情報処理で世界は変わるか?

1 情報をめぐるいろんなまちがいについて

 情報というものについて、人はいろんな幻想を抱いている。というか、多くの人は「情報」というものがよくわかっていない。なんとなく、ニュースがとびかったりいろんなところにデータがずらずら表示していたり、あるいはハードディスクの容量が何ギガバイトだとか、ペンティアムが何メガヘルツだとかで、情報とか、情報処理量とかいう話が語れるような気がしているわけだ。
 たとえば雑誌とかで「できるビジネスマンは情報収集力が決め手」とかいう、まあ3日に一度はお目にかかるような記事を見てやろう。そこで議論されているのは、基本的にはデータ量の話だ。だいたいのパターンは見えているだろう。インターネットのニュース系サイトかなんかの紹介があって、ついでにパソコン新機種の紹介が出ていて。だいたいそこで考えられているのは、いろんなところから大量のデータを集めて、それをぐちゃぐちゃ計算すると、なんかいいらしい、というイメージだ。そのデータが多ければ多いほどいい。もちろん、そのデータをどう処理するか、という話はこういう記事では決して扱われることはないのだけれど。
 そして、それを助長するような軽薄な論者も、掃いて捨てるほどいる。あるいはそういう話につけこもうとするペテン師まがいも。たとえば一時アルビン・トフラー(覚えてる?)なんかがこれからは第三の波で情報の時代だ、軍事力から財から資本をへて、いまは情報を制する者が覇権を握る、みたいな話をしつこくやっていたんだが、よく考えてみれば、その場合の覇権というのはいったいなんのこっちゃ? 軍事力のあるところが覇権を握るのはわかる。でもたとえば、情報だけ持っていて、覇権を握れるような状況というのが考えられるだろうか。そんな国があったら、ぼくならすぐにそこを武力制圧して占領しちゃうなあ。情報でそれを止められるかね。そして、情報「だけ」が集中するようなシステムってどうやってつくるね。
 そしてこのまちがいにつけこもうとする人たちもたくさんいる。何年か前には情報世紀のなんとか創造企業と称するところのえらいさんが「これからはビットが通貨」とかいう、よく考えるとわけのわからない世迷いごとを口走っていた。これがなぜ世迷いごとかは、別のところで説明したけれど、要するに情報の価値というのはビットでははかれないからなのだ。
 あるいは最近ではもうご威光も薄れてきたニコラス・ネグロポンテが、昔から「これからはアトムからビットへ」なんてことをしつこく言っている。かれの主張というのは、ものをつくる能力はどんどんアップするので、あらゆるアトムに基づく製品というのは、いずれ過剰になって、値引き合戦におちいって利ざやはゼロになるしかない、ということだった。だからアトムに基づく商売は結局はじり貧になる、ビットは何度コピーしても劣化しないから昔の生産コスト制約にしばられていないので、アトムの限界とは無縁だ、というわけだ。
 でも、もしそうならなぜビットがすぐに生産過剰に陥らないのか、ネグロポンテはまるで説明できない。アトムの限界からは逃れていても、それはかえって悪いほうにしか機能していないじゃないか。ネグロポンテはいつも、現状はダメだ、これからはデジタルだとか、なんか新しい方式でないと、というようなことを言うのだけれど、その新しい方式で古い現状の問題点がどう解決されるかはほとんど語らない。いまのテレビをハイビジョンにして高画質にしても、番組づくりが昔のままだからダメだ、テレビはデジタルにしなければ、といいつつ、デジタルにすると番組づくりがどう変わるのか、かれは一切説明できないのだ。いったいそしてそのネグロポンテが連載していた『ワイアード』日本版編集長だった小林弘人は、本国版『ワイアード』売却に伴って、ネグロポンテの見当ちがいを見事に看破している。「結局、インターネットだ、ビットからアトムだと騒ぎつつ、価値があると判断されて買われていったのはアトムだけだったではないか」と。


