フェローズ・ロード一四六番地――はじめに
ロンドンでの最初の住まいは、スイス・コテージの駅近くにある築百年ぐらいの赤レンガのテラスハウス(壁のようにすき間なく建てられている家)だった。週五五ポンドの家賃で借りた部屋は最上階で、昔からあこがれていた屋根裏部屋だった。
建物は半地下から数えると五階建て。部屋はベッドシット(Bed & Sitting room)というタイプで、小さいベッドルームとそれより広い居間、シッティングルームがある。居間には簡単なキッチンがついていて、バス・トイレは他の住人たちと共同だ。
屋根がすぐ上にあるので、壁の一部がいかにもそれらしく斜めになっている。その分、部屋は狭くなり圧迫感が出るので、もともと屋根裏部屋は召し使い部屋や物置きとして使われることが多かったのだが、私にとっては、胸がわくわくするようななにかが潜んでいるように思われたのだった。
百年の時をへた屋根裏部屋には、たしかになにか特別の雰囲気があった。
斜めになった壁の横できゅうくつそうな細長い窓から陽が差し込むと、古い家特有のほこりが光のなかで踊るように舞うのが見える。私にはそれが、まるでもうひとつの国からのメッセージのように思え、ときにはまた、妖精たちが光のシャワーを浴びて跳ね回っているように見えたりもした。
年期の入ったじゅうたんや、暖炉、ドアの取っ手、古い花柄の食器までが、じっと耳をすませていると、それぞれの昔語りを始めるようなふしぎな雰囲気に満ちていた。
そんな、私の屋根裏部屋はフェローズ・ロード一四六番地にあった。
たまたま、おなじ通りの一三七番地には、『銀のシギ』や『リンゴ畑のマーティン・ピピン』など珠玉のファンタジーものがたりを書いた作家、エリナー・ファージョン(一八八一
- 一九六五)が住んでいた赤レンガのテラスハウスがある。
その家は、私が住んでいた建物から見ると、やや離れたななめ向かいにある。大黒柱で作家だった父が亡くなり、一軒家にもはや住むことができなくなって、母と三人の兄弟とともに家賃の安いフェローズ・ロードに越してきたのは一九0三年、ファージョンが二十二歳のときだった。
それまで、読書と詩などを書きちらすこと、ものがたりのなかの登場人物になりきって兄と芝居のような遊びをする、という生活にひたっていた彼女もようやく現実にめざめ、苦しい家計を助けるために本格的にストーリーを書きはじめた。
その赤レンガの家は、私のところとまったくおなじ造りのテラスハウスで、彼女の部屋もやはり屋根裏にあった。ということは、南北が逆になってはいるけれど、おそらく部屋の造りも私のとおなじであるにちがいない。
ファージョンの部屋と、おなじ通りのおなじ造りの屋根裏部屋で、八六年ののちに私も原稿を書きはじめ、それで初めて原稿料をもらったということは、きっと何かの意味があるにちがいない。
ただし、その原稿は、当時の私のたったひとつの出し物、『ピーターラビット』と湖水地方についてだったのだが。ピーターラビットとの出会いのはなしは、章を改めてふれたい。
ファージョンとの遭遇になにかの意味を感じたというのは、年を重ねるごとにこの世に偶然などというものはない、と思うようになったことと関連している。偶然として片付けてしまっていることのなかに、実は運命にかかわる重要な意味や印のようなものが含まれている、と私はだんだん感じるようになってきたのだ。
といっても、実際にその通りに住んでいた頃は、まだ特に意味を感じていたわけではない。原稿を書くといっても、ぽつりぽつりとしか仕事はなく、本を書いて生活していくなど夢のまた夢だった。第一、運命や偶然と見えることがらについて深く考えるどころではなかった。
その時すでに私は三十代のなかば、悩んだ末に決心して日本での結婚生活や家、仕事などをすべて白紙に戻し、有り金をはたいてひとりでやってきたロンドンで、現在も将来もよく見えず、でも、なにかを見つけなければもう時間がない、とあせっていたのだ。
あせりながらも、一からすべてを始めなければならなかったので、プレッシャーも大きかった。文字どおり暗中模索していた最初の四年間は、特にそうだった。
人といるときはまだいいのだけれど、ひとりになると気持ちが落ち込んでゆううつ状態に陥ってどうしようもなく、また、ひとりになる時間が多かったので、これでもかというくらいたっぷりと落ち込んでしまった。
いまになってみると、それまで考えるひまもなく突っ走ってきた人生のなかで、自分と向き合ってじっくりと対話をすることができた貴重な時間だったと思う。けれど、渦中にいるときはあまりにも苦しかったので、もう二度とあの頃に戻りたくはない。そんな時代に、日本の友人知人に送っていた私家版「ロンドンだより」には、手書き文字とイラストのたのしい話題をかきつらねていたので、私がいつもホリデーのような日々をすごしていると思った人々もかなりいたようだ。
イギリスに行こうと決めるまで試行錯誤していた日本での最後の三年間も、また別の意味で悩みに悩んだときだったが、だれにもひと言も打ち明けなかったので、まわりからは、「悩みがなく脳天気でうらやましい」といわれていた私である。
きっと日本にいられなくなった理由のひとつは、気を張って、悩みのないしあわせな人を演じていた自分と、その奥で、人生でほんとうにやりたいことは何なのか、私はだれなのかを模索して悩み、また人生の伴侶だと思っていた人とのあいだの埋められない深い溝のふちに立って、ゆううつと孤独に悩まされていた自分のあいだをやりくりすることが限界に達したためだと思う。
ところで、自分の三十代を、私は「堆肥中の種時代」と呼んでいる。食べ物のカスや雑草にまみれて埋もれていたくない、ともがきつつも、養分を吸収して芽を出し、種の時代にはよくわからなかった自分が何の草だったのか、見えてきた時代だからだ。