まえがきにかえて
  ノンフィクション作家 柳原 和子

がん、と告げられてから、三年が経過した。三年間の身体と心の詳細な経過については本文を読んでいただくことになるが、前頁の俳句とともに、ここでは概略をのみ記す。
手術、抗がん剤の現代医学による治療は八ヶ月に及んだ。がん患者にならなければ経験するようなこともなかったであろう繊細で温かい思い出がひとつひとつ、積み重なっていっている。
だが、一方で同病の仲間が次々に亡くなっていくのを見送った体験は、周囲の想像以上に私の心に深い傷を、そして現代がん医療への当惑と、混乱、悲しいまでの疑問を私に残した。もしかしたらその傷を癒すために、私は[愚挙][異様]とも窺える闘病をつづけたのかもしれない。

やすらかに死にたい。
あわよくば、……治りたい。

その闘病とは、社会と隔絶した、さながら修行者のような暮らしだった。遍路、または千日回峰行を想像していただければいいだろうか。日の出とともに起床、山野を巡り、神仏、路傍の仏に祷り、空や大樹と対話をつづけ、玄米、たくさんの種類の野菜、海草を摂るだけの毎日。過去を贖罪し、決して未来を見つめず、自分の歩く足音を聞きながら自然に身をゆだねた。夜は蝋燭を灯し、昼は木漏れ日を浴びつつ、音楽に耳を傾けていた。
結果として、三年を生きた。
病院、治療、医師団、看護婦、患者仲間、家族、友人、京都の町並み、人々……すべてが、これ以上は望めない力となり、私を救い、支えつづけてくれた。感謝の日々である。
現在の体調は、抗がん剤の副作用による白血球と血小板の減少以外はすべて薄気味悪いほど完全な数値へと蘇っている。
だが、薄気味悪い、という表現が私の患者体験を如実に物語っている。幸せの実感は不幸の兆し、と条件反射のように全身が萎縮する。いまだに、怯えているのだ……。
いったい、なにに?
死、と答えたい。だが、死についてはことあるごとに、いつかはやってくる、と自らに言い聞かせている。達観はできぬものの、なんとかして生物としての必然、と受け止めようと心がけている。どうしても受け入れられないのは、入院中に仲間と共有してきた、数々のあの「治療と死と後悔、そして恨みの物語」ではないのか。

「先生、どうしてもっと前に再発を発見してくれなかったんですか?」
「先生、この治療でほんとうにがんは治るんですか?」
素朴で本質的なこの問いに、じつはほとんどの医師は答えられない。だが、やさしい人間であればあるほど、夢を抱いて医師になった人であればあるほど「治る可能性」を説く。
しかし、いずれは現代医療では治せない段階がくる。
必死に夢見たばら色の世界は儚く、もろくも崩れ去る。激しい副作用を耐えて耐えてしのいだがゆえに、後悔は深い。さらに医師への懇願と依存が深ければ深いほど、こうした素朴な疑問は医療と目の前の医師への恨みに転じやすい。
「あんなに厳しい副作用を耐えてきたのに、あの治療はいったいなんだったのか!」
「あの医者はこうなるとわかっていて、この治療を勧めたのではないか!」
「見捨てるのか……」
静かに近未来に訪れる死の事実を受容できる人もいる。諦められる人もいる。しかし、決して受容できない、諦めきれない人もまた多いのだ。
だが、ある種のがんは不治を告知されてからが、とても短く、そして長い。楽しい時間を過ごすには短く、悲しいことを思い悩むには長すぎる時間。さまざまな後遺症、身体的障害を抱えながら、いかに過ごしたらいいのか? 治療についてはどのように考えるべきなのか? 私の悪化はがんによるものなのか? それとも治療によるものではないのだろうか? 納得できる死はないのだろうか? その時間をいかに過ごしたらいいのだろうか?
治すことを目的に進歩を遂げてきた現代医療は、治せない患者の具体的な心、日常のプログラムについては無力だ。だが、なにがどうあれ、人生の終幕を怨みでは終えたくはない。
お手本がほしい、と私は思った。

やすらかに死ねるための方法はないのか?
あわよくば治る処方箋があるのではないか?

