あとがき〜本の数だけ、欲望がある

「こんなハウツーがあればなあ。でも、まさか」
「こうなる方法があったりして……な、わけないな」
 実用書コーナーに足しげく通うようになる前、少々悪ノリしつつも、自分で自分に突っ込みを入れながらリストアップしたことは、「はじめに」に記した。そして、驚いたことに「な、わけないな」の本のほとんどが、現実に存在していたことも。
 のみならず、
「えっ、こんな本まであるわけ?」
「こういうことを、本に従いやってみようとする人って、いったい……」
 と絶句するものも。タイトルだけ見れば、「奇書」の観さえあった。
 が、ひもといてみれば、その本を読もうと思う、あるいは著者が書こうと思った動機が、それなりにわかるのだ。
 タイトルのつけ方には、傾向がある。
・「この本を読めば、こうなります」との、いわば本の使用目的が具体的。ときにはむき出し。
・人の気にしていることを突く。ときには人の弱みにつけ込み、脅す(それがなぜか、読者の要求にかなう)。
 そうした傾向は、ビジネス書において、特に顕著である。
「こうではないでしょうか?」と読者に対し、おずおずと提言してはいけない。「こうです!」と言い切る。多少あやしげであっても、はっきりと断言してくれる、強い人を、読者の多くは求める(らしい)。
 著者のプロフィール中、使えるものは何でも使う。肩書。資格。どこで何を学んだか。たとえそれが金さえ払えば誰でも参加できるスクールのようなものでしかなくても、臆せず書く。
 実用書においては、謙譲は美徳ではないのである。
『議論に絶対負けない法』(ゲーリー・スペンス著・三笠書房)は何と言っても「全米ナンバーワン弁護士が書いた」というのが売りだ。帯の言葉を引けば「40年間、『議論』で負け知らずの著者が説き明かす必勝の自己主張法、最強の自己実現セオリー!」。
 著者は、裁判でのあまりの勝率に、相手方から「陪審員に催眠術をかけているに違いない」と訴えられたとか。「和をもって貴しとなす」「以心伝心」の精神文化にどっぷりつかったわれわれからすれば、あの訴訟社会(行ったことがなくてもそう思うほど、イメージが頭の中にインプットされている)アメリカで、負けたことがないなんて、それだけで、
「ど、どんな人か」
 と畏怖の念を抱いてしまう。この本を読んだ人どうしで「議論」をしたら、勝敗はどうなるのかとの疑問はさておいて、そのハウツーは。
 読んでみれば、はっきり言って、
「なあんだ」
 である。著者いわく、勝つためには信頼されなければならない、信頼されるには真実を語らなければならない。「すべての文化に当てはまる議論の方法論はただ一つ」「ありのままの自分こそ最高の自己主張である」。
 例えば、医者が患者に手術を受けるよう、説き伏せたいとき。手術がいかに必要かを、がんがん言い立てるのではない。「他の医者に診てもらいなさい」「同じ病気に立ち向かって回復した他の患者に相談しなさい」「決めるのはあなただ」そう言って、受ける方へ仕向ける。
 そう言えば、皇太子殿下が雅子様に結婚を決心させたひとことも、「よく考えて下さい。急がずに」といったものだったな。はからずもセオリーに合っていたのか、あるいは、この本に書かれているのが、特別なことではないということか。
 われわれは言葉によるコミュニケーションが下手だ、との認識があるせいか、話し方に関するものは、多かった。シーンや相手はいろいろだ。スピーチで、取引先、上司、部下と。がんじがらめの人間関係の中で生きながら、「ウンと言わせたい」「できるやつと思われたい」「人のついて来る人間になりたい」など、さまざまな「〜したい」がこめられているようだ。
 ときには、キレて、
「イヤならやめろ!」
 とけしかける本に手が伸びて、となりにある、
「やめないが勝ち」
 の本に、踏みとどまる。どっちだ?
『思わず許す!上手な謝り方』(高井伸夫著・講談社)も、著者は弁護士だ。その肩書には、話し方のみならず法的なことまでも、この本はカバーしているだろうと、期待させる効果がある。
 著者の言うには、謝罪も技術。相手先を訪ねて謝罪するときの態度として「出されたお茶は飲まない。煙草も吸わない。足を組んで座らない。腰かけた椅子やソファには浅く座り、背筋をピンと伸ばす」「決して笑顔を見せてはいけない。眉間に皺を寄せ、済まなさそうな表情を崩さないという演技力も、時には必要」。
 電話で詫びるときは、携帯は使わないこと。突然切れたりしかねない。かけるところの環境もだいじ。交通量の多い道路、駅のホームなどは避ける。謝罪の声が、車の音にかき消されるようではだめで、「できれば静かな喫茶店の中の電話(ただし、カード電話でないと途中で小銭が切れる危険性がある)」と、まことに微に入り細をうがったアドバイスなのだ。
 議論の本と同じく、他の誰も考えつかないような、特別なワザが書いてあるわけではない。当たり前といえば当たり前。が、そういうことこそ、なかなかできないものである。実用書には、
「わかっちゃいるけど、難しい」
 を再確認するものが多い。これも、やってみて気づいたことだ。

