まえがき

 お話を始める前に、この本を書いたのがどんな人間か、紹介しておこうと思う。
 僕は三十五歳で、東京に住んでいて、主にロックとかジャズとか映画について、雑誌に原稿を書いて暮らしてる。CDを聴いたりDVDを観てその批評や紹介文を書いたり、ミュージシャンやソフト制作の裏方さんを取材して、それを記事にまとめたりするライターである。
 この本の前に一冊、単行本も出しているんだけど、『格安世界一周お二人様ご一行』(講談社)という、やたらと長いタイトルの旅もので、僕が文章を書き、カミさんの柴田靖子(戸籍上は「山下」なんだけど対外的には別姓でやってる)がイラストを描いた本で、一九九三年の十ヵ月間、二人で世界のあちこちを旅行したときの日記と毎日の家計簿が載っている。結婚してから二年間でお金を貯め、二人ともそれぞれ勤めていた会社を辞めて、飛行機に飛び乗った。それはとても楽しい旅行だった。初めて見る街の景色、匂い、食べ物、飲み物、そして出会う人……すべてが目新しく、その十ヵ月の間、僕らは浮かれていた。七年たった今でも、その旅行で味わったさまざまな断片が、ふとしたときに脳裏や鼻腔をかすめることが、よくある。
 日本に帰ってきて、二人はフリーランスとして働き始め、一九九六年の十二月に初めての子供が生まれた。
 しかし、その女の子の身体にはちょっとした問題があり、やがて水頭症という病気と診断されることになった。水頭症になった子供のすべてがそうなるわけではないことを強調しておかなくてはいけないけれど、彼女は四歳を目の前にした今も、自分でお座りすることもできなければ、言葉を話すこともできない。知的にも身体的にも「障害児」だ。だけど、とても元気だし、よく食べるし、よく笑う。僕はときどき、彼女のことを人に「元気な寝たきりです」と紹介してひんしゅくをかったりしている。
 この子のおかげで、僕たち夫婦はさまざまな喜びと動揺を経験し、また、たくさんの素敵な人たちとそうでもない人たちに出会うことになった。この本に書かれているのは、病気や障害を抱える子供を持った親(とくに父親)が、最初の三年間とちょっとのあいだにどんな経験をし、どんなことを考え、そしてどんな行動に出たかという記録である。僕たちは毎日のように、昨日まで知らなかった世界に足を踏み入れていった。その意味では、これは僕の二冊目の旅行記と言ってもいいのかもしれない。



第一章 名前は晴子

一九九六年十二月十三日

 こんなこと、書くのも馬鹿げているけれど、その日は十三日の金曜日だった。一九九六年の十二月十三日。あと三日遅ければ、僕とカミさんが結婚してからちょうど六年って日だったんだけど。別に狙っていたわけじゃなくて、偶然、そんなタイミングになってしまった。その結婚記念日というのは、僕と彼女の誕生日の間を取って決めた日でもあった。僕のが六日で彼女のが二十六日。だから、出産予定日が近づくにつれて、子供が十六日に生まれてくれればわかりやすくていいな、と思ってはいた。
 だけど、まあ、こうしたことは思うようにはいかないものだ。結局のところ、人生のすべては、自分が予想したり期待するようにはいかない。それは大きくかけ離れていく。良い方向へ? それとも悪い方向へ? どっちとも言えるし、どっちでもないとも言える。おそろしく悪いと思ったことも、後になればそれほどでもなかったと思えるようになるのかもしれない。どこに連れていかれるのか、最初はこわくてこわくてたまらなかったのに、実際に行ってみれば意外と楽しいところだったって気がつくこともある。
 町の小さな産婦人科だ。実は前の日にもそれらしき兆候があって、「そろそろかな」と思って夫婦二人してやってきたのだけど、まだ早かったみたいで、いったんは家に帰ったのだった。だけど、今日のはどうやらホンモノらしかった。
 医院に着いたのは夕方の六時頃で、彼女はすぐに分娩室に入れられ、一時間もしないうちに子供の頭がのぞいてきた。
「おおー、出てきた出てきた」
「……出た?」
 この産婦人科は二十年近く前から父親を出産に立ち会わせているのが自慢だったから、僕もその場にいてカミさんの手を握りながら言葉をかけていた。何時間、何十時間もかかる人もいると話に聞いていたから、こんなに簡単に産まれるなんてちょっと拍子抜けだった。だからと言って、それが感動的な体験でなかったということじゃない。立ち会いを経験してる友人たちは「感動して泣いたよ」なんて口々に語っていたけれど、新しい生命が母親のからだからこの世界に出てくるという瞬間は、やはり、胸を打つものだった。自分が今まで感じたことのないような、そう、嬉しいとか悲しいとかいった気持ちはすっ飛ばして、自分が人間であり、それ以前に生き物なんだってことをあらためて自覚させる、身体の中心がグラグラと揺さぶられるような、そんな光景。
 医者は爺さんで、といってもまあ、六十歳くらいだと思うけど、僕にヘソの緒を切らせてくれる。まるでゴムホースでも切っているような感触だった。