それに答え得るのは、末期がん、再発進行がん、進行がんを宣告されながら五年、十年、二十年を生きてきた患者たちをおいてほかにはない。考えてみれば、現在の医療は、健康な人々の創り出したものであり、患者たちの体験の蓄積によるものではない。患者たちの肉声は医療に生かされてきてはいないような気もする。だから、医療がいかに努力して編み出したプログラムであっても、患者は最後に納得できない、怒りと悔恨を感じるのではないか。

そして……。
私は、五年生存を果たした日米の患者を訪ね歩いた。テープレコーダーを持って、がんを告知されてなお十五年、二十年を生きてきた人々の言葉に耳を傾けつづけた。
「いかにしてあなたは生きてこられたのか?」と。
もちろん、闘病中であったために、取材範囲は生活圏を越えることはできなかった。友人、近所の知人、代替療法の会合で出会った患者仲間が精一杯だった。
「がん・治すための患者学」はこうして、二年前に取材が始まった。

さて、この本の構成を説明しておかなければいけない。とても、分厚く、長い文章がつづく。だが、語り手の言葉を著者の意図で取捨選択しない、という決意の結果である。やむをえない。
できれば、最初から通して、一本一本を読み遂げていってほしい。一ページ目から最終ページまで、できれば順を追って読んでいってほしい。文字が詰まっていても、読みやすくする努力は尽くした。私の力量不足は、患者や語り手の熱意が補っていってくれている。それ以上は読者の協力を仰ぐだけだ。しかし、長い苦行を読者に強いるお詫びとして、この本がどのような構成で成り立っているのか、事前に知っていただこうと思う。

この本は三部構成で成り立っている。
第一部は末期がん、再発がん、進行がんを告知され、五年以上を生存した患者たちの闘病体験を収録している。
冒頭に記した私自身のつづけてきた数々の代替療法を含む自然の暮らし、闘病プログラム(具体的には巻末に記す)はさまざまな代替療法機関、会合に出かけたり、いくばくかの人間関係を頼りに、重篤な症状に陥りながらも、独自の闘病スタイルを確立し、五年どころか十年以上を生きている人と出会い、彼らを訪ね、いかに生きてきたのか、を問いながら確立したものだ。
絶望と混乱の渦中で無我夢中になっていた頃は、彼らの闘病談義をノートに記録していた。しかし、途中からはテープレコーダーに録音させていただくことにした。きっと長期にわたってこうした闘病をつづけている患者の体験は、いずれ私のみならず迷いの渦中にあるにちがいない他の患者、家族にも関心があるはずだ、と直感したからだ。テープを自宅に持ち帰り、文字に起こす。わからないところは、もう一度訪ねて、聞き直す。そして私は彼らの語るあらゆる代替療法を実践し始めた。そうして集めた原稿をさらに二年後に作品にできるほどまでに手を加えたのが第一部第一章に掲載してある原稿群の一部である。
さらに、手術から二年目にアメリカの患者を訪ねた。入院中にお世話になったロサンジェルス在住の入江健二医師に紹介を受け、三人の患者の話を聞いた。第一部第三章にその記録を収めた。
私の若き友人山村基毅は、私のこうした試みに賛同し、病状を案じながら私の及ばない取材を積極的に手伝ってくれた。彼は、代替医療を推進している機関に取材のお願いと題する書状を送り、長期生存者の紹介を受けてインタヴューをする、という方法でかかわった。二つの代替医療を取り入れている病院、さらに二つの代替医療機関、そしてひとつの健康食品製造・販売会社からの紹介を受けている。しかし、いくつかの事情により、第一部第二章にはそのうちの一部の患者さんの証言しか載せていない。その理由はあとがきにおいて解説する。

第二部は、闘病中に私がつづけてきたさまざまな角度から深く医療にかかわっている専門家へのインタヴュー、対話が集められている。テーマは、いかにして現代がん医療を恨まずに生き、納得した死を迎えられるのか?
こうしたテーマの対話は、じつは入院中から周囲の友人、医師、弁護士、作家たちと深く続けてきた。しかし、それらの対話は記録をしていなかった。
第一部に掲載されているような患者たちの体験を聞きながら、同時に私の仲間たちの死に付き合いながら、しかし、やはり死は厳然として訪れる可能性が高い、と思い知らされる日々だったのだ。私はそうした危機感のなかで、個人的につづけてきた対話を、この本に収録することを前提にもう一度やってみよう、と考えた。膨大な対話のなかから、今回はその一部を再現している。
それらが第二部の原稿の中軸となっている。
さらに入院中から闘病記を雑誌に発表していた経緯もあり、雑誌やテレビでがんと医療、そして生と死をいかに考えるか、について対談、座談会などに出席する機会が多少ならず、あった。そこで出会った幾人かの専門家に改めてこの本のための対話、インタヴューを行い、二部に載せさせていただいている。

そして第三部は、私の三年間の記録である。

まずは、患者たちが医療を越えていかに生きてきたのか、動揺しながら専門家たちとどのような対話をつづけてきたのか、読んでいただきたい。
すべては、それからだ。