2 「情報」の価値

 そもそも、「情報」の価値ってなんだろう。情報そのものにどれだけ価値があるのか。実は、情報そのものが単独で意味を持つケースというのは、かなり少ないのだ。
 情報やデータ自体が意味を持ち、最終的に消費されるケースというのは、エンターテイメント分野だけだと思っていい。たとえば人は、お金を払って、映画を観る。スクリーンの情報を消費する。おしまい。音楽でも、あるいは小説やマンガもそうだろう。マンガを読んで、それが何か別の行動につながることはない。ここであなたが読んでいるこの文は、んー、書いているぼくとしてはちょっとは役にたっていただけるんじゃないかとは自負しているけれど、わからん。たぶん多くの人は、直接役にたてようと思って読んでいるわけじゃなかろう。また山形がくだらんこと言ってやがる、こんどはどんなご託を書き散らしてるのか、ちょっと読んでバカにしてやろうか、くらいの気分で読んでいる人がほとんどだろう。あるいは、バカなスポーツおたくが一生懸命記憶するデータ。打率がどうした、勝率がどうした、マジック(ってなに?)が点灯したの云々。たぶんエンターテイメント分野で具体的な行動につながる情報を持つものといったら、アダルトビデオくらいで、これだけは観て一本(え?三本でもいいよ、まったく)ぬいたりする行動が伴うけれど、まあそういう「行動」はちょっとここでの趣旨とはずれるような。
 正直いって、なぜそういう情報が価値を持つのか、人がそういうのにお金を払うのか、という話は、よくわかっていない。いつかそれがきちんとわかったときに、この話は全面書き換えが必要になるだろう。たぶんそれは、アダルトビデオをわれわれがなぜ観たがるか、という話とかなり密接に関係しているはずなのだ。そしてそれが解明されたとき、おそらく人類は遠からず滅びることになるとは思う。が、その話はまたいずれ。ぼくが今回問題にするのも、こういう情報ではない。
 ふつう前節でいろいろ述べたような意味での「情報」というのは、もっとちがう情報だ。たとえばビジネス情報を集めるにはどうのこうのとか、経営情報が云々とか、株価情報がうだうだ、といった話がある。これは、その情報自体に意味があるんじゃない。最終的には、その情報に基づいて何か行動を起こさないとまったく意味がないわけだ。そうだろう。つまり、ビジネス情報を集めるのはなぜかといったら、それは自分の書いている報告書なり文書なりに使うためとか、あるいは何らかの判断材料として使うとかで、なにか具体的な目的があるわけだ(原理的には)。そしてそういう文書や報告書というのは、たとえばある事業を継続すべきか、とか、新しいプロジェクトにリソースをつっこむべきか、といった意志決定のために存在しているわけだろう。株価情報だってそうだ。あがった下がった、というだけを知っていても仕方ない。なぜ、というのを知って、その会社がどう評価されているかを理解して、それを経営の改善に使うとか、あるいは自分の株の売買に役立てるとか、そういう行動の意志決定材料として、はじめて株価という情報は意味を持つ。
 実はこの両者がきっちり別れるかというと、そういうことはない。後者の場合だって、たとえば、株価おたくみたいな人っている。日経平均が前場と後場でどうなったとか、ことこまかに暗記している人が。株屋でもない限り、こんなのはまったく無意味な、自己満足な情報でしかないんだけれど、でも夕刊フジだか日刊ゲンダイだかの一面にはだいたい必ず、日経平均が100円上がったとか下がったとか、嬉しそうに載っている。ということはつまり、そういう無意味なはずの情報に興味を示す人がいるってことなわけだ。もちろんさっきも言ったとおり、実際にそういう情報が業務上で死活問題であるような人はいるんだけれど、そういう人は夕刊フジなんかに日経平均を教えてもらう必要はないはずでしょ?
