インターネットが何をしたか?

■インターネットは海

 それでは最初は口慣らしに、僕の考えているインターネット観についてしゃべらせてもらいましょう。インターネットは海なんですね。川ではない。20世紀は「川の時代」だった。源流に発生した湧き水が大地を駆けめぐり、無限の広がりを感じさせる大海を目指した。早くダイナミックに目的に到達するために、水流は懸命に疾駆したわけです。産業構造も個人のアイデンティテイも、みんな「川の思想」だった。しかし、すでに僕たちは、さまざまな領域や状況や業界から大海に流れついた、そのあとの世界に棲もうとしている。ここでは、川の時代のような競争意識も、性急で暴力的な意識も無効なんです。川のように、大地から切り離された水流の孤独は必要がないんです。海では、最初からすべてが共有され、つながっているんです。川の思想が男性原理だとしたら、海の思想は母親の原理なのかもしれません。

 インターネットがはじまった頃、講演会に呼ばれると、僕はこういうことを話しました。「インターネットというのは、誰もが考えることを考えなければならない。誰もが思いつくことを思いつかなければならない。これが、これまでの時代の方法論とは決定的に違うんです。昔風のコンサルタントは、いまだに、他人と違うことをやれ、とか、個性が大事とかいうけれど、インターネットは違うんです。インターネットでは、人々は、同じ基盤を共有しているのだから、自分が必要なものは必ず他人も必要なんです。自分が思うことは、必ず同時に誰もが思っていることなんです。素直に、誰もが考えることを考えればよい。ただ、ビジネスをやるなら、誰もが考えることを誰よりも先にやる、ということが重要なんです」と。

 検索エンジンにしても、インターネット・オークションにしても、特別なことではありません。誰もが思いつくことです。しかし、最初にやったものが、ビジネス的には勝利しています。アメリカでは、「ヨットレース・ビジネス」という言葉があるんです。これは、ヨットレースというのは、スタートで誰よりも先にダッシュして、あとは、後続の艇に波を浴びせたり、進路を妨害して最初にゴールにたどり着くという、せこい(笑)方式なんです。インターネットが普及してくると、「ビジネス特許」が注目されてきましたが、これも「早くやることに意味がある」ということが、国家の側の施策の意志なんだと思います。

 20世紀は、二番手ビジネスが良いとされていましたね。先行する企業の商品開発と市場反応をよく観察して、ゆっくりとチェックした上で大型商品を投入する大企業が多かった。マガジンハウスが先行して集英社が二番煎じの雑誌で勝利するとか、SONYが先行して松下電器が二番手でいただくとか、いろいろありました。日本そのものも、世界から見れば「二番手ビジネス」の王者だったのかもしれないですね。

 しかし、インターネットというのは少し趣がちがう。インターネットの世界は、メディアの世界ですから、ここでの重要度は品質よりも知名度と人気度なんですね。それは、最初に注目された方が強い。インターネットの先導をしているのは、ベンチャービジネスですから、余計そうなる。それと、最近気が付いたんですけど、投資家たちと話していると、投資先の企業が少なくなっているというんですよ。ベンチャーなんかたくさんあるじゃないですか、と聞くと、そうではないんですね。たとえば、検索エンジンの開発会社にある投資会社が投資をする。もちろん、狙いはIPO(株式公開)ですね。そうすると、そこに投資をしてしまうと、別 の検索エンジンの会社には投資ができなくなる。なぜなら、ライバルの会社が成長するということは、最初に投資した会社が上場するための足を引っ張ることになるからです。そうすると、確かに先行して話題になった企業は有利だし、投資家が新しいプレイヤーを探すのに苦労する理由も分かりますね。もっとも最近は、みさかいなく投資する企業も少なくありませんが(笑)。

 これまでのビジネス構造は、まず身銭を切ってビジネスのシステムを構築していく。そうやって地道で日常的な努力を続けたものが社会的に評価され、株式市場に出てきたわけです。しかし、インターネットビジネスに関しては、これが180度違います。まず「コンセプト」を表明し、プロトタイプを立ち上げてしまう。その未来性に対して資金が集まる。資金が集まったあとで、その資金で具体的なビジネスのシステムを構築していくわけです。品質は後からついてくる、というわけです。この方式が正しいのか間違っているのかは、まだ分かりません。しかし、このことによって、旧来型の社会構造の中では埋もれてしまったり、大企業の圧力で窒息してしまったビジネスアイデアが社会化するかもしれない、という可能性は感じることができますね。

 アメリカでは、ベンチャー企業が黒字に転換すると株価が下がるのだそうです。なぜなら、その企業が目指す領域は成熟しはじめて、投資する段階ではなくなったと見なされるわけです。ユーザーの数さえ増えていれば、可能性だけが見えているので投資対象になる、ということですね。まさに「可能性の魔」という状況になっている。今は、アメリカ開拓期の西部劇みたいな時代です。こんな、インターネットバブルの時代が長く続くとは思いませんが、これはこれなりに楽しいものです。もっとも、インターネットが本格化する時代には、20世紀型のビジネス構造や貨幣価値が続いているかは疑問ですがね。この動きの先に、やがて、これまで見たこともないような「現実」に人類は突入すると思います。

■クオリティとリアリティ

 デジタルの世界を表現物として捉えると、2つの方式というか体質に分けられるんです。これが「クオリティを主体に考えるか」「リアリティを主体に考えるか」という差なんです。クオリティというのは、作品の完成度を追求するスタイルです。リアリティというのは、完成度よりも、今の現実の実感みたいなものを大事にするということです。リアリティというよりもライブといった方がよいかもしれませんね。