 弱みと言えば、日本人の最大のコンプレックスのひとつは、英語だろう。
 これは、実用書の作り手にとっては、最大のマーケットと同義語である。「こんなとき、こう言う」「これを英語で言えたなら」といったものは、数えきれない。
「ガツンと言える英会話 いつも言われてばかりではくやしい」なるものもあった。こういう本ができるわけも、わかる。
 旅行用英会話に関し、私が常々感じていたのは、例文が模範的に過ぎること。例えば「税関」の章。到着時、必ずや、空港の税関職員との間に、
「何か申告するものはありますか」
「いいえ、ありません」
 との会話が交わされることになっている。が、私はいまだかつて聞かれたことがない。すたすたと無言で通るだけ。
「ショツピング」もそう。
「試着していいですか」
「はい、どうぞ」
「少し小さいです。もっと大きいのはありますか」
「はい、あります」
「では、下さい」
 が一般的な流れだが、
「うーん、どこが悪いってわけじゃないけど、何だかなあ」
 みたいなときの断り方を知りたいのだが。
『中国語 大人の会話集』(富坂聰著・ナツメ社)は、その点、リアル。リアル過ぎる。「大人の」が意味シンだ。
 目次を見て、わかった。「口説き文句」「結婚と同棲」「恋人の妊娠」、要するに男と女の会話集だ。「この本の特徴と使い方」にも、そうはっきりと書いてある。
「これには訳があるんだ」「間違いなくあなたの子よ」「ぼくには妻子がいるんだ」「彼女とはっきりさせるまで待ってくれ」。きれいごとではすまない現実が、どろどろと渦巻いているような。旅行用会話集では用をなさない部分を補う点で、まさに「実用」の書だ。
 同じシリーズの、たしかスペイン語バージョンも、書店で見た。CD付きのものも出ていた。ヘッドホンで聴きながら練習する姿をあまり想像したくはないけれど、商品となり得たくらいだから、買った人は必ずやいたはずである。
 ニーズのあるところに、本はできる。こうも言える。本の数だけ、欲望がある、と。

 本に従い「やって」みると、一回きりに終わったものと、その後も継続しているものとに分かれた。
「自分は、こういうことに関心があるのだな」
「こういうことは、割とどうでもいいタイプなのだな」
 とわかる。それもひとつの発見だった。
『東京地下鉄便利ガイド』(幸治隆子著・昭文社)は、あらたな版のを買って、使っている。
 東京暮らし二十年の私だが、ついこの間まで、丸の内線から都営線に新宿駅で乗り継いでいた。あの広大なる新宿駅の構内をはしからはしまで歩いて。ひとつとなりの新宿三丁目駅で降りるのが正しい。
 銀座駅も、何度「こんなはずじゃなかった」と首を傾げつつ、階段を上り降りしたことか。丸の内線で行くのと、銀座線で行くのと、出るところがまるで違う。
 この本には、駅とその周辺の、詳細なる地図がついている。「べんりルート」の早見表も。それによると、銀座から新宿へは、丸の内線で十六分、新宿で西口へ行きたいなら前寄り、東口なら後ろ寄りに乗車する。ホームで電車を待つ間、あらかじめ移動しておくと、時間節約になる。銀座から赤坂見附へは、丸の内線で六分、銀座線利用では七分と、前者の方が一分稼げる。
 しかし、こういう術が役に立つ生活も、ゆとりのないものだな。一分を惜しむ方法が、本になるなんて。
 せちがらい気はするけれど、これもまた、都会暮らしのある面を反映していることは、たしかなのだ。
 コンプレックス、欲望、やむにやまれぬ必要、こだわり……実用書は、現代人の心を映す鏡である。
 どんな本も、本として成立しているからには、読んでみれば、それなりの発見があると、他の章にも書いてきた。何よりの発見は、「私たちは何を求めているか」を覗き見たことかも知れない。