手紙 1
はじまりというのは、何かをはじめること。そう考えるのがほんとうは順序なのかもしれません。しかし、実際はちがうと思うのです。はじまりというのは、何かをはじめるということよりも、つねに何かをやめるということが、いつも何かのはじまりだと思えるからです。
わたしの場合、子どものときから、はじめたことよりも、やめたことのほうが、人生というものの節目、区切り目として、濃い影のように、心の中にのこっています。
すぐに呼吸がくるしくなって、どうしても全力で走れずに、走るのをやめ、はじめて、最後にゴールするには、とんでもない勇気が必要だと知ったのは、少年のある日です。
水泳もおなじ理由でやめ、ひとをおどろかすような野球選手になろうと思うこともありませんでした。
水彩をならい、絵の腕をあげた。それでも描くことが楽しくなくなった。そして、絵をやめ、絵筆を手にするのをやめたのも、少年のある日でした。
小鳥を飼って、死なせて、飼うのをやめた。犬を飼って、死なせて、飼うのをやめた。野バラを庭に植えて、ぜんぶ枯らして、育てるのをやめた。
幾何が好きになれない。積分も。数学をまなぶのをやめた。ドイツ語やロシア語は気づいたときにはもう遠ざかっていました。
不器用で、ギターもフルートも覚えるまえにあきらめ、それきり楽器をまなぶのをやめています。好きだったのは山歩きで、とりわけ山々の尾根をたどって歩くのが好きだったけれども、身体を壊して、山に登るのをやめた。
ひとの人生は、やめたこと、やめざるをえなかったこと、やめなければならなかったこと、わすれてしまったことでできています。わたしはついでに、やめたこと、わすれたことを後悔するということも、やめてしまいました。
煙草は、二十五年喫みつづけて、やめた。結局、やめなかったことが、わたしの人生の仕事になりました。――読むこと。聴くこと。そして、書くこと。
物事のはじまりは、いつでも瓦礫のなかにあります。やめたこと、やめざるをえなかったこと、やめなければならなかったこと、わすれてしまったことの、そのあとに、それでもそこに、なおのこるもののなかに。