 あるいは世の中の「経営情報システム」というやつも、往々にして、人の不安につけこんで、無意味な情報をためこむだけの代物になり果てている例はあまりに多い。たとえば世界中の営業所の成績がリアルタイムでわかります、というようなシステムが、よくその筋の雑誌の広告には載っていたりする。でも、本当にそんなことに意味があるだろうか。こういう経営情報システムでは「これまで月次でしかわからなかったものが、一日単位でわかります」なんていうのが売りだったりする。が、売り上げをどの程度のスパンで考えるべきかは、その製品によってぜんぜんちがうだろう。おせんべいなら、毎日売れるけれど、住宅の営業とかなら、だいたい一月強で成約一件とかいうレベルだ。それを毎日チェックするのは無駄でしかないのはすぐわかる。
 コンビニのPOSは一日単位、いやそれ以下でとられて分析している。これは在庫の調整が一日単位でできるからなのだ。というか、コンビニは店頭がほとんど在庫そのものだったりするから、そうしないとダメなのだ。そういう環境では、一日単位の売り上げデータというのは意味を持ってくる。情報に対応する行動の裏付けがあって初めて情報には価値が出てくる。その行動を可能にする財力、資本力、軍事力、物資力があって、初めてその情報には価値がある。
 結局、エンターテイメント以外の情報というのは、情報それ自体が重要なのではない。情報なんか、いくらあっても無意味である。情報は、何か意志決定して行動するためのツールとしてのみ意義を持つ。価値があるのはその意志決定なのだ。価値を本当に生み出しているのは、その意志決定に基づく行動なのだ。

3 情報生産性のパラドックス

 さて、人間は意志決定をする際に逡巡する。ためらい、思い悩む。たとえば2000円の本一冊買うのすら、CD一枚買うのすら悩んだりする。仮にこの時間が短縮されたとしよう。これまでの半分の時間で意志決定できるようになったとしよう。本を買うのに5分考えていたのが2分ですむようになったとしよう。1兆円プロジェクトへの投資判断に、4年検討を行うかわりに2年ですむようになるとしよう。好きな相手に告白するのに、2週間ではなく1週間あれこれためらえばすむようになったとしよう。
 この経済インパクトは大きい。すでに限界までに効率化されている一部の生産プロセス以外、全ての人間活動が倍の速度で動くようになる。経済成長率は、倍増に近いものとなるであろう。それも継続的に。現在、日本の潜在経済成長は、年率2%くらい。これが一挙に3.5%くらいになる。倍増でやめる必要もあるまい、恋人たちは出会った一分後に告白しあい、煩雑なデートをすっとばして5分後にベッドインし、10秒くらいで射精(顔射はオプショナルね)して、これを一日20回くらい繰り返す。今日思いついた投資案件が、明日には契約締結で着工。麻原も、逮捕翌日には即死刑である。1年に2年分の活動をつめこめれば、生産性はまちがいなく向上する(ちなみに、このアイデアをはっきりした形で提起したのは、世界最高のSF作家の一人R・A・ラファティによる「スロー・チューズデー・ナイト」(早川文庫『九百人のお祖母さん』収録)である。この短編集には、一見荒唐無稽と見えつつ、とんでもないパワーを持つアイデアが山のように詰め込まれていて、著者がここから受けた恩恵は計り知れない)。
 さて、前の章で、情報は意志決定のツールである、と述べた。そして通常、われわれが意志決定をためらうのは、情報が不十分だからだ、と思われている。ある事業案件がある。こいつは本当に儲かるかどうか、わからない。だからコンサルや調査屋に依頼して、情報収集をする。情報を加工してもらって、そのエッセンスを抽出することで検討を行う。会議でいろんな人の意見をきく。そしてもうかるかどうか十分な情報が集まったところで、それに基づいて意志決定をする。だから、情報の加工処理がはやまれば、意志決定をためらっている時間も短くなって、意志決定に要する時間も縮まって、生産性もあがるはずだ。これが通常の理解だ。
 あるいは、心惹かれる人に出会う。ちょっと偶然が重なったり、あるいはチャンスをつくったりしつつ、接触をはかっていく。でも、相手は自分のことをどう思っているのだろうか。話をしたり、食事をしたり、いろんな活動を一緒にやって、相手についての情報を集め、探る。そして何か確信が持てれば、あるいはこれ以上の情報は集まらない、と思ったときに、思い切って告白する。ここでもやはり、情報処理がポイント……なのだろうか。ここに鍵がある。
 コンピュータは情報処理を加速するツールである、というのは、まちがいではない。したがって、コンピュータを入れて情報加工を加速すれば、生産性の向上が期待される、というのも理屈にはかなっている。