 助産婦の一人が出てきた赤ん坊を抱いて見せてくれた。女の子だ。
「ウチの兄貴に似てるな」って笑いながら僕が言ったら、なぜかもう一人の助産婦がギョッとしたような顔をした。まだそのときは彼女がどうしてそんな表情になったのか想像もつかなかった。
 しばらくして赤ん坊は別の部屋に連れていかれ、爺さんが「じゃ、だんなさん、ちょっとこっちへ」って言う。廊下をはさんだ向かいの小さな部屋にはアクリルの透明な板に覆われた保育器があって、その中に小さな彼女が横になっていた。赤ちゃんってのは産まれたあとは保育器に入るものなんだっけ? 家にあった育児書に書いてあったっけなぁ、なんて考えてたら爺さんが切り出した。
「実は赤ちゃんにちょっと問題があるんだ」
 彼が赤ん坊の後頭部を指さすと、首のすぐ上あたりに、ピンポン玉くらいの、たとえは悪いけど、金玉の片方みたいなルックスをした瘤がぶらさがっていた。
 わーお。
 ビックリした、っていうよりは、なんだかよくわかんなかった。これは、つまり、どういう状況なわけ? 立ち会っただけとはいえ、人生初めての出産を経験して、頭の中はすでに真っ白だった。それがここにきて白さが眩しいほどに増していき、ついには真ん中から焦げだそうとしている。映写機がストップして熱に耐えきれなくなったフィルムのように。爺さんが続ける。
「詳しいことはまだわからないけど、これはおそらく脳みそを覆っている髄膜が飛び出したものだ。ときどきこういうことがあるんだね。背中から出たり、もっと大きなものだったりすることもある。長年この仕事をやってきて実際に出会ったのは三人くらいだ。この瘤の中身が髄液という水だけだったら手術で切ればいいんだけれど、中に脳まで入っているようだと深刻だ。それから、こういうことがあると、身体の別の部分にも問題があることが多い。実際、この赤ちゃんは呼吸があまり上手くないみたいだしね……」
 保育器には酸素ボンベがつながっていた。そういえば、母親から出てきたとき、赤ん坊はあまり泣いていなかった。ちょっと気にはなったのだが、なにしろこっちは初めてのことだから相場がわからない。助産婦がお尻をペチペチ叩いて泣かせようとする様子を、まあ、こういうものなんだろうな、と思って見ていたのだが、ノー、ノー。こういうものじゃなかったわけだ。
 あ、そういえば、あれもヘンだったよな、といろんなことを思い出してきた。子供が出てきてすぐのこと、助産婦の一人が鼻をすすり始めたのだ。泣いているのである。昨日や今日プロになった若い人ならともかく、もうこの道何十年、といった感じの肝っ玉母さんみたいな人なのに。こんなベテランでも子供が産まれるたびに感動しちゃうのかなあ、なんてそのときは意外に思っていたのだが、そうではなかったのだ。彼女は赤ん坊の瘤を見た瞬間に、これからこの小さな赤ちゃんが、そしてその親である僕たちが味わうであろういろんなことを、一瞬のうちにイメージしてしまっていたのだろう。
 それにしてもまあ、この人たちも大したもんだ。僕たちに赤ちゃんを見せてる間、まるで手品のタネをバラさないように、頭の後ろの瘤が見えないようにしていたんだから。だけど、内心はビクビクもんだったと思う。「兄貴に似てる」って言葉にギョッとした助産婦の表情。あれは、僕が瘤に気がついて何か言い出すんじゃなかろうかと思って、待ちかまえていたんだろう。それがまるで違う話だったから混乱してしまったのだ。
 だけど、彼女や医者に対して怒る気にはなれなかった。それよりもこの目の前の事態にどう対処していけばいいのか。
「まいったな」
 そんな言葉、しょっちゅう口に出しているけれど、今回のばかりは、本当に心の底からの「まいったな」だった。多分、これから先にもこれ以上にリアルな「まいったな」はないと思う。いや、もちろん、人生に何が起こるか知れたものじゃない。そのことを今の今勉強しているわけなんだけど。
 爺さんは子供をすぐに大病院に移した方がいいという。前に勤めていたという病院に電話をかけ、ベッドの空きを確認し、続けて子供を搬送するための救急車を呼んだ。なんでも保育器のついた救急車があるそうで、しかし数が限られているので少し手間取っている様子だったが、なんとか手配はついた。
 さあ、しかし、ここからが問題だ。
「で、奥さんにはどうする? 今伝えるかい?」
「いや、それはダメでしょう」
 僕はいつもは優柔不断な人間なのだが、このときばかりはハッキリと答えた。だってそうだろう? 出産という一大イベントをすませて、肉体的には疲れ、しかし精神的には幸せな高揚でハイになっているであろう彼女に、いきなりこの事態を伝えるなんて、酷すぎやしないか。いや、それはちょっとカッコつけてるな。そういう気持ちももちろんあっただろうけれども、むしろ、僕はこのことを彼女に告げている自分の姿を想像したくなかったのだと思う。そもそも僕自身が、今何が起こっているのか、赤ん坊がこれからどうなっちゃうのか、まったくわからない。それなのに、彼女に何をどう言えばいいんだ?
