あとがきより

 子どもたちが、うまそうにラムネを飲んでいる。それを、うらめしそうに見ている少年がいた。汚れた手で鼻をぬぐうから、少年の鼻のまわりは、いつも真っ黒だ。
 ハイカラなラムネはどんな味がするのだろう。飲んでみたくてたまらない。でも、彼には、ラムネを買ってくれる親もなければ、金もない。
 ある日、とうとう一本くすねてしまった。懐にねじこんで走り、共同便所に隠れたが、ラムネの開け方がわからない。水道の蛇口に、下からぶつけてみた。なんとか開いたものの、思いきり走ってふられたラムネは、一滴のこらず、シュワーっと吹き出てしまった。彼は、あわててラムネに濡れた手を口に含み、その甘味を確かめながら、悔しがっている。
 家には養母が待っている。なにも悪いことをしていないのに、突然、棒で殴りつけてくる。彼の顔をみおろす、母の醜い顔。「かわいそうな女なんだ」。少年はただ、じいっと、母を観察する。

 これは北大路魯山人の少年時代の思い出だ。魯山人は、恵まれた少年時代を送ったとはいえない。だからなのか、子どもには、めっぽう甘かった。魯山人邸の大事な桜の木に、近所の子どもたちが登ったり、蝉取りをしたりしても、眼を細めて見ているだけだった。
 戦後、私も父に頼まれ、魯山人邸には何度も行かされた。魯山人の作品の箱書きをもらったり、代金を届けたりした。小学校の頃は、重い大人の自転車を「三角乗り」して行くのだが、魯山人邸へ通じる切り通し(臥龍峡)の坂が登りきれず、切り立った絶壁から洩れる薄暗い陽のなかを、手でおして登った。臥龍峡を抜けると、魯山人が住む慶雲閣が、威圧感をもって眼前に飛び込んでくる。
 ロイド眼鏡に白いワイシャツ、そして吊りズボン姿の大きなおじさん、魯山人は、
「親父さんは、元気かい」
 と声をかけてくれる。どんな返事をしたか覚えていないが、父との仲違いの経緯を知らなかった私は、
「ええ、元気です」
 と答えていたにちがいない。
 四歳年下の従兄弟、寿之が邸内に住んでいたこともあって、よく遊びにも行った。本文でも書いたことだが、寿之は魯山人のために、いつも田螺取りをしていた。私も手伝ったことがある。田んぼに入ってドロドロになった私をみて、魯山人は「風呂へ入っていけ」という。
「五右衛門風呂だが、大丈夫か」と問われ、「僕の家も五右衛門風呂だから大丈夫です」と答えたように思う。白い志野のようなタイルの上に、織部がタガのように巡らされた風呂で、子ども心にも立派にうつった。風呂からでると、なにか食べさせてもらった。光泉の俵形いなり寿司だったかもしれないし、三橋堂の大金餅だったかもしれないが、いまはもう、覚えていない。
 大人になって、陶器屋をはじめて、魯山人は、ある意味で、もっと身近な人になった。芸術家としての傑出したところも、あるいは屈折したところも見えてきた。けれども、子どものころに接した、やさしい魯山人のイメージは、いまでも変わることはない。自然を愛し美をどこまでも求めた魯山人おじさんは、いつまでも私のおじさん、あこがれであり、目標である。私も陶器屋として、また美を愛するものとして、これからもますます精進していきたいと、思っている。