まえがき


 大倉孫兵衛は天保十四(一八四三)年生まれ、息子の大倉和親は明治八(一八七五)年生まれだから、はるか過去の人ではないかと思われるかもしれない。しかし、この父子がのこしたものは、実はわれわれのすぐ身近なところで見ることができる。
 どんな人でも一日に何度かはトイレに入るが、そのたびに便器に記されたTOTOやINAXの商標を見るに違いない。そのメーカーである「東陶機器」は、衛生陶器では業界トップ、「イナックス」は第二位であると同時に内外装タイルでは世界一。いずれも大倉和親が初代の社長だった会社である。
 電気はいまでは水と空気のごとく重要であり、従って送電線に用いられる碍子もわれわれの生活に不可欠のものである。今では世界一の碍子メーカーに成長した「日本ガイシ」もまた大倉父子によって誕生し、和親が初代社長として敏腕をふるった会社である。自動車もまた電気に近いほど日常化したが、その点火装置に用いられるスパークプラグのメーカー「日本特殊陶業」は「日本ガイシ」から分離独立した会社で、国産車がなかった時代からずっと業界トップ。世界でも二位を維持している。
 以上四つの陶磁器関連メーカーは、もともと森村市左衛門や大倉孫兵衛が設立し、大倉和親を社長としてスタートした「日本陶器」に端を発し、ここから独立して大きくなっていったのである。同社は、近代的な陶磁器メーカーとしては日本で最初に成功した会社であると同時に、貿易商社「森村組」を通じて陶磁器をアメリカに大量に輸出し、明治・大正期における日本の輸出貿易の花形企業だった。これらの輸出陶磁器は、その美術的価値の高さから、今は「オールド・ノリタケ」という名で古美術市場の人気アイテムとなっているが、その初期にアート・ディレクターとして製造の責任をになっていたのが大倉孫兵衛である。「日本陶器」は、「ノリタケカンパニーリミテド」に改称されたが、高級陶磁器の食器に関しては、依然として業界トップの地位にある。
 最新の法人所得番付によっても、現在「森村系」と言われている以上の五会社は、「陶磁器関連部門」で一位から五位を占めている。
 大倉父子と現在の接点はまだまだある。規模は小さいが国内では最高級の磁製食器をつくる、皇室御用達の「大倉陶園」も、大倉父子がはじめた手づくり的な製陶所だった。もともと絵草紙屋だった大倉孫兵衛は、明治時代に同業者の中でもっとも出来のいい錦絵や地図を世に送って注目されていた。それらは、今や貴重な歴史資料や古美術品と化し、高値で売買されている。孫兵衛はまた、絵草紙屋から本格的な出版社に転換して成功した唯一の出版人で、「大倉書店」を明治・大正期における日本の代表的出版社へと結実させた。落合直文の『ことばの泉』(国語辞典)、登張信一郎の『独和大辞典』、三橋四郎の『大建築学』などのほか、夏目漱石の最初の単行本である『吾輩ハ猫デアル』も、二冊目の『漾虚集』(短篇集)も同社から刊行されたのでる。
 用紙の需要が和紙から洋紙へと転換するのを見越した大倉孫兵衛は、出版業や貿易業のかたわら、洋紙問屋の「大倉孫兵衛洋紙店」も開業した。それは創業百十余年の現在も「大倉三幸」という社名でつづいている。東急・東横線の大倉山駅に近い「大倉山公園」と「大倉山記念館」は、洋紙店の三代目社長だった大倉邦彦がつくった「大倉精神文化研究所」から横浜市へ譲られたものである。
 孫兵衛と和親がかつて使っていた神奈川県湯河原町の大倉別荘は、同町に寄付されて現在「湯河原温泉万葉公園」になり、観光客を楽しませている。
 大倉和親の活躍もまた陶業の世界のみにとどまっていなかった。世界的な種苗会社である「サカタのタネ」、工芸ガラスの「各務クリスタル」、金属洋食器の「関刃物」は、和親が資本を投入して支援した会社である。彼はまた愛知県大府に土地を購入して桃の果樹園を経営し、郊外住宅を分譲してディベロッパーの先駆けになるような事業まで行っている。かつてこの地にあった和親の別荘は、今は大府市民の憩う「大倉公園」となり、園内に建つ市立図書館や福祉会館は、「大倉会館」と総称されている。

 大倉父子はいったいどのようにして以上のような仕事をのこしたのだろうか。そのことを追求しようとしてこの本を書いたのである。