 僕は今二階のベッドで休んでいるカミさんがこの事実を知らないことにどこかで安心しながら、その一方でなんで自分だけが先に知ってしまったんだろうと悔やんでいた。悪い知らせというものは最後に聞く人間にならなくてはいけない。それを人に伝える立場なんてまっぴらゴメンだ。とにかく、今日のところは、この件は隠しておこう。
 爺さんや助産婦は「じゃあ、どうしよう?」って困惑している。「どうしよう?」じゃないぜ、まったく。医者ってぇのは切ったり貼ったりするだけの商売か? こういうときに頼りになってくれなくっちゃよ、と思ったけれど、まあ、白衣を脱げばお互いただの人間だから、困るときは誰だって困る。こうなったら仕方がない。結局、当事者は僕なんだから、腹を括った。今から一芝居うつしかない。主役は僕、演出も僕。あんたたちは、せいぜい舞台の端をうろうろしててくれ。
「こうしましょう。今からちょっと上の部屋で彼女と話してます。しばらくしたら呼びに来てください。『もう夜も遅いし、ほかの方の迷惑にもなるし』とかなんとか言って」
 僕は二階のベッドルームに上がった。バレずにこの芝居をやりおおせるかどうか、一瞬不安になったけど、まあ、やってみるしかない。
 カミさんは笑顔で「赤ちゃんは元気?」なんて聞く。辛かった。「うん、もう寝ちゃったみたい」なんて適当に答えた。もちろん笑顔で。まあ、ちょっとくらい変なところがあったって一生に何度あるかというイベントの余韻だと思ってくれるだろう。それに彼女のほうが僕よりも普通じゃないはずだし、なんて思ってたら、窓の外の下で、赤いランプが静かに回っているのに気がついた。救急車が着いたらしい。カミさんが勘づいたらどうしよう、って僕は不安にかられていた。なんのことはない、気がつけば、さっきの助産婦らと同じ立場に立っていたわけだ。なんて猿芝居の連続なんだろう!
