第1章「神様の贈りもの──『食いしん坊』より


 人は、なつかしい匂いを胸一杯に吸い込むように子供時代を味わい、思い出していく。今の私の中に透かし模様のように編み込まれているいろいろな思い出や、私が夢見る料理は、私の生い立ち、生まれ育った土地の歴史、私を取り巻くこの小さな地域に結びついた印象や風景の細かな横糸でできている。月日が流れ、今の私には家族の歩んできた道のりを誇らしく思う気持ちが日増しに強まっている。覚えているかぎり、私は台所の中をあっちこっちへ這い回ってはそこで過ごし、遊んでいた。だから、学校のある時、台所から離れていると、まるで追放されたように感じていたものだ。私の子供時代におけ最も強い思い出は、おいしいものを食べる喜びであったことはまちがいない。私の父母は誇りをもって仕事をしていた。そして、私はこの“誇り”というミルクで育てられた。
 子供はとほうもなく食いしん坊なものだ。次から次へ味をみたり、かじってみたり、飲み込んでみたり、くちゃくちゃかんでみたり、なめたり、指を鍋や皿に突っ込んでみたり、手当たり次第、庭や市場の果物にきれいな歯でかぶりついたりして、止むことを知らない。子供時代、おいしいものをかすめとって、こっそり食べるといった小さな盗みは、誰しもが経験したことがあるだろう。私は子供たちのこういうところも大好きだ。
 子供の頃に食べた、刻んだパセリをきれいに散らしたサラダを今でも覚えている。上手に育てられた、とてもやわらかで色あざやかなサラダ菜。その切り口からは大きな乳色の樹液がにじんでいた。かじるとパリパリと音をたてる葉。その音は今でも私の耳の中で聞えている。栄養学者に言わせると、私たちはひとつの匂い、ひとつの風味を一○年と覚えておくことはできないらしい。馬鹿げた話だ。私は祖母のつくってくれた白タマネギを添えた仔牛肉のくらくらするようないい匂いをはっきりと覚えている。ジャガイモのピュレの真ん中に慎重に窪みをつくり、そこにきれいな金色のあつあつのソースを流しい入れる祖母の姿が今でも目にうかんでくる。秋の日の午後、私を呼ぶ祖母の声。「ポーロ、庭をひとまわりしようか」。祖母と一緒に庭へ出て、まだ熟れていない果物を、こっちではマルメロ、あちらではリンゴや梨といったように穫り集めてくる。祖母はそうした果物の皮を剥き、黒光りしたフライパンを引き出して、そこに大さじ二杯分ほどのバターを加え、ジャガイモと同じように炒め、しっかりと火がとおったら、ざらめ糖をふりかけて、ひっくり返し、キャラメル状になったところで私に食べさせてくれた。思い出すとなつかしさで目頭が熱くなってくる。こんな風に、グルマンディーズっていうのは愛の賜物でもあるのだ。第5章
 「私のダイエット? それはよく食べること」より
 身体が欲するものを多すぎもせず少なすぎもせず与えることで、人体の働きの法則に敬意を払うこと、それはまた、食卓の楽しみという根本的に欠かせないものに敬意を払うことでもある。この2つは対になっているのだ。今では、カロリーの消費量は食品に含まれる栄養価によるだけでなく、味付けや料理の仕方の独創性にも左右されることがわかっている。最近の研究によると、実際に、おいしい食事の後では人体の諸器官によって“燃やされる”エネルギーの量は、同じ素材でも味気なく料理された食事の後に比べてほぼ2倍になるそうだ。
 だから技術を駆使して、意識されない好みや好き嫌いを満足させながら、食べる量を減らす必要を考慮したメニューを組み立て変化させる。そして、自分だけの食生活を管理できることだ。私はこの本を確固たる法則にもとづいて、食卓に並べるべき品々をあげつらねた無慈悲な案内書にするつもりはない。だからルセットそのものはいっさい載せないことにした。ただ、食卓の楽しみのための味の発見と私たちが仕事をしたり遊んだりして生きていくための最低量を食べるという必要性の間に妥協点を見出そうとしてみた。
