プロローグ
オンラインテキストの海から見える読書の未来

津野海太郎×二木麻里


■インターネットでリソースを提供する側の論理

津野 「アリアドネ」の『調査のためのインターネット』がちくま新書から出たのは一九九六年ですね。僕は九五年にインターネットを始めて、いろいろネットサーフィンしていたんですが、おもしろがりながらも、なんとなく心もとない状態だった。ちょうどそのときにあの本が出たわけです。しかも、その本が「アリアドネ」というウェブサイト(http://www.ariadne.ne.jp/)と連動していて、世界中の情報リソース、電子テキスト化された論文や古典にすぐアクセスできる仕組みが出来上がっていた。あれはありがたかったですよ。びっくりしました。
 びっくりした理由は三つあるんです。第一に「すでにこんなにたくさんのリソースの蓄積が英語圏を中心に存在しているのか」とわかったことね。第二に、それらの膨大なリソースの目録がすでにアリアドネのようなかたちでちゃんと準備されていたこと。原典をデジタル化したものや研究論文など、信頼に価するリソース群が、「法学」とか「文学芸術」とか「経済学」とか「哲学」とか「心理学」とかに細かく分類されていて、だれでもそこに簡単にたどり着けるようになっているんですね。辞書や年表や時刻表などをあつめた「ツール」という分類もある。こういう仕組みがいつ、どのようにして出来てきたのだろうと興味をかきたてられました。
 それから第三に、アリアドネというのはいったい何なのか、本を読んでもサイトを見ても正体が分からないんですよ(笑)。どういう人がやっているのか? 大学の研究室みたいなところなのか、個人なのか、民間の小さいグループなのか? まったく何も書かれていない。たしかに「二木麻里」という名前はあるんだけれども、これも「フタキ」と読むのか「ニキ」と読むのか、それとも「フタツギ」と読めばいいのか(笑)。そういう正体不明の、どういう経歴で、どういう仕事をしていらっしゃるのかも分からない人がこれだけ膨大な仕事をやっているということが、ものすごく不思議な気がしたんです。困惑したと言ってもいいんだけど、金も名誉も無関係にこんな大きな仕事を無償でやるということ自体が実にインターネット的だなと思った。その三つのことに僕はびっくりしたんですよ。

二木 とてもささやかな活動なので、どう申し上げたらよいのか……(笑)。私がインターネットと関わったのは比較的古くて、もう一〇年ぐらいになります。まだIIJが立ち上がっていなくて、JUNETの頃ですね。当時UNIX関係の翻訳を多くしていたこともあって、インターネットには一部のLANからログインして使っていました。私自身は特にどこの大学機関にも所属していなかったので、インターネット上のフリーリソースというものがひじょうに貴重だったということがあると思います。実務的な部分で調べ物の必要性があったことと、後は自分なりに哲学などをやっていて、海外のリソースがこんなに無償で出ているのかということに、まず私自身がびっくりしたのです。そのあたりから始まっています。

津野 一〇年前というと、もちろんWWW以前、ブラウザーソフトなんかまだ影も形もない時代ですね。

二木 はい。ネット上にリソースがどんどん出始めたというのは九〇年代前半ぐらいだと思います。

津野 だけど、そういう蓄積はそれ以前から、すでにかなりできはじめていたんでしょう?

二木 拠点がいくつか出来ていました。海外においてもメインな発信源があって、具体的にはアメリカの図書館、大学ですね。そういうところがやはりいちばん早かった。そういうコアリソースと、個人研究者たちによる、分野ごとのゲートサイトが出来始めていました。それと同時にそうした個別のリソースに対して一度にアクセスがかかるようなメタリソースが、海外で九〇年代の前半に出来始めていたということがあります。また、多くの分野の資料をカバーする複合型のリソースの例としては、たとえば『バーチャル・ライブラリー』などが代表的な例だと思います(The Virtual Library http://vlib.org/)。あれはひじょうに大がかりなもので、各国の研究機関をネットワークで結び、発信しているサイト群を繋いで一つの「ライブラリー」と称していました。

津野 そういうものがいくつもあったんですか?