 間もなく、打ち合わせどおりに助産婦の一人が上がってきて言った。
「だんなさん、もう遅いですし、今日のところはそろそろいいですか?」
 ヘンにきつい調子で、やけに大きな声だった。それが癇にさわったっていうか、なんか無性に腹が立ってきた。まあ、彼女は彼女の役を演じるのに必死だったんだろう。僕の描いてた進行がちゃんと運んでいるんだからそれでいい。だけど、少しはこっちの身にもなってくれよ。
 同じ部屋のベッドにもう一人の女性がいて、「あ、私は全然平気ですから……」なんて気を遣ってくれて、いい人だったんだけど、彼女の好意を受けたら計画が狂ってしまう。「いや、そろそろ帰ります」って立ち上がって、カミさんにはゆっくり休んでよ、また明日くるからって言い残して部屋を出た。幸い彼女は何も疑問を感じてなかったみたいだった。なんとか、この場は無事に幕が下りたわけだ。
 だけど、安心してはいられない。まだ僕は主役の座から降りられない。それどころか、これからが本篇のスタートなのだ。しかも、台本は真っ白で、どんな舞台にどんな役者が登場するのかも聞かされてない。
「お父さんですか?」
 救急車に乗っていた隊員に聞かれて、思わず否定しそうになった。「お父さん」って言葉から連想するのは、カミさんの親父さんや十五、六年前に亡くなった自分の父親の顔だったからだ。だけど、それはもちろん僕のことだった。
 すでに子供は車内の保育器の中に移されていた。隊員とそれから産院の爺さんと一緒に、僕は救急車に乗った。救急車に乗るのは生まれて初めての経験だった。その意味では、赤ん坊は僕よりも三十二年も先をいっているわけだ。
 隊員は自分の子供が生まれてすぐに黄疸で入院した話をして、僕を力づけようとしてくれた。「子供の弱ってる姿見たら、涙チョチョ切れちゃいますよねー」なんて軽い調子だったが、残念ながらこっちの気持ちは全然楽にならなかったし、大した返事も返さなかったような気がする。ただ、保育器の中の子供の顔を見つめたり、後部の窓の外を流れ去っていく道路を見ていたり。
 救急車は僕とカミさんが住んでいるコーポの側を通り過ぎた。それからしばらくすると、今度は僕らが結婚した直後にしばらく住んでいたマンションの横も。病院までのコースがたまたまそういう道順だっただけのことなのだが、僕はなんだか自分の人生のビデオテープを逆回転で見せられてるような感覚に陥った。結婚してからもう七年。僕とカミさんがつき合い始めたのはそれよりさらに六年前のことだ。十三年? 決して短い時間とは言えない。僕は窓の外をボーッと見ながら、「その結末がこれなのか」って思ってた。


命に別状はありません

 背の高い病院に着いて、僕らは小児外科の入院病棟に入った。大体九時くらいで、もう入院している子供たちの就寝時間に入っていたのだろう。エレベーターを降りると、暗くて静かで、ナースステーションの蛍光灯だけがまぶしく光っていた。
 子供は頭の写真を撮るためにすぐに医師たちに運ばれていった。救急車で一緒に来てくれた爺さんは引き渡すべき医師に、出産のときも、出産前にも何の問題もなかったことを説明していた。
 僕はまた「お父さんですか?」と聞かれた。これで二回目だったわけだけど、やっぱり躊躇なく「はい」って答えることはできなかった。
 その問いを発した看護婦は、ちょっと驚いてしまうくらいの美しい女性だった。だけど、こんなとんでもないシチュエーションにいてさえ、まだ女の人が美しいことに感嘆し、かすかにしろ喜びを感じてしまう自分が情けなくもあった。まったく男というものは。
 彼女は僕に名前とか住所とかいくつか基本的な質問をして紙に書き込んだ。そして、今からあるフロアの受付に行って、子供の入院手続きをすませてきてほしいという。その受付までの道筋がちょっと入り組んでいたので、僕は彼女の説明を頭にとどめておく自信がなかった。よほど混乱してたのか、彼女の顔を見つめているのに忙しかったのか。とにかく、そこまでの行き方を簡単な地図に描いてもらって、エレベーターに乗った。
 一番近い存在である僕が、生まれたばかりの子供のそばにもいられず、書類に何かを書き込んだりするようなことしかできないなんて悲しいことだ。でも、今の自分にできることはほかにないんだから仕方がない。
 エレベーターを降りたら、暗がりの中で何人かの人たちが沈鬱な表情で立ち尽くしていた。きっと、誰かが亡くなったんだろう。あんまりそっちは見ないようにして、僕は受付のある別館への渡り廊下へと足を進めた。白くてとても長い廊下。足が重かった。一歩進むたびに、廊下の先端が一メートル向こうに伸びているような気がした。
 受付の人に入院申込書のフォーマットをもらって、書き始めた。〈本人との続柄〉の欄で、一瞬ペンを止めた。「またか」って思いながら、そこに「父」と書き入れる。これで三回目だけど、今回は自分で手を動かして紙に書いたから、またちょっと重みが違う。多分、この瞬間に僕は父になったんだろう。普通だったら、「父親になった」って実感は、ほとんど自分でも気がつかないうちにだんだんに刷り込まれていくんだろうけど、僕は一気にならざるを得なかった。
