まえがき


 ワープロも使えない(使いたくない)私のような者でも操作できる、画面タッチ式の資料検索コンピュータが、都立中央図書館に最近設置された。試しに、五十音順に整列するカタカナの上を指で触っていって「田中正造」を検索してみた。すると「七十七件ヒットしました」(なんでヒットなの?)という文字が現れるとともに、関係資料が数画面にわたってずらりと並び出てきた。「コンピュータはやっぱり人間を堕落させる」と思いながら、次に「古河市兵衛」を検索してみた。すると「ヒットした」のはわずかに二件。大正時代に側近の人たちが自費で刊行した市兵衛の伝記二冊だった。
 いったいどうしてこんなに大きな差ができるのか。それは、考えればすぐわかるように、一方が最も今日的な課題である「公害」の最初の偉大な反対運動家であり、他方がその加害者、つまりは悪の権化と見なされているからにほかならない。
 古河市兵衛の足尾銅山を公害源とする鉱毒事件がピークだった今から一〇〇年前、一部のマスコミは市兵衛を「鉱毒王」と呼び捨てていた。しかし、実はマスコミの大部分はむしろ逆で、市兵衛は世間一般に最も人気があり、対して田中正造は、変人扱いされてほとんど人気がなかったのである。当時「雑誌の王者」と言われていた総合雑誌『太陽』が行った読者アンケートで、市兵衛が「日本一の傑物」に選ばれ、田中正造が問題外だったことからも、それははっきりしている。
「明治十二傑」と称するこの特集企画は、当時活躍中の十二分野の人物について、読者の投票によって十二人の傑物を決定しようというものだったが、古河市兵衛は、政治世界の伊藤博文、教育界の福沢諭吉、商業界の渋沢栄一らとともに、工業界で第一位だったのみならず、得票数も伊藤博文以下を引き離して十二傑中のトップだったのである。
 いったいそれは何故なのか。古河市兵衛は、徒手空拳で鉱山業をはじめながら、徹底した近代化を推進し、一〇年後には三井、三菱、住友をしのぐ日本一の鉱山業者にのし上がっており、鉱毒問題が浮上した二〇年後には、アメリカの鉄鋼王カーネギーと並び称されて「鉱山王」ないしは「銅山王」と呼ばれるまでになっていたのである。
 そして世間がもっとも感心したのが、田中正造の徹底的な攻撃を受けた鉱毒問題への処し方だった。明治政府は、「日本の公害第一号」たるこの難題を解決すべく、おそらくは世界で最初の公害防止対策にちがいない、きわめて厳格な鉱毒予防工事を命令した。そして、もしそれが期日までに達成できなければ足尾銅山を閉山にする、と市兵衛に迫ったのだが、彼はその命令に何一つ不満を言わず、今日の技術をもってしても困難な工事を、見事に遂行して見せた。そして閉山をまぬがれた足尾銅山は、以前にも増す生産をあげて明治国家の外貨獲得に貢献し、同時に日本初の公害防止対策が見事に成功したのである。
 公害の加害者として田中正造らから糾弾されながら、古河市兵衛は右のように信用を回復し、企業の基盤をがっちり固めて世を去った。その結果、死後二五年後の昭和の初期には、三井、三菱、住友、安田、大倉に次ぐ、日本で六位の古河財閥が形成されていたのである。
 私は、世間並みに田中正造のほうに注目していたので、つい最近まで古河市兵衛のことを意識したことはなかった。しかし、藤田伝三郎の伝記を書く過程で、足尾銅山が水力発電を設備した日本ではじめての鉱山であり、市兵衛があらゆる意味で最先端の技術を採用して経営に当たっていたことを知った。また、公害問題は当時住友の別子銅山にも藤田組の小坂銅山でも起こっており、しかも、排出する鉱毒の量はむしろ足尾銅山のほうが少ないぐらいだった、ということを知るに及んだ。そして、古河市兵衛は相当の人物だったはずと確信したのである。
 調べていくうちに、鉱山業を始める前は、彼が幕末から明治にかけて隆盛だった小野組の大番頭で、維新戦争を財政的な側面から見るとき、誰よりも重大な役割を果たしていたことなど、興味深い事実が次々にわかってきた。結局、「これは何としても伝記を書かなくては」ということになったのである。
 これまで、誤解されたり忘れられたり、全く無名だったりした明治の実業家をとりあげてきたが、今度もまた、経済史の専門家からさえほとんど無視された経済人をとりあげることができた。この本を書き終えた今、とてもすばらしい良鉱を掘り当てた気分がしている。