『ニルスのふしぎな旅』を旅して

 若いときにスタート点となったものに、ゴールでまためぐり合う――そういうことが、いくつか重なった。六十年生きていると、いろいろな出来事や出会いが、そういう円形を描くことに気がつく。もう遠く過ぎ去ったものとしか思っていなかったことが、ブーメランのように手元に戻ってくるのだ。たいていの場合、それは嬉しい驚き、ハッピー・サプライズだ。私の人生でいくつ、そういう円を持てるのだろう。
 新聞社を定年になる寸前、とつぜん私は入社したばかりのころの思い出に引き寄せられた。卒業した都立立川高校の同窓会誌に「ニルスとのふしぎな出会い」と題するエッセイが載っていたのだ。香川という名字が懐かしく、もしやと読みすすめると、それは『ニルスのふしぎな旅』を邦訳された香川鉄蔵さんのご長男で節(みさお)さんとおっしゃる、私の先輩にあたる方が書いたものだった。
 香川鉄蔵さんには、三十数年前、幾度かお目にかかった。当時、七十歳を過ぎていらしたけれどお元気で、あたたかくいろいろ教えてくださった。日本人がこの童話を知っているのは香川さんが訳してくださったからなのだけれど、節さんの書かれたものを読むと、それは前半だけで、後半は部分的な訳でしかなかったとのこと。いつか完訳をしたいと思っていらしたのがかなわないまま鉄蔵さんは亡くなられ、その意志を継いだのが歌人としても著名な節さんだった。そして全訳を果たし、日本語で始めて原文の完全な訳が偕成社から文庫全四巻で出ているということだった。
 私はさっそく香川節さんに手紙を書き、文庫本も手にいれた。さし絵は原書のものをいれているという全訳を、私はいとおしく読んだ。香川さんは東京・八王子市のご自宅に「ニルスの友の会」をもち、近くの市民センターなどで読書会を開いたり北欧の文化研究やスウェーデンにちなむ楽しい催しなどを開いておられる。「ニルスニュース」も数を重ねている。私も会に参加させていただき、翻訳が出しただけですませず、訳者として物語の背景や文化的意義などを解きすすめられていることに感銘を受けた。(中略)
 さて、いまから四十年近く前、一九六二年に、この『ニルスのふしぎな旅』がスウェーデンで映画化され、それを記念して世界二十一カ国からニルスと同じ年齢の十二歳の男の子がスウェーデンに招待された。日本代表の男の子を決める仕事を朝日新聞社がスウェーデン側から委任され、たくさんの候補者の中から小学校六年生の崎田憲一君が選ばれた。その崎田君と一緒に八月にスウェーデンに行き、取材するように命じられたのが、その年の四月に入社したばかりの私だったのだ。
 私は中国・大連で生まれて六歳までいたという以外、外国に行ったこともなく、飛行機に乗ったこともなかった。羽田空港すら見たことがなかった(東京に住んでいるというのに)。小学生をつれて外国に行き英語で取材するなんて、気が遠くなるほど大変なことだ。当時はまだ日本から持ち出せる外貨に制限があり、誰でも気軽に海外へいかれる時代ではない。どこの会社でも、誰かが海外出張ともなれば部をあげて羽田空港(もちろん成田空港も関西空港もなかった)に見送りに行く。そんな時代だった。数百人の中から選ばれた崎田君は、体格はいいし、いつもにこにこしていて人間もできているし、誰が見ても不安でいっぱいの新米記者よりはるかに頼りになる存在だった。「高橋さんを頼みますよ」と崎田君が大勢から言われて二人はスカンジナビア航空機で旅立った……