 しかしながら、本当にそうなのか、というのはまた別問題だ。これはとても大きな問題となっている。情報投資をいくらしても、生産性は実はぜんぜんあがっていないのだ。ランダワー『そのコンピュータが使えない理由』(アスキー)という本に、そうした各種の調査研究成果がたくさん挙がっている。ビジネス雑誌とかを読むと、情報革命だの、情報投資をしない企業は生き残れない、だの書いてある。しかしながら、もちろん最終的にある企業が生き残れるかどうかは、その企業の生産性に大きく左右される(それだけではない。もちろん。でも、生産性は大きな要因だ)。高い利益率をあげる、あるいは同じコトだが競合製品よりも低価格・高品質のものを提供する。そのためには生産性をあげるのが重要になってくる。では、情報化投資は、それに役立っているかというと、ぜんぜん訳にたっていないのだ。それどころか、情報投資すればするほど生産性が下がっている分野さえあるのだ。つまり、コンピュータを入れると一見便利になったように見えるんだけれど、でもコンピュータって高価なのね。さらに、それを使うためのトレーニングとかもいるでしょう。そしてメンテナンスも必要になる。そういう費用まできちんと考慮すれば、実は大して費用も手間も節約されていないってことなのだ。
 もっとマクロな話でもいい。いま(というのは1999年半ばだ)のアメリカは、好景気ということになっている。株価もあがっているし、生産性もあがっている。これについてみんな、やはり情報投資がきいた、とか、情報インフラの果敢な整備によりインターネットベンチャーが続出し、とかいうお題目をたくさんならべてくれる。でも、実際にいろんな産業の生産性を見てやった調査が先日、アメリカの生産性の権威によって発表されたんだが……実はほとんどの産業では、ぜんぜん生産性はあがっていないんだ。唯一生産性が大きく向上しているのは、ただ一つ。コンピュータ製造産業だけなの。
 要するに、みんながこの「情報投資で生産性があがる」というお題目にだまされてコンピュータをどんどん買い換えるから、コンピュータメーカは生産性があがるんだけれど、それ以外のところは、実はコンピュータ買ったからといって一向に能率はあがっていないわけだ。アメリカでさえ。ましてその他の世界でどうなっているか、推して知るべし、という感じだろう。
 なぜだろう。なぜ生産性は上がらないんだろう。これについても、さきほどの『そのコンピュータが使えない理由』でいくつか考察されているんだけれど、最終的には、いまのコンピュータは使いにくいからだ、という結論に落としている(この本の著者の専門が、使い勝手だから、これはほとんど手前味噌と言っていいだろう)。コンピュータの使い勝手さえあがれば、あらゆる産業の生産性は一気に数十倍になるって、おいおい、ホントかよ。
 ぼくはもっとちがうことを考えている。コンピュータがいくら使いやすくなったところで、意志決定は、そしてそれに伴う各種の行動が加速することはないだろうと思う。人間がこの世の主役である限りは。

4 投資判断と失恋の情報処理

 さっき、投資判断と恋愛の例をあげた。投資判断の場合、情報加工が加速されれば話がはやく動く可能性はなくもない。が、怪しい。現在のコンピュータは多くの場合、早く情報加工をするためには使われていない。むしろ、広く情報処理するために使われているのが実状だ。というか、早く情報加工した分が、意志決定のはやさにはつながっていない。「これはどうなの」「あれはどうなの」「ああいうケースは」「こんな場合には」「同業他社の動向をもっと手広く調べろ」「事例を増やせ」と、よけいな情報処理をするのに時間がまわされている。
 具体的に、あるプロジェクトの収支予想をするとき、まあ現場の人であれば、だいたいの見通しというのはわかるわけだ。なんだかんだ言いつつ、まあ世の中がこのまま続いたら、このくらい売り上げが変わるだろうとか、コストもこのくらいは削減できるだろうとか。それが当たるか、というのはまた別問題だ。通貨危機とかが起きたり、あるいはいきなりバブルがはじめて地価が1/10になるなんてのは、もちろん予想不可能なわけなんだけれど、まあ実際に意志決定をするときには、そんなとんでもないシナリオは想定しない。だいたい、悲観的シナリオ、普通のシナリオ、楽観シナリオの3通りくらいの検討をして、さてどうしようか、と腹を決めることになる。
