淀川長治
さよならを言う度に
Everytime We Say Goodbye

 子供のころ、大好きな雑誌に『映画の友』があった。スタアのグラビアがあって、新着映画の紹介があって、スタアの半生記などの特別読物が載っていた。
 中学時代は外国テレビ映画が全盛だった。『アンタッチャブル』や『ヒッチコック劇場』は見逃さなかった。『拳銃無宿』『ライフルマン』『シャイアン』『ブロンコ』『ローハイド』…ほとんどの西部劇を観ていた。が、『ララミー牧場』だけは観なかった。主演のロバート・フラーが嫌いだった。リチャード・ウィドマークとカーク・ダグラスが好きで、にやけた二枚目がいやだった。クラスの大半は『ララミー牧場』のファンで、解説で出てきて最後に「さよなら、さよなら」と言う淀長おじさんが面白いと話す。ぼくはそうした情報に乗り遅れないように淀長おじさんの解説だけを観るようになった。
 同じチャンネルで日曜洋画劇場が始まったときは、映画少年だったこともあって、マスコミの悪い方の評―淀川長治はどんな映画でも誉めるから信用できない―を信用していた。そのころ、『映画の友』の編集長が淀川さんだったこと知った。
 植草甚一さんの責任編集の雑誌に関わり、淀川さんを紹介されて、二人が「ちょーさん」「じんちゃん」の長年にも及ぶ仲だと初めて知った。七〇年代だ。戴いた淀川さんの生原稿は一見読みにくそうに見えた。だが、読んでみるとちっとも読みにくくはない。編集者でもある淀川さんは鉛筆で原稿用紙のマスを埋めながら、同時に文字校正をしていたのだ。編集者が赤を入れる作業を、原稿を書きながら同じ鉛筆でしているのだ。映画に関する文章もシビアだった。誉めるには誉める根拠があったし、品性のない作品や画面を明らかに嫌った。淀川さんに対する印象が変わって来た。
 淀川さんは、いろんな場所でいろんな印象を残して「さよなら」してしまった。

 その日、銀座の千疋屋パーラーで原稿をもらうために淀川さんと待ち合わせた。やがてちょっといいなという感じの女性と現れた。
「これね、わたしの姪なの。『アンアン』の編集者。今日ね、ご飯をご馳走してもらったの。だからデザートはあんたにご馳走してもらおうと思って連れてきたの」
 淀川美代子さんだった。しばらくして彼女は帰った。ぼくは先生が移動する次の場所までタクシーでお送りすることになった。車の中で突然、先生は言い出した。
「あんた、チャップリンは嫌いでしょう?」
「はい、ローレル?ハーディやマルクス・ブラザースの方が好きです」
「みんな、そう言うのよね。ぼくもね、そっちの方が好きだけど、あんまりチャップリンが嫌いだって言う人がいるんで、言わないようにしているの。いま試写会でやってる『チャップリンのサーカス』、ご覧なさい。いいところがたくさんありますから」
 それからぼくはチャップリンが嫌いだと軽々しく言うのを止めた。

 試写で観た『カッコーの巣の上で』に感動して、友人を誘ってもう一度同じ試写室に行った。会場を出たところで、配給会社で打ち合わせを済ませた淀川さんに声をかけられた。ぼくはこの映画が気に入って、今日が二度目だと告げた。「お茶飲みましょう」とビルの下の喫茶店に誘われた。そこで、
「エライネー、二回も観たの。でもね、あんな映画にだまされちゃだめ。ちょっと待ってなさい」
 公衆電話をかけメモを持って戻って来た。
「これね、ロバート・アルトマンの『ナッシュビル』の試写会のスケジュール。素晴らしい映画ですよ。この映画を観て、もう一度『カッコー…』がよかったかどうか考えてみなさいね。はい、さよなら」
 ニッコリ笑顔を残してレジに向かった後ろ姿をぼくは追った。淀川さんは伝票を配給会社にツケて、もう一度「さよなら」と言って狭い歩幅で足早に出ていった。関西生まれのわりに気が短い、空白が嫌いな人だった。
 試写を観て『カッコー…』にだまされていたことがわかった。ロバート・アルトマンの映画で映画の見方というのもわかった。