 デジタルの制作会社を見てると面白いことに、CD-ROMやってるグループとネットワークやってる連中とは、肌が合わない。CD-ROMというのはパッケージされた作品を完成させることに情熱を注ぐ人たちで、ネットワークは、永遠に作品としては完成しないコンテンツを作っているわけです。だから方法論と問題意識が違うので、対立する。もっと分かりやすく言うと、出版社の中の「書籍編集部」と「雑誌編集部」との違いなんです。この2つの領域のバランスの上で出版社というのは成立するわけです。雑誌で社会の最前線の情報を入手し、新しい人材を発掘して、書籍で後世に残るような作品に仕上げていくわけですから、メディアにおいては、それぞれの役割があって、両方必要なんです。まぁ、僕自身は、これはもう「雑誌的人間」そのものなわけですが。

 コンピュータのエンジニアなんかでも、80年代にプログラマーで頑張った人でも、インターネットにはまったく興味を持たない人って、結構いると思うんです。客観的な作品(プログラム)を作りたいのであって、直接的なコミュニケーションをしたい人ではない人たちですね。僕自身は、完全にコミュニケーション派なので、そうした職人気質というのとは、ちょっと体質が違うんですが、でも、この職人気質の中に、世界的な天才連中がいることは予感できます。Webが書籍でメールが雑誌という、捉え方もできますね。この両方の発想の融合が、インターネットでは必要なんです。

 20世紀の産業というのは、クオリティ主体でした。商品プロダクツにおいても、商品の完成度が最重要だったわけですよね。メディアにおいてもそうでした。たとえば、テレビのような放送メディアは、いかにもリアリティ主体のように見えながら、実は、そうではない。テレビ局の人たちは、昔映画少年だったり、小説家志望のインテリが多いですね。でも、単に、スタッフの性格とかいうのではなくて、メディアの特性なんです。放送局や出版社のメディアというのは、僕らが20年前に作った言葉ですが「メディアの面 積」が狭い。放送局で言うと、時間枠が決まっていて、ゴールデンタイムというのは、限られてしまうわけです。だから、そこで他の局よりも目立つためには、クオリティをあげていかなければならない。川の流れと同じ競争原理があるわけですよ。あっちの川よりこっちの川が楽しいよ、と見せつける必要があるわけです。「やらせ」というのは、クオリティ主義が当然、行き着く地点なんです。クオリティを追求すれば、それは、どのような商品であろうと、華道のようなアートであろうと、ジャーナリズムであろうと、なんらかしら「やらせ」が入るものです。それがない表現物なんて、逆に、制作者の意図が薄れているだけなんです。ある決められた枠の中で表現しようとするとなると、必然的にクオリティの向上を目的とするわけです。テレビ表現の中で、もっとも表現物としてのクオリティが高いのはコマーシャルで、あれは、15秒とか30秒の間に、それこそ30分番組を作れるだけのマンパワーと費用をぶちこんでいるからなんです。

 放送局で、クオリティではなくて、リアリティ感覚で人気が出たのは、ラジオの深夜放送とか、深夜の「おにゃんこクラブ」とか、ああいう参加型番組です。しかし、これは放送局が意識してやったのではなくて、深夜はスポンサーもつかないし予算もないので、それでできることと言えば、参加型しかなかったからです。いわば、川の流れから外れた水たまりで起きた現象でしかない。参加型番組を最大限に意識的に、つまりクオリティとして商品化したのが「モーニング娘。」ということになるんでしょうね。

 インターネットというのは、クオリティとリアリティという、2つの要素がからみあってできる世界なんです。いくら有名デザイナーを使って、金にあかせたWebを作っても、リアリティのないサイトには人が集まらない。人は集まるけど汚ったらしいサイトは、いいかげんにしてほしい。こんな感じではないでしょうかね。2つの異質な方法論の融合、というのは、今回の講義の大きなテーマです。


■メディアのミッシングリンク

 メディアのミッシングリンクという言葉も15年ほど前に、「ニューメディア」という言葉が騒がれていた頃に、僕がよく使っていたのですが、僕はあまり有名な人ではないので、ほとんどの人は聞いたことがないでしょう(笑)。ミッシングリンクというのは「失われた輪」ですね。猿から人類に進化する時に、その間に「失われた輪」がある、と。メディアにも「ミッシングリンク」があると思ったんです。というより、それが必要だと。メディアが、オールドメディアからニューメディアに移る時に、単に、古いのは駄 目だ、新しいものは素晴らしいでは、うまく移行できませんよ、ということを言いたかったわけです。

 僕が考えたミッシングリンクは、実体があるわけではない。あるとしたら、「オールドメディアの媒体で、ニューメディアで起こりうることをやる」ことであり、「ニューメディアのシステムを使って、古くさい情報を提供する」ということです。そういう「発想」そのものがミッシングリンクだと感じたわけです。これをやる時期が長いことあって、はじめて、猿は人類へと意識移行ができるんだ、と思いました。生命というのは、秩序を維持する力と、秩序からはみ出していく力があって、はじめて進んでいけるものだと思うんです。その力、意志のありように、僕なんかはもっとも関心を持ってきました。雑誌という古い紙メディアを使って「全面 投稿雑誌」をやるということは、僕にとっては「メディアのミッシングリンク」の追求だったんです。

 さてさて、そろそろ、エンジンがかかってきましたので、本格的な講義に入ることにしましょう。