 このシミュレーションは面倒だ。手でやろうと思うと、まあ頭痛がしてくる。まずそれぞれの項目について、前提を決めて、それを20年間にわたってずっと延ばしてやる(たとえば年率1%成長とか)。ほかの項目に依存してくるやつもあるから、えらい手間がかかる。それをこんどは縦に足したり引いたりして、最後にその収益のところをまたとってきて、内部収益率を計算したり、現在価値を出したりするわけだ。
 昔なら、一日がかりでシナリオ一つできれば恩の字。ところがコンピュータが入って、それが前提整理さえされていれば1時間ほどでできるようになってしまった。というわけで、情報処理の効率は、まあ20倍になった。しかしそれによって、意志決定の効率や精度が20倍になったか? なっていないのだ。みんな何をしているかというと、たとえば金利を0.05%刻みで計算するとか、人件費とその他コストの伸び率をいろいろ組み合わせを変えてみるとか、借り入れ増やしてみるとか、自己資本を増やしてみるとか、そんな話で特にきちんとした根拠もないシナリオを増やしているだけなんだ。結果は、収益性が0.01%ほど動くか動かないかだ。あるいは、借金をたくさんすれば返済が苦しくなって、少なければ返済は楽だけれど頭金がいっぱいいるな、という、言わずもがなのことがわかるくらい。あげくの果てに、シミュレーションが100種類くらい出てきて、「結局どれがいちばん現実的かを評価してくれ」なんていう変な要望が出てくる。そんなの、最初にやった数個に決まってるではないの。
 つまり、その追加の情報(あるいは情報処理)の持つ価値は低い。たいがいは、最初の数通りのシミュレーションで結論は見えている。情報はそれで十分だったはずなんだ。昔はそれで意志決定をしていたし、できていた。でも、同じだけの情報が与えられても、いまは意志決定にはいたらない。これはいったいなんなんだ。
 結局のところ、人は腹を決めるための時間が必要なのだ。「情報が必要だ」というのは実は「時間が必要だ」と言っているだけなのだ。
 恋愛となると、話はもっと明らかだろう。情報処理は何も加速しない。出会った瞬間に、相手のすべての情報がわかり、『ニューロマンサー』で描かれていたような相手の完全なモデルまで提供され、「こいつとつきあうと2ヶ月くらいはむちゃくちゃ楽しいけれど、3ヶ月めにはオレのほうが飽きられてしまってひっどい目に会うな」とかいうことまでわかったとしよう。でもそれでも「なんてったって、好きなんだもーん」である。あるいは、確率87%で脈なしだ、というのがわかったとしよう。それで? 行動はなにか影響を受けるだろうか。うーん、どうだろう。それでも残り13%の確率にしがみついて、いろいろと策を練ってしまったり、相手の言うことを一言半苦真に受けたりしてしまうのが惚れた弱みというやつだ。
 もちろんこのぼくは話が別で、ぼくは冷血で合理的な人間だから、そういう結果が出てしまえばあっさり引き下がるだろう。が、世のストーカーという人々は、明らかにそうはしていない。あるいは、ぼくがある仕事で出会ったある人は、自分が松田聖子や中森明菜と結ばれて救世主となる運命にあって、相手もそれを知っているのだけれど、それが小室哲哉にじゃまされているのだと考えていた。もちろんかれは、ファンレターや恋文やプロポーズ文は山ほど送りつけていて、それに対しては何の返事もきていない。でも松田聖子や中森明菜はそれを読んでいて、じゃまさえなければかれに応えたいと思っているのだ、とかれは確信している。なぜそれがわかるのかと尋ねると、「だってテレビに出たときにいろいろ合図をよこすのだ」とその人は、なんでおまえにはこんな自明なことがわからんのだ、という顔で説明してくれるのだった。
 ぼくたちから見れば、それは完全な妄想以外の何物でもない。でも、それをこの人にどう説明するね。情報は、疑おうと思えばいくらでも疑えるのだ。そしておそろしいことだが、人はまったく恣意的に、いろんなものから意味や情報を引き出してしまうという力を持っている。情報処理を加速したところで、この人の意志決定に何か影響があるだろうか。行動になにか影響があるだろうか。ない。この人の行動は決まっている。情報はあとからそれを正当化するようにしか使われていないのだ。
 あるいはもっと極端な例がふられたときだ。情報だけでかたがつくなら、人はふられてつらい思いをすることもなかろう。相手に「ごめんなさい」とか「やっぱりダメなの」とか言われた時点で、もう話は決まっている。もう決定的な情報は提出されている。情報処理だけで話が決まるなら、どれほど楽なことか。処理速度なんか考える必要もない。「ダメです」「はいそうですか」それでぼくたちはあっさり過去を忘れて次にいけるはずなのだ。