 油脂を用いないのは無理な相談だった。油脂分なしではどんな料理もまずくなってしまう。そこで私は油脂の使い方を工夫した。好物のタンポポのサラダを作るときには、それまではなかったことだが、卵とベーコンとチーズ風味のクルトンのうちの一つを付け合わせとして選び、あとはあきらめる。脂身の多い肉は避ける習慣をつけた。焼く時にはアルミホイルで包み、オーブンで焼く、こうすると風味を生かせるうえ、余分なバターや油を使わないですむ。また、煮汁やエキスを引き出すために加えたワインが煮ている間に蒸発してしまう牛肉のココット煮は最適なメニューだ。ナイフの下で軟らかく切れ、蒸し焼きにしたとろけるような野菜を敷いた乳飲み子牛の一切れはどうだろう。シュークルート。その香りが大好きななので、絶対ににあきらめられそうにない。でも付け合わせに気を配ることにした。つまり各種の豚肉加工品を添えるかわりに、ボンレスハムか赤身肉を一切れ選ぶことにした。上質なブレス産鶏はどうだろう。丸ごと串焼きにして、極く少量の油をたらし、皮をこんがりキツネ色にする、最高においしそうだ!魚は、茹でたり、網焼きにしたり、紙包み焼きにしたり、いろいろできるから、メニューや味つけはいくらでも増やすことができる。骨付きの鯛や平目をひとしずくのオリーブオイルとニンニクでオーブン焼きにするのも悪くない。
 付け合わせは野菜のラタトゥイユ、油脂を加えず、最後には蒸発してしまう程度の水を加え、野菜に香りを移す。夕食にはつきもののスープもやめることはない。パセリやポワローによく合う、小振りのジャガイモが2個入ったからといってダイエットの質がさがるわけではない。ミネストローネなど痩せようとする人にはもってこいの品だ。オリーブ油を少なめにして、スパゲッティの量を減らせばいいだけだ。具だくさんのこの料理は空腹を満たし、すぐ満腹にしてくれるから、あとはサン=マルスラン半分と一切れのパン・ド・カンパーニュで充分だ。
 (中略)
 食べる時はゆっくりと時間をかけること。食物をしっかりと味わって、気持ちのいい環境でくつろいで食べること、これが私のルールだ。もちろん、言うまでもないことだが、食事に招待されたり、招待したりする楽しみは決してあきらめなかった。食事の集まり、それを欠いたら人生は苦悩だけだろうから、さしあたって度を超さないようにし、少しずつ意思を鍛えていくことにした。もちろん、自分のルールを守れなかった事も何度かあった。こんがりと焼け、表面がつやつやした乳のみ子羊肉をおかわりをすることをどうしてやめられようか。それに、野兎やヤマシギやキジやペルドロー(*ヤマウズラ)をパイ生地でつつんで焼いたパテ、ジューシーで、湯気の立つあったかくてとろけるようなテリーヌに抵抗できるだろうか。できはしない、おかわりしないようにと切り分けたとしても同じことだ。だからと言ってそれで悲劇的な結果になりはしない。大事なことは、なぜルールに従うのかを把握し、違反を受け入れ、その時は味わっても、明日には“遅れを取り戻す”ことだ。違反を罰しようと何も食べないのはおすすめできないが、例えば二食とも白身魚で我慢するということもできるだろう。
 (中略)
 少々冒険的な旅行もできるようになった。例えば、北極海諸島への探検は数年前だったら肥満のため耐えられなかっただろう。そこにはイヌイットの村々と雄大な風景があった。私は零下35℃の中で吹き荒れる猛烈な風にも耐えて生き延びた。スノーモービルに乗ってツンドラの大地を行き、アザラシの肉−挽肉にしたり、燻製にして出された−を食べた。この赤身肉の肉質は興味深いもので、いろんな料理法を試してみると面白そうだった。 北極海諸島ではまるで若者に戻ったような気分で、北極海のカワヒメマスを釣ったり、あの魅惑的な雪国のペルドリや雷鳥を仕留めた。そこでは友人たち、ヴェルサイユのレストラン、『トロワマルシェ』のジェラール・ヴィエや、ギイ・サヴォワや、アトランタのレストラン、『ラ・リヴィエール』のジャン.バンシェ、そして息子のジェロームがいっしょだった。
 私は人生そのものがひとつのごちそうだってことを再発見したのだ。なってくる。こんな風に、グルマンディーズっていうのは愛の賜物でもあるのだ。第5章
 「私のダイエット? それはよく食べること」より
 身体が欲するものを多すぎもせず少なすぎもせず与えることで、人体の働きの法則に敬意を払うこと、それはまた、食卓の楽しみという根本的に欠かせないものに敬意を払うことでもある。この2つは対になっているのだ。今では、カロリーの消費量は食品に含まれる栄養価によるだけでなく、味付けや料理の仕方の独創性にも左右されることがわかっている。最近の研究によると、実際に、おいしい食事の後では人体の諸器官によって“燃やされる”エネルギーの量は、同じ素材でも味気なく料理された食事の後に比べてほぼ2倍になるそうだ。
