まえがきにかえて



「歩く学問」、というエッセイがある。
 鶴見良行さんが書いたもので、はじまりはこうだ。
「歩きながら学問を育てた人たちがいる」
 この一行を、口のなかでころがしてみる。

 歩きながら
 学問を
 育てた
 人たちが
 いる

 学問、という言葉以外は、ぼくたちの日々の暮らしから切り離すことなんてできないものだ。ぼくたちは、歩いたり、育てたり育てられたり、している。鶴見さんは、その後に、歩き学問を育てた人たちの名前を連ねていく。
 最初は、アルフレィド・ウォレスだ。
 イギリスの博物学者で、アマゾンやマレー諸島を探検調査した人。
 鶴見さんは、ここで、ウォレスの業績よりも、その歩き方が気になってしょうがないのである。
「かれの歩きぶりは、同時代の白人のなかでもきわだっている。蒐めた標本をロンドンのエージェントを通じて売り、それで暮らしを支えた。つまり自前の旅だった」
「自前の旅行者であるウォレスは、自分だけのために船を仕立てもした。が、しばしば土地者の船に乗せてもらっている。目的地に着けば、小屋を建てたり借りたりした。そこはまったくの海岸であるよりは、いくらか内陸に入った、水場のある森林だった」
 そんな島での生活について、食べ物は村人との物々交換であるがゆえに、行く先々で、その土地の社会との関わりは濃いものになっていく。スポンサーのいない、自前の旅だけに、土地のひとびとの暮らしぶりも、よく見えてくる。そして、次のように書いているのだ。
「ウォレスは、旅を通じてその思想を強めているかのようだ」
 短いエッセイは、日本の歩く学問に動いていく。鶴見は、二人の名前を上げる。
 菅江真澄と松浦武四郎である。
 菅江真澄は、東北から蝦夷に渡り、その一生を行脚にあけくれた。彼は膨大な紀行日記を残している。菅江が渡った蝦夷を踏査し、はじめての蝦夷地誌を書き上げたのが、松浦武四郎だ。
「菅江真澄は約七十年ウォレスより早く生まれ、松浦武四郎とウォレスは同時代人である」
 鶴見さんの好奇心は、この二人についても、その歩き方、に注がれている。
「二人はどのようにして旅の費用をまかなったろうか。芸は身を助く、である。真澄は和歌と国学をよくし、同好の士の家に居候となった。自筆の紀行文も役立ったにちがいない。武四郎の場合は、篆刻の技術である。それにこの時代はどんな山間の一軒家でも、苦難の旅人に宿を提供する親切が民衆にはあった」
 この文は、宮本常一、に連なっていくのである。菅江真澄の残した日記の編集者の一人が宮本だったからだ。宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫)から、鶴見さんは宮本の「歩き方」について、こう引用している。
「こうして道を歩いていて思ったことだが、中世以前の道はこういうものだったろう。細い上に木がおおいかぶさっていて、すこしも見通しがきかない。自分がどこにいるかをたしかめる方法すらない。」
 対馬の山中を歩く宮本、見通しがきかない。そうつぶやく宮本に、村人の「歌をうたっておれば、同じ山の中にいる者ならその声をきく。同じ村の者なら、あれは誰だとわかる。相手も歌をうたう」との一言も、続いて引いている。
 鶴見さんはいう。宮本常一にとっては、「旅、歩くことはすでに、目的地に達する手段ではなくなっている。それはかれの学問の必須の方法だった。」。先のウォレスは、「旅を通じてその思想を強めているかのようだ」。

「歩く学問」は、一九八五年に『世界』六月号に発表されている。ぼくが読んだのは、『アジアの歩きかた』(筑摩書房)だから、その翌年だった。
 いま、読み直してみて、ここで、鶴見良行さんが、歩く学問、にふれているが、学問そのものを論じてはいない。そのことに、改めて気がついた。
 学問を方向づけられた知識の体系と論じることに意味はない。学問がそういうものだと思い込んでいる人にも、私は関心はない。歩くこと、そのことに楽しみがあり、それが学ぶことなんだ。どこを歩くのか。それは、あなたが見つけなさい。本のなかをあるいてもいい。もちろん雑誌という海もある。住んでいる町だって、川だって海だって行くことはできる。島を歩いても、歴史に身をおくことだってできるのだ。
 歩きながら
 育て育てられた
 人たちが
 いる
 そこに学問があるのだ。
 ぼくは、鶴見さんがそう話しかけているようにおもえてならない。
 この本に出てくる人たちは、それぞれで歩いている人たちだ。ジャンルこそ違え、歩くことで学ぶことを広げてきた人たちなのだ。そして、このぼくも気がつくと、「歩く学問」の背中を見つめ歩いている。