はじめに

 一九六五年、信州の山里、夏の光景。隣りの新井村のじいさんが二人、一人は前で把手(とって)をにぎり、一人は後から押し、高部村へのゆるい坂道を荷車を引きながらあがってくる。前のじいさんは振り返るわけでもなく一人言のようにしゃべる。「そんちアメリカぁベトナムからぁ出てくずら、セカイにでてたで」。後のじいさんは、またかといった様子でめいわくそうに「アア……」。前のじいさんはかまわず語りつづけている。
 信州では囲炉裏ばたで『世界』が読まれている、という伝説は本当のことだった。少なくとも、私の生まれ育った近隣の村の場合は。
 そのまた隣りの中洲で岩波茂雄は生まれ、地元には岩波の全刊行物を納める風樹文庫が設けられていて、毎月一ぺん、私の家の二軒先の原田センセイが汽車に乗って岩波書店に出かけ、その月の刊行物を風呂敷に包んでしょって帰ってくる。私の坊主くさい名前も、若き日に岩波茂雄と語らって村を出奔しながら、志なかばで帰郷して”神職”を継いだ三軒隣りの諏訪大社神長官守矢家七七代当主守矢真幸氏が命名してくれたもの。二人が若き日に一緒に出奔したことは、村には語り伝えられてはおらず、『岩波茂雄伝』小泉信三著を後に読んで知った。
 今とちがい、高度成長前、都会と山国の農村の落差はすごく、日々の光景はちがう国みたいで、思い起こせば農村は八〇パーセントくらい江戸時代だったのだが、そんななかで、さいわい戸数七〇戸ほどのわが高部の村は活字文化の香りがほのかに身辺に感じられるような村ではあった。
 そういう村で育ち、子供の時から本に親しみ、というぐあいにはいかない。父が学校の先生だったから
家に本の類は多かったのだが、活字を読むのは好きではなく、姉の画集や父が職場で共同講読していて家に持ち帰る『文藝春秋』のグラビアや『漫画読本』のようなもののほうがマシだった。本よりなにより野山のほうがずっとずっと刺激的で、おもしろかったのだ。
 高校に入ってからも同じで、野山の遊びにかわって学校の自治活動がおもしろく、校長キュウダンなどなどに熱中し、本は眼中になし。
 文芸部長で小説を書いて全国誌に発表して新人賞の候補になっていたT君に、「文学なんてオンナミテエダナ」と言ったらおこりだし、なぜか柔道でけりをつけることになり、道場の床に叩きつけて勝った。
 本屋で買うのは雑誌だけ。それも創刊されたばかりの『ガロ』とか美術誌のヴィジュアル系ばかり。
 おそらく、そのまま順調にゆけば、いっぱしの政治小僧をへて、今ごろ、何か実用的な世界で元気にやっていたかもしれない。
 うまくゆかないものである。大学に入って、せっかく周囲は政治の季節で盛り上がりはじめているというのに、わが身は落ち込んでしまう。それも、外の穴に落ちたというより、自分の心の内側に沈み込んでいくような感じ。現象としてはニヒル。
 教室はつまらないから行かなくなる。結局、大学六年間を沈んだ気持ちで過ごすことになるのだが、その間、本を読んだ。オンナミテエナ文学を救われるような気持ちで読んだ。
 最初読んだのは、たまたま生協の本棚で手にした文庫本の中島敦で、こんな世界があったのかと心底たまげた。小学校の五年生の時、家庭科の授業で〃これからの食事〃というのがあり、はじめてミルク入りコーヒーを飲んだ時にまさるとも劣らず心がふるえた。文庫本が終わると、すぐ図書館に行き、文治堂版の全集を読んだ。
 以後は、手当たりしだいで、本来なら高校時代に読むべきような教養的な文学の森に分け入る。夏休み、家に帰り、父の『漱石全集』を机の右手に積み上げ、毎日毎日朝から晩まで読みつづけ、読み終えると左手に移し、秋口にはすべて左手に移っていた。古典に接したのもこの時で、『方丈記』を読み終えた時、「古典はいつも新しい」という常套句が真実であることを知った。
 その頃、同じように沈んだ目つきで本を読んでいるA君を知る。今は酒場の主人をやっているが、当時は独文の学生で、詩や小説を書いて、発表もしていた。彼から教えられて吉本を読み、中島敦の時以上にたまげたのだった。まるで、自分たちのウツウツたる気持ちをそのまま語っているようではないか。以後はそっちの方向を手当たりしだいで、お定りの高橋、埴谷などなど……。
 夜昼のひっくりかえった文学びたりの日を送りながら、しかし、自分で小説や詩を書こうとはついに思わなかった。小説家や詩人の才能が自分にもあったナア、などという気持ちにもならなかった。それは自分の生来の体質とは別のものであると、おそらく本能的に察知していたんだろう。
 もし六年間の〃暗い青春の読書〃がなければ、その後、建築史の道に進んで文を書くことも、さらに書評することもなかったにちがいない。