 だから技術を駆使して、意識されない好みや好き嫌いを満足させながら、食べる量を減らす必要を考慮したメニューを組み立て変化させる。そして、自分だけの食生活を管理できることだ。私はこの本を確固たる法則にもとづいて、食卓に並べるべき品々をあげつらねた無慈悲な案内書にするつもりはない。だからルセットそのものはいっさい載せないことにした。ただ、食卓の楽しみのための味の発見と私たちが仕事をしたり遊んだりして生きていくための最低量を食べるという必要性の間に妥協点を見出そうとしてみた。
 油脂を用いないのは無理な相談だった。油脂分なしではどんな料理もまずくなってしまう。そこで私は油脂の使い方を工夫した。好物のタンポポのサラダを作るときには、それまではなかったことだが、卵とベーコンとチーズ風味のクルトンのうちの一つを付け合わせとして選び、あとはあきらめる。脂身の多い肉は避ける習慣をつけた。焼く時にはアルミホイルで包み、オーブンで焼く、こうすると風味を生かせるうえ、余分なバターや油を使わないですむ。また、煮汁やエキスを引き出すために加えたワインが煮ている間に蒸発してしまう牛肉のココット煮は最適なメニューだ。ナイフの下で軟らかく切れ、蒸し焼きにしたとろけるような野菜を敷いた乳飲み子牛の一切れはどうだろう。シュークルート。その香りが大好きななので、絶対ににあきらめられそうにない。でも付け合わせに気を配ることにした。つまり各種の豚肉加工品を添えるかわりに、ボンレスハムか赤身肉を一切れ選ぶことにした。上質なブレス産鶏はどうだろう。丸ごと串焼きにして、極く少量の油をたらし、皮をこんがりキツネ色にする、最高においしそうだ!魚は、茹でたり、網焼きにしたり、紙包み焼きにしたり、いろいろできるから、メニューや味つけはいくらでも増やすことができる。骨付きの鯛や平目をひとしずくのオリーブオイルとニンニクでオーブン焼きにするのも悪くない。
 付け合わせは野菜のラタトゥイユ、油脂を加えず、最後には蒸発してしまう程度の水を加え、野菜に香りを移す。夕食にはつきもののスープもやめることはない。パセリやポワローによく合う、小振りのジャガイモが2個入ったからといってダイエットの質がさがるわけではない。ミネストローネなど痩せようとする人にはもってこいの品だ。オリーブ油を少なめにして、スパゲッティの量を減らせばいいだけだ。具だくさんのこの料理は空腹を満たし、すぐ満腹にしてくれるから、あとはサン=マルスラン半分と一切れのパン・ド・カンパーニュで充分だ。
 (中略)
 食べる時はゆっくりと時間をかけること。食物をしっかりと味わって、気持ちのいい環境でくつろいで食べること、これが私のルールだ。もちろん、言うまでもないことだが、食事に招待されたり、招待したりする楽しみは決してあきらめなかった。食事の集まり、それを欠いたら人生は苦悩だけだろうから、さしあたって度を超さないようにし、少しずつ意思を鍛えていくことにした。もちろん、自分のルールを守れなかった事も何度かあった。こんがりと焼け、表面がつやつやした乳のみ子羊肉をおかわりをすることをどうしてやめられようか。それに、野兎やヤマシギやキジやペルドロー(*ヤマウズラ)をパイ生地でつつんで焼いたパテ、ジューシーで、湯気の立つあったかくてとろけるようなテリーヌに抵抗できるだろうか。できはしない、おかわりしないようにと切り分けたとしても同じことだ。だからと言ってそれで悲劇的な結果になりはしない。大事なことは、なぜルールに従うのかを把握し、違反を受け入れ、その時は味わっても、明日には“遅れを取り戻す”ことだ。違反を罰しようと何も食べないのはおすすめできないが、例えば二食とも白身魚で我慢するということもできるだろう。
 (中略)
 少々冒険的な旅行もできるようになった。例えば、北極海諸島への探検は数年前だったら肥満のため耐えられなかっただろう。そこにはイヌイットの村々と雄大な風景があった。私は零下35℃の中で吹き荒れる猛烈な風にも耐えて生き延びた。スノーモービルに乗ってツンドラの大地を行き、アザラシの肉−挽肉にしたり、燻製にして出された−を食べた。この赤身肉の肉質は興味深いもので、いろんな料理法を試してみると面白そうだった。 北極海諸島ではまるで若者に戻ったような気分で、北極海のカワヒメマスを釣ったり、あの魅惑的な雪国のペルドリや雷鳥を仕留めた。そこでは友人たち、ヴェルサイユのレストラン、『トロワマルシェ』のジェラール・ヴィエや、ギイ・サヴォワや、アトランタのレストラン、『ラ・リヴィエール』のジャン.バンシェ、そして息子のジェロームがいっしょだった。
 私は人生そのものがひとつのごちそうだってことを再発見したのだ