二木 『ヴァーチャル・ライブラリー』の場合は一部門ずつ独立して発信されているわけですが、あれほどの規模の発信は少なく、先駆的な試みだけに運営上は苦労したようです。部門によって発信拠点が移動することも多く、ある発信が追加される一方で別の発信は消えて、ということがよく起きていました。メインのドメインは現在安定していますが、逆にいえば徹底的に分散型の運営体制を保つことで全体として存続しえた面もあると思います。
 一方、個人が一拠点から発信しているメタリソースもありました。ローカルにデータを制作しているわけではなく、完全に外部リンクの集積だけで成立しているのですね。具体的には『ヴォイス・オヴ・ザ・シャトル』などがこれにあたります(Voice of the Shuttle http://vos.ucsb.edu/)。カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校のアラン・リュウという研究者によるものです。
 私自身は『ヴォイス・オヴ・ザ・シャトル』の影響が大きいと思います。独立サイト群の集合体である『バーチャル・ライブラリー』のような形式と対照的に、あくまで個人の自主研究リストでありながら、ヴィジターからみればほとんど同じ機能を実現している。こういうやりかたもあるのかという驚きです。他にもこういった複合コアサイト、あるいはメタリソースとして成立している発信が目立ったもので五、六ヵ所ありました。これはわたしのような雑駁な人間には非常に合っていると思いました。一ヵ所にまとめておいて、すぐ使える。これを日本で、自分用にも作ればまことに便利であると(笑)。

■プライベートとパブリックが重なって共存しうる瞬間

津野 それにしても、あれだけの量の情報をどうやって集めるんですか。しかも悪貨と良貨とをきちんと選別しなければならないでしょう。

二木 よくそう聞かれるのですけれども、『ヴォイス・オヴ・ザ・シャトル』にしても『アリアドネ』にしても、一つの分野である一定以上まで読み込むと、自然に他の分野も出来るのだと思います(笑)。またクロスリファランスを考えても複数の部門をまとめて擁するほうが楽ですし。

津野 それはまあそうなんでしょうが……(笑)。しかしそれにしても、どういう必要というか欲求が二木さんという個人を突き動かしているんですかね。大学や図書館がやるというのなら、それなりによく分かるんですけど。

二木 本を買い揃える書棚の感覚に近かったと思います。古本屋さんの町を歩いて本を買ってくるのと、ほとんど同じです。

津野 一つずつ集めてきたものを棚に並べてみたと。

二木 そうですね。あと、良い専門書店に行くとそこの棚が一棚ぐらい軒並み使えることもあります。そういう「目利きの力」が大きいんです。ただ、仮にまとめて持ってきても、自分の必要性によってまたそこからちがうものに発展していきます。同じ資料揃えにはならないのですね。そのままぴったり自分が使えることにならないのが、リンクの簡単そうでおもしろいところです。リンカーの性格や力量、関心領域のありかたは書棚を見るよりさらにはっきり見える。無理をしているリンクはなんとなく不自然で、資料の揃い方に説得力を感じないのです。使っている本棚と飾ってある本棚はやはり違うのかもしれません。
 私自身も、ある時期に必要があって深く調べた領域は資料が厚くなっていますが、そうでない領域は要所要所をおさえるような感じです。この一本を置いておけば必要な時にはここからたどれるし、探したい人は探せるだろうという置き方をしたりします。いたって無造作なリストで、他のかたはよくこれを使ってくださると思うのですが(笑)、逆にいえば使いこなせるかたはきっと「自分の角度からリソースを読める」のだと思います。個人的なものなんです。

津野 サイトを見た人が「こういうものがあるから登録したらどうか」と言ってくるようなこともあるんですか?


二木 あります。

津野 そういうものも一々チェックしながら採用していくわけか。

二木 はい。ただ圧倒的なサイト発信者のかたはむしろ「これはどうですか」とわざわざ申し出たりされない印象もあります。黙って自分のサイトに掲示している(笑)。それがすでに推薦行為ですから。あるいはメーリングリストでなにかの折にさりげなく言及されたり。実際、これはという発信はどれも非常に個性的で、独立性が高いですね。発信者同士の交流もないわけではないのですが、互いのスタイルに対しては独特の距離と相互尊重があるように思います。
 インターネットの内部でも、サイトやメーリングリストやニュースレターなど、各ツールの性質はそれぞれ非常に異なりますね。サイト発信という領域のなかでも、リソースリストと対照的に、自分で入力した資料を発信しているアーカイヴサイトもありますし。

津野 『プロジェクト・グーテンベルク』(http://promo.net/
pg/)みたいなところはそうですよね。

二木 テクストの場合は、ヴォランティアの人海戦術というあのあり方が成立しますね。マニュスクリプトを高い精度で画像化するような場合はある程度の設備が必要になりますので、研究機関や組織が行なうのが適していると思います。そういう意味でリソースリストはなんらバックアップのない個人の発信として、いちばん身近で日常的なありかたの一つだと思います。

