「あとがき」より
山形浩生


 本書はKen Smith, Ken's Guide to the Bible (Blast Books)の全訳だ。さらに、これを知り合いにいろいろ見せたらみんな「おもしろいし、あたしはわかるけれど、ふつうの人はこんなに聖書にくわしくないんじゃないかな」と言うので(みんな一人残らずそう言うのだ。だから実際には、みんなが思っているよりも世間的な知識レベルは高いんじゃないかと思うんだが)、ぼくが解説をちょいと付け加えて、一応常識的に欧米人が知っている聖書のあらすじ(特に旧約)については説明してある。山形なんて、信用できないというのであれば、ほかに各種の「聖書物語」とかいうのを読んでみたり、聖書テーマの映画を見たりする手もあるだろう。ただし、これらの多くは、かなりひどい(ときに悪質な)脚色と歪曲がなされていることは知っておこう。

著者について

 著者のKen Smithは、なんだかいかにも「山田太郎」みたいなペンネームくさい名前だけれど、これが本名なのだ。かれは別に聖書研究者でもなんでもない。もともとRoadside Americaの著者として有名な人だ。これは、アメリカ中を旅行して、道中にある変なものを集めた辞典というかなんというか。変なもの、というと、たとえばアメリカ最大のはりぼての牛はどこにある、とか、ここに奇跡の泉がある、とか、ここに変なしょぼいアトランティスをテーマにした遊園地がある、とか、ここに変なキ××イ宗教家のつくった天国の模型がある、とか。ちなみに、これにヒントを得て、Roadside Japanを取材・刊行した都築響一が、Titleという雑誌でなんとRoadside Americaという、中身はおろかタイトルまでそっくりいただきの企画をやっていて、ぼくはあきれたね。情けない。かつて『みんな死んじゃえ』で、猿まねクリエータたちをあれほど罵倒していたあなたが。
 それはさておき、その人がなぜこんなものをやるようになったかというと……本人曰く、特に理由はないそうな。単に気が向いたから。本書が終わったら、かれはまったく別の本を書いている。一つは、世の中でいい目をみなかった人たちの記録集 The Raw Deal (Blast Books)。そしてもう一つは1950年代アメリカの、道徳教育映画の歴史をつづったMental Hygene (Blast Books)。後者は、特にその映画の実例を見ながら読むと、もう爆笑というか薄ら寒いというか、最高なんだけれど。
 で、本書はどういう本かというと、まあ言ってみれば、キリスト教聖書の揚げ足取り本である。実は聖書には、こんなことも書いてある、あんなことも書いてある、みんな知らなかったでしょう、という本だ。

