、唄う者が自ら変えてしまう唄。節は短くなり、あるいは長くなり、思いつきの単語が並ぶこともあれば、気の利いた都都逸風の歌詞が詠じられたりもする。ときにしみじみと、ときに朗々と、笑いを含んだ戯れ文句もあれば、猥雑な歌詞が唄われることもある。野太く、荒々しく、にも拘わらず細やかさをも持ち合わせている。「自在な唄」と呼んでもいい。
 このような「木遣り唄」を探してみたかったのである。
 もちろん、何も木遣り唄や民謡に限ったことではなく、唄は「唄」だけで屹立しているわけではない。時代や人、地域、産業、さらには政などの枷からは逃れられないのである。私たちが、過去の流行歌を時代の匂いとともに記憶しているのはそのためである。だから、私の歩みは、当然のごとく木遣り唄だけではなく、「森の仕事」やそこで働く人たちをも視野に入れねばならなかった。
 さらに、私が歩きはじめたころ、すでに木遣り唄という労作唄は山の現場では聞かれなくなっていた。唄を聞かせてもらうということは、同時に、かつての仕事ぶりを聞くことにほかならなかった。
 話をしてくださった方々は、記憶の断片をたぐり寄せ、何とか唄を思い出そうと努めてくださった。うまいこと思い出せることもあれば、なかなか唄が出てこないこともある。二度目、三度目の訪問時にやっと唄ってもらえたこともある。
 唄う人の数だけ唄があった、とは言えるだろう。が、一方で、似た文句を、節回しを、遠く離れた土地で聞くこともあった。また、そうした唄々の襞には、かつての「森の仕事」に対する想いの数々が確実にしみ込んでいた。
 唄と労働とが共に立っていられた時代とは、それほど昔のことではない。しかし、労働の実相は見事なまでに変容し、私たちを絡めとってしまっている。そのことに少なからず疑いを感じながらも、その疑問を解消する術を見出せずにいるのが、私たちなのかもしれない。