 困ったのは〈本人〉の欄のほうだった。自分の名字を書いたまではいいが、そのあとが続かない。仕方がないので空けたままにして渡すと、係の人は迷わずアルファベットで"Baby"と書き足した。
 僕は同じ通路を戻って、元いた場所に引き返した。さっきの廊下は来たときよりももっともっと長くなってるような気がした。エレベーターの前の人たちの何人かが泣いていた。白くて静かで暗くて悲しい空間。俺は一体こんなとこで何やってんだ? つい二時間前は、子供が産まれてバンザーイ! って気持ちだったのに。
 病棟に戻ると、爺さんはもういなくなっていた。自分の役目は終わったと判断して帰ったんだろう。CTを撮って帰ってきた子供が車輪の付いた小さなベッドに乗せられて病室に吸い込まれていく。医者たちは写真からいろいろ判断することがあるんだろう。しばらく姿を見せず、僕はただナースセンターの前の椅子に放置されてボーッとしていた。いや、はた目にはそう見えただろうけど、頭はこれから起こりうるいろんなことを想像してグルグル回ってた。
 しばらくすると、何人かのお医者さんと看護婦さんに呼ばれて、狭い部屋に入った。そういうことを説明するための部屋なのだろう。壁にはレントゲンの写真を見るためのライトボックスがあって、何段階にもスライスされた小さな頭の画像が、黒地に白く浮き上がっていた。
「とりあえず命に別状はありません」
 彼らの説明によると、子供の後ろ頭の瘤は、産院の爺さんの言ったように髄膜の飛び出したもので「脳瘤」とか「髄膜瘤」と呼ばれるものだった。多くの場合、それができる理由はハッキリしないという。
「髄膜というのは脳と頭蓋骨の間にある膜で、その膜の中には髄液と呼ばれる液体があって、脳細胞の老廃物を運んだり、外からの衝撃を防ぐ役目をしています。幸い、瘤の中はほとんど髄液だったのでこれを切除することは可能です。ですが、手術の際に感染症が起こる可能性はありますし、また手術が成功してもこうした子は往々にしてスイトウショウになる可能性も高い。脳の真ん中にノウシツという髄液を作り出す部分があります。ここが脳の周囲の髄液と交通しているんですが、スイトウショウになるとノウシツが大きくなっていくんです。写真を見るとこの子も少しノウシツが大きいようだし……。子供の頭蓋骨は柔らかいので、ノウシツが大きくなると当然頭も大きくなっていきます。脳味噌の部分は内と外から圧迫を受けて、紙のように薄くなってしまう……」
 スイトウショウ? ノウシツ? どんな字を書くんだ? これまで聞いたこともなかった言葉を次々と浴びせられて、僕はクラクラしてきた。本当に、なんだって自分はこんなところに来ているんだろう?
 彼らは、瘤切除の手術が無事にすんでも脳になんらかの障害が出る可能性は否定できないし、知能や運動の発達も普通の人のようではないかもしれないと続けた。話を聞いてるうちに、生まれたばかりの子の気の遠くなるような長さの未来がドーンと重くのしかかってきた。
「……とりあえず検査を続けて、お母さんが退院されたらまたお話をして、手術の日取りを決めたいと思います」
 彼らとの話を終えて、僕はもう一度自分の子に会った。看護婦さんから、面会者用に用意された白衣を渡され、消毒液の入った石鹸で入念に手を洗うよう指示を受けた。生まれたばかりの子供、しかも病気を抱えてる子たちのいる部屋に入るには、それなりの用意がいるようだ。
 子供は裸にオムツをつけただけの状態で、保育器は透明なケースから、オープンなタイプに替わっていた。天板には温度を確保するためのヒーターが付いていて、裸でも寒くはないようにはなってるみたいだ。頭の瘤はガーゼでクルリと覆われていて、それを直に見ずにすむのにはちょっとホッとした。
 身体には点滴のチューブと、体温、脈拍、呼吸数、そして血中の酸素濃度を測るためのセンサーが付けられて、ひとつひとつから白、黄、緑、赤のコードがそれらの値を示す表示器に繋がっていた。脈拍に合わせてピッ、ピツ、という電子音が鳴って、それにつれて赤い光の数字も変わる。これがこの子が生きてる証拠だ。だけど、看護婦さんがその機械に設定した基準値をはずれると、ピーッ、ピーッというせわしない警告音が鳴り始めるような仕掛けになってて、それがまたしょっちゅう鳴るものだから、不安にさせる。だけど、その基準値はレッドゾーンの入り口ってわけでもないらしくて、向かいのナースセンターからやってきた看護婦さんはリセット・ボタンを押しながら子供の様子を眺めて、それ以上何かをするわけでもなく、もといた場所に戻っていった。
 子供はもう眠っていた。まもなく夜の十一時。とりあえず、今日はもう帰るしかない。
「じゃ、また明日来るからな。がんばれよー」
 生まれたばかりの子供に言葉なんかかけても仕方ないんだけど、でも、口に出さずにそこを出ていくのはちょっとダメな気がした。なんの意味もないとしても。