 雑誌の仕事を辞めて数年後、麻布のテレビ局の玄関でばったり対面した。ぼくは淀川さんがちょっとだけ出演した映画の試写を見終えて来たばかりだった。そう言うと、
「どうだった? 映画になってた?」
 ドキッとした。生まれて初めて聞いたフレーズだったからだ。映画になってた?―少しだけ間をおくと、答えが自然に出てきた。
「なっていませんでした」
「そう、残念ねえ。じゃ、さよなら」
 淀川さんは慌ただしくテレビ局の玄関を飛び出した。残されたぼくは、いま観た映画がつまらなかったわけがいっぺんにわかった。

 植草さんのお葬式が終わって、弔辞を読まれた淀川さんはぼくに声をかけてくれた。
「甚ちゃんは幸せだねぇ。あんたみたいに心配してくれる人がいて」

 ある試写会で淀川さんが野口久光さんと並んで座っていた。ぼくは四〇代で東北新幹線の車内誌の責任編集をしていた。後ろから声をかけると淀川さんだけが振り向いた。
「キュウコウさん、この人、日本一ひどい人なの。田舎の人相手に都会の雑誌を作ってるんだから」
 あれは目上の人にもらった人生最大の賛辞だと思う。その雑誌に連載していた野口さんはプログラムに目を落としたまま、
「高平さんなら、チョーさんよりもっと前から知ってますよ」
「あら、キュウコウさん、ぼくに焼餅やいてる」
 あの場の嬉しさはうまく説明できないので、人に言ってもただの自慢話のように聞こえてしまう。

 淀川さんはレギュラーをしているテレビ局が本社を移動してからは、隣りにあるホテルに住むようになった。そこで中華料理をご一緒した。席に着くなり顔馴染みの若いウエイターをからかった。こういうときの淀川さんはやけにテンションが高い。機関銃のように制服姿の若者に突っ込む。
「この人ねぇ、部屋に遊びにいらっしゃいって言うんだけど一度も来ないの。あんたがねぇ、いい男だからってなにもしないから」
 淀川さんがその手のジョークを言うのは聞いたことがなかった。それからご自分のいつものメニューをさっさと頼むと、料理が来て一時間もしないで、慌ただしく立ち上がった。
「はい、ご馳走さん。今夜はありがとうね。高平さん、せっかくだから、ぼくの部屋見ていかない? 汚いけどいらっしゃい」
 部屋は小さめのスィートだった。いや、本の山で小さくなっていたのかもしれない。
「植草さんの部屋を思い出しますね」
「甚ちゃんの部屋の百分の一も、本はありません。それよりね、ぼくが毎晩マリリン・モンローとジェームス・ディーンと一緒に寝ているベッドルームを見てちょうだい」
 案内されて奥の部屋に行くと、淀川さんは得意そうに長い枕を二本持ち上げた。ひとつにはモンローの横顔が、もうひとつにはディーンの横顔がプリントされていた。
「わたしね、この間で寝るんです。こっち向くとモンローがいて、寝返るとジミーがいるの。毎晩、この二人と一緒に寝ているのは世界中でわたし一人ですよ」
「はぁーすごいですねぇー」
と、訳の分からないリアクションをしてベッドルームを出ると、
「帰るのね? それじゃ、さよなら」
 何事もご自分のペースだから、こういう場合、かえって帰りやすい。廊下に出ると、ドアから顔を出して、
「いつでもいらっしゃいね。はい、さよなら、さよなら」
 と茶目っ気たっぷりに久しぶりにニギニギを見せて下さった。

 ミュージシャンたちが『聖者の行進』で野口先生の棺の乗った車を送ったとき、淀川先生は椅子に座ったまま両手を合わせてていらした。きっと胸の中で「さよなら」と言っていらしたに違いない。
 あのお葬式の後、どこかで淀川さんにお会いしたかった。先生はパーティや試写会にもあまり顔を出されなくなった。入院しているという噂を聞いても見舞いに行ってもいいものかと悩んだ。ぼくにとっての淀川さんは大きな存在だが、ぼくのことなど忘れているかもしれない。
 でも狭い歩幅で足早に歩くこともしなくなった淀川さんに会わないでおいてよかったのかもしれない。会った途端に「さよなら」を言いそうなあの慌ただしさこそ淀川さんだ。