おきなわのドーナツ(まえがきにかえて)
沖縄のおやつによく出る、サーターアンダーギーというお菓子がある。
砂糖・油(=アンダ)・揚げ。
子どものこぶしほどの大きさの、丸い、外が固くて中身はふんわりと柔らかいドーナツの一種である。
近ごろは関東でも見かけるようになったが、やはりこういうものは地元で揚げたてをガブついたほうが味がある。
この沖縄風ドーナツだが、手に付く油もなんのその、ほくほく状態でむさぼっていると、ぼくはいつも「戦争」という文字が思い浮かんでくる。口の周りや手に残った油を紙で拭き取っている時などに、照屋林助が歌う「生き返り節」を思い出すのである。
それは、こんな歌である。
特配ぬ脂(あんだ) 鍋(なび)にしりなして
焼ちゅるフィラヤーチぬ
音(うとぅ)の清(ちゅ)らさよ 匂いの香(か)ばさよ
うりからどぅ我(わ)ったやヨ
生ち返(げ)えやびたんでえ
(訳)特配でもらった脂、鍋にすり込んで、作るヒラヤチのあの音、あの匂い。これで私ら生き返ったん だよ。(当時のヒラヤチ=平焼きは、具がほとんど入っていない小麦粉を焼いただけのもの)
沖縄の本島、南部にひめゆりの塔がある。沖縄戦において、けがれなき姫百合学徒隊が悲壮な死を迎えたことを伝えるその公園の、国道をはさんで立つ土産物屋の一軒に、揚げたてのサーターアンダーギーが売られている。むろん、うまい。
日本兵や沖縄の民間人が逃げ惑ったという洞窟を観たあと、店で買い求めたサーターアンダーギーの小袋を抱えながら国道をぼちぼち歩く。南部には、いたる所に慰霊碑が、記念公園が、洞窟が、野戦病院の跡があり、それは死人(しびと)の集合地帯とでも言いいたいほどに往時をしのばせる旧跡が幾つもある。うららかな陽光の下で、ひんやりとした静寂の空間を持つのがこの地域だ。こんな場所で、ぼくが手にしたサーターアンダーギーはとても温かい。その温かさゆえに、ぼくは戦争を感じる。
照屋林助の「生き返り節」は、戦(いくさ)によって野原に焼け出され、捕虜となった人たちが、なんとか食べ物にありついた時のほっとした瞬間を歌にしている。
熱した鉄板にアンダを引いた時の、あの香ばしいにおい。温かさ。さあ、みんな集まって、あるもの混ぜて焼いて食べようじゃないか。さあ、野菜を入れて。沖縄名物、チャンプルー料理の原点がこれである。そして、その場に集まり食事をした人々の生の実感を、しみじみと思い返したのが「生き返り節」である。
沖縄の人間国宝と言うべき照屋林助に、ぼくは沖縄をずいぶんと教えてもらっている。この優しさあふれる父は、私の話はアブラグチ、つまりすらすら言葉が出るだけのムダグチだからと言いながら、煙を上げて焼けていたアンダのにおいが、今でも忘れられないとぼくに語る。その語り口が、すでに歌である。沖縄の民にさんざんの苦痛を味わわせた太平洋戦争の凍り付くような体験が、人々の心の中で複雑に発酵する。心の底から泡を立て沸き上がる感情は、人肌のような温もりをたたえる。歌は人の口からいかにして生まれ出るのか、そのナゼはこういう所にあると、ぼくは思う。
沖縄は歌の島である。
かつての琉球王朝が築き上げた古典音楽があり、本島にも宮古にも八重山にも、たくさんの歌がある。昔は奄美も琉球の一部であったから、それはとてつもない数である。
たくさんの歌が起こり、たくさんの歌が残り、たくさんの新作が生まれ出る島、おきなわ。沖縄にかぎらず、歌の成立、ましてや名作が出来上がる背景には、人間の生のドラマ、強い発酵作用が必ずある。歌の根元には、生きる、というメッセージが必ず込められていると語ったのも照屋林助だが、なるほど、死にたい、殺してやると叫んでいても、その歌い手の本心は「生きたい」のである。
沖縄は、なぜ歌の島であるか。この本は、その秘密に立ち入ろうとするものである。
かつて、日本全土が歌のシマであった時代があった。それぞれの地域の人々が、流れ者と交わり、新しい風を受けながら、土地独自の名曲をつちかった。今、日本にこのようなダイナミクスを持つ場所は、おそらく沖縄しかないとぼくは思う。この本のどこかで、その答えが書き表わせれば幸いである。
ぼくはまた、歌の島であるのなら、沖縄のどこへ行っても歌があふれているという幻想も否定しようとも思っている。観光ガイドにあるような、誰でも三線が弾けて、誰もが歌が得意であるという「定説」も、嘘である。島唄が、沖縄のどの地域でも同じように盛んであるかと言えば、それも違う。三線にしても、かつてはかなりの高級楽器であったし、ましてや学校の先生や親が三線の手習いを奨めるという現象は、特別の人・家系の者以外、最近のことである。
沖縄の歌・音楽は、その素晴らしさゆえに、さまざまな夢をぼくらに描かせる。
夢は、沖縄の人の心にもある。
この本は、これらの夢とは少し異なる場所から沖縄の音楽を眺めてみようと思う。古典音楽も、島唄も、エッチな俗謡も、新しい沖縄ポップも、すべて並列にした上で、沖縄音楽はなぜに素敵であるかを、原点を探りながら語ろうとする。