彼の離日前夜のデートは、わたしにとって不思議な感覚をともなうものでした。なにかの前兆のようなものを予感しながらも、その気持ちのうえに「良い友達ができたのだから」といったごく一般的な大義名分を上乗せして対処しているような……しかし、そんな感覚すら定かでないような、変な感じです。
おとなになると、自分の感情を自ら分析してコントロールすることなどずいぶん上達するものですが、この日の、嬉しいような淋しいような、イライラするような、けだるいような感情は、久しぶりのとまどいをわたしの心のなかに発生させていました。
(いったい、なんだっていうんだよう……)
朝から落ち着かない時間を過ごしたわたしは、約束の時間を待ちかねたように例の待ち合わせ場所に向かいました。それでも、少し遅れて。
すでに到着していたクリスは、少し怒ったような顔をして立っています。
「ごめんなさいね」と言ったわたしの声をろくに聞かないで、握手しようと差し出した手を強く引き寄せて、頬にキスをしてきました。ほんの一瞬の出来事でしたが、初めて感じた彼の唇の感覚はあったかな柔らかいものでした。
(なんてぎこちないキスなんだろう……まるで十代のようじゃない。わたしたち、なんだか滑稽だわ)

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一瞬の抱擁のあと、恥ずかしそうに微笑んだ彼はまた歩きはじめました。
そして、「今夜、いっしょに過ごすのは無理だろうね」と慎ましく聞いてきました。
「それは……無理だわ」わたしは、小さくそう答えました。
約束の「五分」が過ぎるころ、わたしのタクシーを拾おうと横断歩道で信号が変わるのを待つあいだ、暗い夜空をじっと見上げていた彼は、「ぼくたちいったい何時間逢えたというのだろう」とつぶやきました。そして、わたしの肩を抱いて優しくくちづけをしたあと、わたしの目をじっとのぞきこみながら「ぼくは、必ずまた帰ってくる」と静かに言ったのです。


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「ママ、わたしね、あるひとを好きになったの」
母は珍しそうな眼でわたしを見つめています。夏のはじめに修善寺の病院に入院した母は、隔離された生活が何か月か続いた所為でしょうか、少し思考のスピードが落ちている様子です。しかし、澄んだ瞳の色は美しく、心は癒されているのでしょう。
「どんなひとなの?」母は小さな声で聞き返してきました。
「イギリス人の写真家で、ロンドンに住んでいるひとなの。とてもよい写真を撮るひとで、普段はアフリカや中東や第三世界を回って取材しているの」
「独身なの?」
「いまは、まだ……。でも、奥さんとは離婚の話を始めているところらしい。もちろん、原因はわたしじゃないんだけれど」
「子どもさんは?」
「ふたり。夫婦のなかに子どもが生まれなかったので、養子をとったんですって」
「かわいそうやけど、それはきっとあかんわ。ややこし過ぎるわ。それにそんな遠いとこのひとと、どうやってつきあうのん」
「行ったり来りするしかないわね」
「そんな。相手は、妻帯者なんでしょ? 別れるかどうか、わからへんやないの。お人好しで、騙されてるのと違う?」母の瞳は、真剣でした。
わたしは、静かにこう続けました。「わたしも、人生経験を積むなかで、ひとを見る眼は育ててきたつもりです。あのひとは、立派なひとだと思うわ。いまは、混乱していることも多いけれど信じてもいいひとだと思うの。だから、ママは、わたしを信じて欲しいの」
「あなたは、子どものお母さんだということを忘れたらあかんよ。ひとりの女でいる前に、お母さんなんだからね」
「分かっているわ。いつも、そう言われてきたもの。でもね、母親として生きてきて、仕事のプロとして生きてきて、もしも、それだけで終わったら、わたしは自分の人生に悔いを残すと思うの。息子も大きくなってきたし、きちんと男のひとを愛してみたいの。わたしも、もうすぐ46歳になるのよ。最後のチャンスかもしれないでしょう?」
「恋愛なんて……」母は、小さく呟きました。「まあ、よく考えなさいね。『現地妻』になったらあかんよ」
わたしは、ウっと一瞬のどがつまったかのような感覚を覚えました。