津野 日本の場合、あれだけの規模のメタリンク的なものは他にもいろいろ出来てきているんですか。

二木 ……あんまりないですね。

津野 もちろん専門分野ではいろいろあるけど……。

二木 はい。一つの分野に入っていくための緻密なリストがあります。津野さんもよくご存知のように、いわゆるヴォータルと呼ばれるものです。垂直的な掘り下げ方でリソースを網羅していくヴァーティカル・ポータルですね。たとえば冒頭で話題に出ました『バーチャル・ライブラリー』を編成する各部門の発信などは、それぞれ――分野によって力の差はありますが――ヴォータルですね。
 『アリアドネ』はこうした各分野のヴォータルに一拠点からアクセスするための機能ですから、まことに怠け者の産物です。毎回白紙の状態から探しに行く大変さに比べると、どれだけ楽かはうまく言えません(笑)。リソースリストを発信する人間の多くは、基本的にプライベートなスタートページとして作っていると思います。

津野 たしかに最初はそうだったと思うんですよ。しかし、それをわざわざ公開するとなると、質量ともに、たいへんな仕事になってくる。プライベートな物好きというだけではない、もっと別の理由もあるんじゃないですか。

二木 それは公開しているかたたちに、私自身が助けられてきたということが一つあります。高度なサイトではごく個人的なテーマの追究が行われていると同時に、それが他者にとっても開かれたものになっている。プライベートな部分とパブリックな部分が完全に重なって成立する特性があるのですね。その距離を置いた共存感覚が自分にとっても快適だったのだろうと思います。
 あと私は整理整頓がへたで……

津野 それはないでしょう(笑)。

二木 いえ、本当です。自分の物だと、どうもいいかげんになってしまう。ですが他のかたも使うと思うと不思議に客観的になれるのです。それから物忘れも激しい。自分で調べた資料でも一定時間が経つと忘れてしまいます。ですから短い解説をつけておくほうが自分も思い出せる(笑)。そうしてみると結局自分にとっていちばん使いやすいのは、他のかたが使いやすいかたちにしておくことらしいのです。きっとひと月後の自分は他人なのですね。

津野 それはよく分かります。プライベートなこととパブリックなことが重なっちゃうというのが面白いな。たとえば作家や研究者のサイトなどは、自分が書いた論文とかエッセイとか、いちおう「作品」がメインになっていますね。作品を通して個人が社会と繋がるわけだけれども、「アリアドネ」のようなリンク集だと、日常生活の中で発揮される編集行為が作品化というプロセスを経ないで、そのまま社会と繋がっていくでしょう。そこが面白いんです。個人と社会が作品を通さずに一定の編集行為によって繋がっていくというのは、やはりインターネット的としか言いようがない。
二木 リソースリストは究極の引用作品のようなところがありますね。透明な編集行為にすぎないのに、そこにやはり個性や人格のような属性が生じる。実用的なコラージュというのか、奇妙な成立の仕方をしていると思います。

■知を占有することの意味は消えた

津野 ふつうの社会ではできないことも、インターネットだとなんとか出来てしまう。アリアドネにしてもボイス・オブ・シャトルにしても、ふつうの考え方でいけば、いくら一人でやっていますと言われても、こちらは「こんなもの一人で出来るわけがない」と、いろいろ勝手に想像力を働かせてしまうわけですよ。その想像の部分がいわば伝説としてサイトの周りに漂い始めるんですね。

二木 たとえば『ヴォイス・オヴ・ザ・シャトル』の制作者は英文学者ですが、それと同時にマイノリティーなのですね。その背景もあってか人権問題や人種的多様性といった分野で非常に鋭い解釈性に満ちたリストを提供しています。こういう場合、資料自体がやはりすでに作品性を帯びている。平明に一定以上の水準のサイトを「集める」のであればディレクトリー型のサーチエンジンで可能なのですが、それとはあきらかに違うものが現出している。リストの指向性が激しく透けてみえるのです。そういう意味で、個人が選んだ優れたリストには独特の感銘を受けることがあります。こういうありかたが成立し得るのは、このメディアの特性の一つですね。
 情報の取捨選択能力、編集能力がこれからは鍵だという表面的な話をよく聞きます。ですが、それは目先の効率性を追求するのとむしろ全くかけはなれたところで成立する力ではないか、能力というより問題意識のありかたではないかという気もするのです。どれだけ深い疑問を持っているか、どれほど激しい必然性を持っているか。求心力のある優れた発信からはそういうメッセージ性を強く感じます。それはむしろ効率を考えない姿勢ですね。とらわれることの価値というか(笑)。

