はじめに

 この本は、一九九七年三月から二〇〇〇年一月まで三年近くかけておこなわれた、サントリー文化財団主催の研究会の成果をまとめたものである。毎回テーマを定め、第一線のゲストスピーカーのお話をうかがい、研究会定例メンバーを交えて討論を続けた。最終回の研究会では全体の総括をおこなった(紙面の都合で最終回以外の討論部分は省略したが、最終回討論にはそれまでの成果が反映されている。また、ゲストスピーカーには、討論やその後の展開を踏まえて新たに原稿を書き下ろしていただいた)。
 最近では、IT(情報技術)革命やデジタル社会という文字がマスコミに氾濫している。IT革命はかつての産業革命に匹敵するという声さえ少なくない。かくして議論が百出する。だが、その多くは経済や技術に関するものだ。つまり、IT革命を成功させるには、規制緩和をはじめこれこれの経済政策をとるべきだとか、あるいは、どのような分野の技術開発が急務だとかいった議論である。
 このような議論の重要性は否定できないにせよ、それだけではIT革命やデジタル社会化の本質を掴むことは決してできない。なぜなら、今回の変化において問題なのは、経済や技術だけでなく、むしろ身近な“文化”の次元であるからだ。言いかえると、一般消費者の生活感覚や日常意識において、地滑りのような変化が予見されているのである。普通の人々を巻きこまなくては、それは真の革命の名に値しないだろう。
 コンピュータが社会を変えるという議論はもはや新しいものではない。すでに一九六〇年代、情報化社会というキーワードを聞いた覚えがある。ちょうど日本に汎用大型コンピュータが本格的に普及しはじめ、銀行オンライン・システムなどが盛んに開発された頃だった。しかし当時、高価なコンピュータを持てるのは官庁や一流企業くらいであり、ゆえに技術革新はいわば生産者サイドの領域にとどまった。一般消費者にとっては、給与が銀行振り込みになったりするくらいで、直接縁のない話に過ぎなかったわけだ。
 今回のIT革命の意義はここにある。すなわち、誰もが、パソコン、ワープロ、携帯電話といった安価なデジタル機器を持つようになり、インターネットという画期的なインフラを通じて、誰もが、誰とでも、場合によっては国境さえ軽々と越えて、対話しあうことが可能になったのである。この影響は、単に情報関連産業が盛んになって株価があがるといったことにとどまらない。一般の人々の思考や欲望、さらに社会のしくみまでも根こそぎ変容させていく。
 例をあげればきりがない。たとえば、携帯端末の出現で若者のあいだに新たなコミュニケーション・スタイルは生まれるのか? デジタル技術によって情報の記録編集が容易になるとき、芸術活動の可能性はいかに広がり、その反面、著作権制度はどうなるのか? 軍事や学問、さらに宗教などのあり方は変容していくのか? 市民のあいだの国際交流は盛んになるのか? その一方で、デジタル社会特有の犯罪の恐れはないのか?……
 これら具体的な問題を考えるにあたっては、ただ現象を理解するだけではなく、知覚、身体、共同体といった基本的な位相から考え抜いていかなくてはならない。このために、徹底して「IT革命を“文化”から見る」というアプローチをとることにし、メンバーは次の通りで、経済や技術の専門家ではなく、むしろ人文系中心の構成とした(敬称略、順不同)。山崎正和(文明評論家・劇作家)、川本三郎(映画・文芸評論家)、鷲田清一(大阪大学教授・哲学者)、田中明彦(東京大学教授・国際政治学者)、若林幹夫(筑波大学助教授・社会学者)、西垣通(東京大学教授・情報学者)。