背景と目的

 さてなぜこんな本が成立するのか? 一応、欧米社会はキリスト教文化ということになっていて、聖書はもう共通の常識、ということになってはいる。ぼくが昔会った、英文学の先生のおじいさんは、「欧米の人たちはみんな聖書をすみずみまで暗記してます」なぁんてことを真顔で言っていて、ぼくはへー、すごーい、やっぱ肉食ってる連中はちがうぜ、と感心していたものだ。もしそうであるなら、こんな本はまったく存在意義を持たないであろう。がぁ。実はそんなのウソっぱちなのである。みんな、そんなにきちんと聖書を読んでいるわけじゃない。主要キャラクターやエピソードは知っている。さわりの部分だって知っているし、いいところはいっぱい知っている。
 でも、最初から最後まで聖書を読み通した人、なんていうのはまずいない。日曜学校とかで教会へ行く人なら知っているだろう。こういうところでは、聖書のおいしい、こぎれいなところだけを取り出して、そこばかり何度も読ませる。それ以外のところは、知らない人のほうが多いのだ。そもそも、ルターが聖書を訳すまでは、ふつうの人は聖書なんか読んだことはなくて、それでも平気でキリスト教徒になっていたのだもの。
 本来、各種の聖書解説本というのは、そういう人たちにちゃんと聖書を読ませる、あるいはその内容をきちんと伝えるのが仕事のはずだ。でも、ほとんどはそうなっていない。聖書の話を、勝手に編集してSFXとドラマチックな効果音をてんこ盛りにした挙げ句に取捨選択し、自分に都合のいいところだけぐりぐり強調して書いてあるものばかり。こうした本の多くは、キリスト教徒がオルグのために書いたものであることを考えれば当然ではあるのだけれど。人は、こういう本を読んで聖書を読もうなんて思わない。どっかで聞いた耳障りのよい話が反復されているのにとりあえず安心して、それっきりだ。あるいは、「聖書の暗号」だの「死海文書の謎」だの、各種の聖書がらみのトンデモ本はあとを絶たない。それ以外のものとなると、いきなりくそむずかしい神学本にとんでしまうのだけれど、これまた脚注の脚注の脚注の……というものすごい多重ネスティングがくり広げられ、聖書そのものにはぜったいたどりつけないような本になり果てている。いや、それでも田川健三『書物としての新約聖書』なんかはめっぽうおもしろくはあるのだけれど。でも世の中にうようよしているキリスト教徒の、信仰の基礎となっているはずの聖書、世界の文句なしのナンバーワンベストセラーであるはずの書物たる聖書を、きちんと説明して読ませる本というのは、ほとんどなかった。
 だから本書は言う。聖書、読もうぜ。いいとこだけじゃなくて、ぜんぶちゃんと読もうぜ。そしてケン・スミスは、そのためにいちばん単純な方法をとる。それは聖書を買ってきて、さいしょからとにかく読む、ということだ。参考書だの解説書だの研究だのに頼ることなく、そのままストレートに読む、ということだ。その結果できあがったのが本書だ。
 たぶん日本よりはアメリカのほうが、これは深刻な話だ。アメリカでは、キリスト教原理主義者と称する連中が、聖書の教えに帰れとか言って、自分勝手な聖書解釈でもって、人種差別や思想差別、同性愛差別や各種検閲、排外主義を平気で正当化しようとしている。学校で進化論を教えるのをやめさせたり(厳密には、進化論と天地創造論を同列に扱えと要求している「だけ」なんだけれど)、中絶クリニックを襲ったり、ひどいことを山ほどやらかしている。そういうところで「いや、あなたたち、ほんとうに聖書を読んだの? 聖書はほんとうにあなたの主張するような価値観を奉じているの?」ときくのは大事なことなのだ。
 この本はそれをやる。聖書をほんとうに、つまみぐいするのではなくまじめに読もう、と主張する。そして、聖書には、みんなのよく知っているおはなしだけじゃなくて、こぉんなとんでもない話が山ほど書いてあるのだ、というのを次々に明らかにしてくれる。耳にしていた話も、実はまったくちがう意味なんだ、ということを明らかにしてくれる。そしてそれにとどまらず、「まさかこんなのウソだろう」と思わせて、人々に実際に聖書を手に取らせて読ませてしまう、という離れ業をなしとげている。出版社のBlast Booksの連中も言っていた。「いやあ、あたしたちも、訴えられたりするといやだってのもあったけれど、それより聖書ってこぉんなとんでもないことが書いてあったっけ、と思って聖書全部読み直してみたわよ。でも、この本に書いてあることって全部この通りなのよね」。人に聖書を読ませる! マルチン・ルター以来、そんなことをやった人間がほかにいるだろうか?
 そしてもう一つ本書のすごいところは、こいつが爆笑ものの手軽な読み物だってこと。これはケン・スミスの地ではあるのだけれど、いやあ、聖書がここまでギャグねたになるとは、マルチン・ルターもローマ法王も思ってもみなかっただろう。本書にもあるけれど、聖書は決して読んでおもしろい本じゃない。退屈だし、特に旧約だとだれはだれの子でそれがだれを生んで、とかいう話が延々続いていたりして頭にくる。それをこれだけ楽しくおもしろく読めるものにしてしまう、というのはなみたいていの技ではない。読者のみなさんも、本書片手に、ぜひとも楽しく聖書を読んでいただきたい。