一語によって私は人


「一語によって私は人」とは、谷川俊太郎の詩の一節である。
この詩は

 黙っているのなら
 黙っていると言わねばならない

で始まる。
ことばが不自由だったものにとって、これは手ひどい促しだ。黙っているということは、からだの内の暗闇にうごめくものを、なんとか手探りして、その断片をことばとして明るみにもち出し、それを綴り合わせて一つの文にまとめようと、喉の奥がよろめいている時間なのだから。暗闇は沸騰している。口を開く余裕などない。
この一行はすでに語り得るもの、ことばを十分持つものが自らに課す掟に過ぎない。
だが谷川は

 そこにしか精神はない

と書く。果たしてそうか。黙っているとは精神がない、というしるしなのか。
人がみずから選んで他者におのれをあらわすことを精神と呼ぶとすれば、黙ることを選ぶと告げることによって、たしかに人はそこに立つこととなるだろう。ならば、ことばに欠けるものにとって「ことば」とはなにか。

 一語によって私は人

の一行は、おそらく、ことばに恵まれた詩人が意識することのない遠くへ超え出てゆくことになるだろう。
まっすぐに向いあって立ち、わたしのからだを相手の目にさらすこと、あらわにすること、そのことが「わたし」がここに生まれ出ることであり、「あなた」があらわれることだ。これもまた人の、人へ差し出す「一語」である。
人は存在そのもので語る。唖であろうと、病むものであろうと。だがそれを差し出すことを選ぶことにおいて「私は人」となる。だが、差し出すとは、もともとは呼ばれているから応えることにほかならない。すでに「ことば」は先にあるのだ。