軟弱者の言い分


 兼好法師の『徒然草』には、「友に持ちたくない者」として、「体が丈夫で病気のない者」が挙げられている。まったくそうだ、と私などは思うのだが、兼好以外にこういうことを言った人を聞かない。
 私の同僚の、五十代の女性で、岡山から大阪まで新幹線で通っている人がいる。この人はつい最近まで、頭痛というのがどういうものだか知らなかったそうだ。また私の先輩の三十代の女性は、東京から山形まで新幹線で通っている。いずれも大学教師だから週に三日ぐらいのことで、後者はたぶん山形に宿舎があるのだろう。あるいはやはり先輩で、東京から大阪まで飛行機で飛んできて、ひと仕事終えてその日のうちに東京へ帰る、というようなことをする人もいる。
 あるいは、田中康夫の『ペログリ日記』をひもとくと、いろいろな女性との「PG」つまり情事に明け暮れる日々が汚らわしいと思うより前に、飛行機で国内外を飛び回る田中の「丈夫さ」に驚嘆するほかない。こういう生活は、とうてい私にはできない。実際一時期、東京と大阪を頻繁に行き来していて、体調がおかしくなったことがある。
 もっとも私とて、二十歳前後のころは、まだまだ丈夫で、教育実習を終えたあとで芝居を観に行ったりアルバイトに行ったりしていた記憶はある。もっともそれは、実家に住んでいたので食事の心配などがなかったからでもある。やはり二十歳前後というのはいちばん元気な時分で、たとえば昔の早駕籠というのがあって、急な報せのために飲まず食わず、大小便垂れ流しの上に酔いで嘔吐するという荒行なのだが、だいたい二十歳前後の人間にしかできないものとされていた。
 それでも政治家とか、総理大臣とか外務大臣とか、米国大統領とかいうものはそうとう丈夫な人たちなのだろうなと思う。
 丈夫な人がいるのはいるでもちろん構わないのだが、「友だちに持ちたくない」というのは、彼らが往々にして、自分が丈夫だという認識を欠いているからである。これは一緒に旅行したりするともうてきめんに出る。以前ある学会で外国へ行った時、朝から昼過ぎまで学会で、夜になると町へ出掛けるというスケジュールにつきあわされてひどい目にあったことがある。ここで厄介なのは、丈夫とるいじゃくが年齢とあまり関係ないということで、六十前後の教授たちは、まさか三十代の私がそんなに疲れているとは思わないのである。私は外出するとすぐ疲れるたちなので、帰りの電車などではへとへとなのだが、それで座っていると老人が乗り込んできたりする。時にこれが、ぜったい俺より元気だと断言したくなるような老人なのである。もうそういう時は、信念にしたが座りつづけるしかない。
 さて、最近、フェミニズムとか、女性の社会進出とかの影響で、家族解体論というのが盛んになっている。結婚制度に反対したり、一夫一婦制はもう終わりだとうそぶいたり、そういうことを言うのである。私は一応こういう議論には反対なのだが、どうもこういうことを言う人たちというのは「丈夫な奴ら」なんではないか、という直感が私にはある。
 たとえば、結婚なんかよして、恋人を取っかえ引っかえして生きればいい、みたいなことを言う人もいる。私は「じゃあもてない奴はどうすりゃいいんだ」というような反論を試みるのだが、これは実は少しウケを狙って言っているのであって、本当は、そういう生き方は丈夫な奴にしかできない、と思っている。恋愛や結婚を始めたり終わらせたりするのはたいへんな心的エネルギーが要る。そんなことを繰り返していたら、繊弱な人間はへとへとになってしまうのである。事実、結婚を始めるというエネルギーがなくて結婚できない人が結構いるのではないかと思う。
 私も若いころは、夫婦共稼ぎで育児や家事を分担するみたいな生活を夢見ていたことがある。しかし、やってみた訳ではないが、これも「丈夫な奴」にしかできないのではないかという気がしている。実際、子供なんかできたら保育園への送り迎えとか、そうとう大変である。仕事が遅くなれば夕飯の支度だってままならない。「でもうちはやってるわよ」と言う人がいる。それが「丈夫な奴の論理」なのである。
 マスコミなどで盛んに発言する大学の先生などは、いきおい、「丈夫な奴」であることが多い。すると如上「家族解体論」は彼らの論理で語られてしまうのである。「家庭」というのは、仕事でへとへとに疲れて帰ってきて安らぐ場所である。「丈夫な奴ら」が困るのは、たぶん彼らがその「へとへとになる」感覚が分からないで理屈を振り回すからなのである。いやきっと彼らは言うだろう。「私だってへとへとですよ」と。違うんだって。「丈夫な奴」のへとへとは、繊弱な者のへとへとと違うのである。
 別役実の『天才バカボンのパパなのだ』という芝居では、一人だけまともな人物が、周り中バカに囲まれて、声をふりしぼるようにして「いいか、お前らはなあ、バカなんだぞおっ」と言う場面があるが、私も言いたい。お前らはな、頑丈なんだぞおっ、と。