「もう消費すら快楽じゃない彼女へ」

 最近、どういうわけだか「三次元的には……」という言葉をよく聞く。先日もあるワークショップの帰りに数人の女性とお茶をしていたら「ウチの主人はバリバリの三次元サラリーマンだからさ〜」と言われてびっくりした。もしかしてこれって流行語なんだろうか。「三次元」ってのはつまり私達が生きているこの次元である。そしてこの三次元の価値観で生きている人間は「三次元的人間」としてちょっとバカにされるらしい。物欲と性欲と支配欲にまみれて生きている私は表彰状を貰えるほどの三次元人間だ。

 では三次元的でない生き方とはどういう生き方なのか。
「この世界がすべてではない」ということを認識する生き方なのだそうである。つまり「世界はいっぱいある」んだそうである。だからこの世界の煩悩に支配されて生きることはない、のだそうである。その通りかもしれない。だからある意味で多次元的に生きようとする彼女たちにとっても「もう消費すら快楽じゃない」のであり、それは喜ばしい事なのだろう。

 三次元的生き方を否定する人々は、衣食住に足りている。生存こそ三次元における課題であったが、万物の霊長となった先進国の人間は、すでに生存の課題を達成して次の次元を目指しているかのようだ。

 失業率がどんどん上昇し、中高年の自殺者が増える。それはまさに「三次元的価値観のなかでしか生きられない」ことの悲劇だ、と多次元的に生きる人々が言う。そうなのかもしれない。別の価値観を求めて発展途上国を放浪する若者もいるし、新興宗教に入信する人もいる。瞑想や、ヒーリングや、気功などありとあらゆる手段を用いて三次元的価値観から逃避しようとしている人たちがとても増えた。

「もう消費すら快楽じゃない」。では、消費よりも大きな快楽を与えてくれるものは何だっていうのか。わからない。わからないけど、案外、今、三次元のどん底で喘いでいる人たちの方がてっとり早くそれを見つけるような気がする。
 強引にすべてをむしり取られた方が、早道かもしれない。満ち足りた人は案外と捨てられないものだ。そしてたぶん、捨てない限り次のものを手に入れることはできない。
 万物は流転する。持っているものはいつか奪われる。その時がきっとチャンスなんだろう。

 何かを失った人に私はとても魅かれる。能力を、機能を、財産を、愛を、地位を、名誉を、家族を、友人を、家を、土地を、記憶を、祖国を。そのようなものを失った人にいつも何かの可能性を見てしまう。
 三次元というこの世界は、失うということを経験するために神様が与えた世界なんじゃないかって、思える事がある。

「もう消費すら快楽じゃない」人々が、何を失って、どのようにそこから立ち上がるのか。その物語をこれからも描いていきたいと思う。

田口ランディ