プロローグより

 ロバートがいなくなったのは、ごく普通の日のことだった。なんといっても不思議なのは、だれにも、そうお母さんにさえ、いなくなったことが気づかれなかったことだ。……

 お母さんは今日はおでかけなので、若やいでみえる。どこへ行くかは話してくれない。
 でかける前に、ロバートのために夕食の支度をしている。といっても、ハムやコールドミートとか、パンケーキ2、3個といった程度だけど。あいかわらずロバートは食欲がない。食べたくないので、だらしない格好ですわっている。カウンターにかがみこみ、猿みたいに背中をまるめ、手足をだらりとさせて、しきりに体を動かしている。じっとすわっていることのできない子どもなのだ。……
 「ひとりでちゃんとやれる?」
 お母さんのいつもの口癖だ。もちろんひとりでちゃんとやれる。
キッチンの椅子にしゃがみこみ、アイスティーを入れ、ハムをはさんだパンにぼんやりと手をのばした。ロバートは汗をかいていた。
もうすぐ嵐になるかも知れない。……

 ロバートはテレビに目を向けた。ブラウン管には灰色の町が映しだされている。雪におおわれたひろい道路をトラックがのろのろ走っている。スカーフを巻いた女たちがシャベルで雪かきをしている。厚手のコートを着て、背のたかい毛皮の帽子をかぶった人たちが急いで通りすぎていく。
 ロバートはあやうく椅子から転がりおちて、そのまま眠り込んでしまうところだった。部屋が暑い。疲れて、ちょっとめまいがした。そして目をこすった。
 目の前のブラウン管には、長い革のオーバーを着た制服組が登場した。長靴がよごれている。そばに年寄りの女の人が立っていてまっすぐにカメラをのぞきこんでいる。奇妙なほど表情がない。目が見えないのだろうか。いや、まばたきしたぞ。道路には、行列が近づいてきた。みんな黙っている。デモ行進だろうか。年寄りの女は口をあけたまま突っ立っている。そのとなりにいた少年が、すばしっこい悪魔みたいに絵のなかにとびこんだ。後ろ姿しか見えない。見えたのは、首筋とブルーのジャケットだけ。ロバートに似ていた。
 ところでロバートはいったいどこにいるんだろう。目の前が真っ黒になった。いまに椅子からずり落ちるぞ……。
 ロバートはもうキッチンにはいない。テレビだけがついている。
カウンターの上のアイスティーの氷がゆっくりとけている。時計は夜の9時3分前をさしている。窓の外では、空が急に暗くなり、突然、嵐が雨粒を窓ガラスに激しくたたきつけはじめた。