津野 むかしは丸善に洋書が五冊入ったとしたら、他の同業者に使わせないようにそれを全部買い占めてしまうとか、そういう仕方で情報源を私有して公開しないというようなことが、よくあったみたいですね。そこまで派手じゃなくても、似たようなことは活字本の時代にはみんなやっていたんじゃないかな。そういう時代がやっと終わったということなんでしょうね。インターネットとなると、もはや情報源の私有とか独占によって特権が保証されるという世界ではないしね。

二木 ここまでネットで自動的に出来るとしたら、出来ないものは何か? ということは考えさせられます。自分で文章を書いたりするというのは、どんなにネットが発達してもそれとは別に起きてくる。それから知識量が関係なくなってくるという意識が、自分の中に起きた実感なんです。すごく逆説的ですけれど、その先へ抜けてしまう部分が出ると感じました。

津野 個人ではなく大学や図書館の場合でも、そういう、いってみれば公共的なセンスがきちんと出来ているかどうか。アメリカの場合はそこが早かったですね。日本はまだまだですけど。

二木 インターネット上でリソースを確保しつつ、それを公開しないという精神が私はいまだによく分かりません。パスワードをかけて学術関係者だけが閲覧できるというようなことをやっていますね。セキュリティ上ほんとうに必要のある行為なら分かるのですけれど、明らかにそうではない場合はよく分からない。大学の費用を使ってやっているから大学関係者のメリットだけに制限するべきである、というポリシーなのだろうとは思うのですけれども。

津野 すさまじいね。そういう事例はかなり多いんですか?

二木 たとえば去年から問題になっているのが国文学研究資料館の発信する、岩波書店の「日本古典文学大系」のデータベースですね。あれはかなり厳しい資格審査をやっています。まだテスト段階ということもあるのでしょうけれど。具体的な個別例がどうということではなくて、知を制限するというか、本を買い占めるようなことで確保できていた優越性の感覚が、いまのネットで通用するのかは疑問ですね。

津野 一つには国有財産法の縛りがかかっているということがある。もう一つは、いずれそれがなんらかのしかたでお金になる時点を計算しているんだろうな。

二木 商業的な理由なり法律的な問題がある、ということであれば、それはまだ分かります。

津野 たとえば韓国や中国では、いざ電子図書館をつくろうとなると、まず既存のテキストのデジタル化を優先するんだけど、日本の場合はなかなかそっちには踏み込まないんですね。著作権問題だとか、最先端の技術を確立するのが先決だとか、いろんな理屈をつけて、さぼっているのか自制しているのか分からない状態になってしまう。韓国でも中国でも、アメリカの電子図書館技術の直輸入であろうとなんであろうと、ともかくはじめてしまおうという調子でやるから、時には不都合が起きたりもするんですけど、でもそれはそのうち解決すればいいやという感じなんですね。ところが日本の場合は、技術的、実際的な問題の他にも、漢字や印刷物のもつ伝統的価値が電子化によって損なわれてしまうかもしれないというような文化的な精神主義からくる規制が気持ちのどこかにあるから、大学にしても図書館にしても、いつまでもぐずぐずしていて大胆に動きだそうとしない。同じ漢字圏なのに、どうしてこうも違うんだろうと思います。

二木 デジタルアーカイヴと言いますか、図書館のテクスト化についてきちんとした計画が見えてこない。特にEテクストで身近なものといえば、人文系のテクストだと思うのですけれど、学者の方たちによるとあの領域がいちばん抵抗が大きいというのです。それに近い抵抗感は、出版社にもあったのかも知れないんですけれども。

津野 その種の抵抗感がなぜ生まれてきて、なぜその先に進めないのかというのは、ほんとうに大きい問題だと思うな。

二木 インターネットに資料を載せる必然性に対してまったく理解がないと言われる点ではありますね。だから、学術的なテーマでメーリングリストを作った場合、一番参加が多いのは院生の方、助手の方、それから学部生です。あの方たちはまったく抵抗なく入ってこられるんですけれども、その上の層が動かないということがあります。いま、先端的なネット化を進めている大学というのは、たまたま誰か一人か二人、ひじょうに分かっているキーパーソンがいて、その人がひっぱっている。まったく個人的な資質に依存しているようですね。

……(続く)