 考えるべき問題は多岐にわたるが、粗っぽく整理すると二つに大別できる。第一は「IT革命でいかなる新たな人間活動が出現するか」であり、第二は「IT革命で既存の人間活動はいかに変容するか」である。前者では既存の活動分野がそのまま残っていて、そこに新手が追加されるのにたいし、後者では既存の活動分野が新手によって置き換えられてしまう点が異なる。もちろん、実際には両者はかなり重なり合っていることが多いが、理念的にはひとまず分けた方が分かりやすい。影響の仕方が異なるためだ。
 第一グループに入るものとして、まず、岡田朋之さんの「移動体メディアと日常的コミュニケーションの変容」があげられる。岡田さんは、ポケベルや携帯電話などの新しい移動体メディアにつき、実態調査をふまえた分析をおこなっている気鋭の研究者である。携帯電話によって若者の人間関係が希薄になったという意見がよく聞かれるが、実は「多層的な人間関係を形成する」メディアであるという。インターネットに接続できる携帯電話が爆発的に普及しつつある今、こういう新しいコミュニケーションにメスを入れるべきだろう。
 ついで登場をお願いしたのは、コンピュータと法律の関連を基軸に独特の文明批評をおこなっている名和小太郎さんである。「電子化時代の著作権制度」では、電子メディア・コンテンツのビジネスに興味をもつ者にとって、まさに聞き落とすことのできない諸点が語られた。「所有」という概念そのものが、二一世紀には変質していくかもしれない。
 インターネットでは多様なテキストが国境を越えて行くが、このためには国際的な文字コード体系が整備されていなくてはならない。小林龍生さんは、現在そのもっとも有力な候補となっているユニコードの委員会に参加している唯一の日本人である。「多言語情報処理の社会学」は、単に文字コード問題の域を越え、「国民国家と言語」の関係について清新な洞察を与えてくれるものだった。
 ITは学問にも新しい風を吹き込む。「複雑系経済学」の提案で知られる経済学者塩沢由典さんは、「計算機科学と学問的思考」において、IT革命が新たな学問の契機をはらんでいると力説する。世界経済の動きがますます掴めなくなりつつある現在、コンピュータを駆使した新しいモデルによる予測への期待は大きくふくらむ。
 一方、これらの光明と共に暗部もある。警察庁の専門家である倉田潤さんの「ネットワーク犯罪」では、IT社会の生んだ鬼っ子のような魔物に、いかに対処すべきかが的確に紹介された。IT社会とは、本質的に犯罪に対して脆弱な社会である。電脳オプティミストの見落としがちなネットワーク犯罪にも冷静な目を向けることが、実はIT社会の健全な発達には不可欠なのだ。
 以上のような第一グループに対して、第二グループでは、ITが既存分野を(完全とは言わないまでも)塗り替えてしまう点に着目する。小林宏一さんは、専門的メディア研究者の立場から、いま進行しつつあるメディア革命の俯瞰図を示した。インターネットは当初、近代産業社会を乗りこえるポストモダン的な特徴をもっていた。だが、それがビジネスに開放されるとともに、次第に二〇世紀の近代社会への回帰の様相をも示しつつあるという。まさに、「メディア変容の現在」で扱われた問題こそ、現在のメディア論にとって最大のテーマなのである。
 ITがもっともドラスティックに変えつつある分野は、軍事であるかもしれない。名高い軍事評論家である江畑謙介さんの「情報革命と軍事革命」は、この分野に疎い参加メンバーにとっては驚くことばかりだった。戦闘のやり方はITで激変し、今や米国は戦場での情報通信能力において絶対的な優位を手にしたという。一方、その米国すら、サイバーテロの巨大な不安を抱えているのだから皮肉なことだ。
 芸術に話題を転じよう。一般の人々、とくに若者たちにとって、ITによる最近の音楽の急激な変容は見逃せない。デジタル音楽評論の第一人者、細川周平さんの「デジタル・テクノロジーと音楽」は、技術の変化を丁寧にあとづけながら、誰もが参加できる二一世紀のデジタル音楽の未来を描きだしてみせる。
 それにしても、気にかかるのは、このようなIT社会と宗教との関わりである。日本を代表する宗教学者、山折哲雄さんの「情報社会を遊泳する日本の神」は、この問題に直接答えるわけではないが、トポス(場所)性の強い日本の神と、距離感やトポス性が再編成されるIT空間との関わりについて、興味深い示唆を与えるものだった。
 このように具体例はさまざまである。売れっ子の社会学者である大澤真幸さんは、これらの具体例を踏まえ、「電子情報社会の主要な論点について」を語る。そこでは、若者を中心に進みつつある権力、知覚、身体性などの変容が犀利にえぐりだされるのである。

 言うまでもないが、以上で問題が尽くされるわけでは決してない。しかし、具体的な問題に光を当て、「IT革命と文化」について一般的かつ枢要な論点を浮上させるという意味では、それなりの成果があったと確信している。
 とりあえず座長は私がつとめたが、定例メンバーはいずれも論客ぞろいで、毎回、刺激にあふれる有意義な議論が繰り広げられた。三年で一応の区切りをつけたが、この先いつまで続いてもよいと思えるほど、楽しい研究会だった。最終回のとりまとめ討論が果てしなかったのは言うまでもない。

 最後に、お忙しいなかを毎回ご参加いただいた定例メンバーの方々、興味深いお話を聞かせてくださった上に本書のために原稿を書き下ろしていただいたゲストスピーカーの方々、そして大変お世話になったサントリー文化財団の方々にたいし、心から御礼を申し上げる。

 二〇〇〇年九月 西垣 通