 でも実際には、ぼくたちはつい「なぜだ!」とか聞いてしまう。きいてどうする。ダメなものはダメなんだ。理由がわかったところでどうにもなるまい。カーディガンズも歌っているではないか。「Reason will not lead to solution/ I will end up lost in confusion」。ぼくがあそこで電話をかけていればよかったのか。もうちょっと意地を張らずに、きみの言うことを聞いてあげればよかったんだろうか。でもそんなことがわかったところでどうなる。次の女の子/男の子で参考にでもするか? 無駄なんだ。そんなことはわかっている。もし情報処理ではなしがすむなら、どうしてふられてから一月もたって、また急に胸が苦しくなったりするね。なぜ指先や唇なんかに残っている感触が、何かにつけて浮上してきてせつない思いになったりするね。なぜ街で似た人を見かけて追いかけてしまったりするね。ふとむかしデートした場所にきて、なぜ急に惨めな気分になったりするね。なぜよくわからんまま相手の電話番号を押したりして、何を言っていいかわからずに切ってみたりするね。なぜ一月くらいして酒が入ったりしたときに、急に思い立って、自分ではさりげないふりしたつもりの電話なんかして、明らかに迷惑そうな応対をされていきりたったりするね。
 なんの話だ。でも、もし情報処理だけで話がつくのなら、人はふられてもっとすっぱりあきらめがつくはずなのだ。でもそうはならない。一月、二月くらいたって、やっと、だんだん胸の圧迫感がおさまってくる。相手のことを考えることも少なくなる。どうしていればよかったのか、という頭の中のシミュレーションもしなくなるし、友だちと話しているときに相手の名前が出てきても、歯を食いしばったりしないですむようになる。その間になにか新しい情報が入ったか? 入っていない。新しい情報処理があったか? ない。あったとしても、それはたぶん未練をひきずるほうにしか機能しないだろう。たとえば、相手が実はこっちの貯金を勝手に使い込んでいたことがわかったとか、あちこちでこっちの悪口をまき散らしているとか、いろいろ耳に入ってきても、ほとんどの場合はそれで「あんなヤツと切れてよかった」とあきらめが加速することはない(ただしそういうのがある一線を越えたときに、急にスコーンと「だめだこりゃ」と悟ってしまうこともあるのは事実。あれはあれでわけのわからない体験だけれど、それはここではおいておこう)。ぼくたちを変えて、行動に影響を及ぼしたのは、なにか別のものだ。
 すなわち、情報処理によって意志決定が加速されるのには限界があるのだ。
 なぜか。よくわからない。だが、これはぼくの勝手な仮説ではあるけれど、人間の生物としての肉体的な限界がそこにはあるのだろう。人間の感情や決断は、神経系の活動であるとともに、ホルモンや化学物質の体内反応の結果である。神経系の反応は、コンピュータ化してある程度外部化できるが、化学反応は外部化できない(いや、そうでもないか。この点は後述)。したがって、情報処理だけ加速されても、意志決定の加速にはならず、したがって情報処理の高速化が経済に寄与する率も低いのである。さらに、情報はいくらでも疑うことができる。わからないことは、結局わからないのである。未来のことは、決して確実には知り得ないのである。どんな予測を出されても、それを否定しようと思えば否定はできる。人はそこでためらう。ためらいつつも、結局はどこかで見切り発車するしかない。でもその見切り発車にいたる時間は、神経系の情報ではないものが支配しているのだ。
 結局これは、未練ってなんなの、という話だ。思い切りとか潔さとかあきらめとか、あるいはその逆で、こだわりとか執着とかつらさとか思いこみとか。そういうものっていったいなんなんだろう、ということだ。
 そしてもう一つ、たぶんこれは、割引率というやつと実はかなり関わりが深いはずなのだ。割引率というのは、いまのあらゆるファイナンス理論の基礎をなす概念だ。要するに、今日の100円は明日の100円より価値が高い、という話。だって、明日ぼくは死んでいるかもしれないんだもの。だから、今日の100円をあきらめて、貯金しろとか投資しろとかいう場合には、それなりの見返り(利息や儲け)をみんな当然要求する。これはつまり、ある投資に対してどのくらいの見返りを期待するかという話だ。でもこれは逆に、損をしたときにどのくらいであきらめがつくか、という話とも関係してくる。いま、いろんなプロジェクトの割引率や期待収益率は、事例や市場の状況なんかから、だいたいこんなものだろうということで決まっていることになっているけれど、たとえば不動産開発プロジェクトなら年率15%の期待収益率がなくては投資しないという判断というのは、そのくらいの利益が見込めるのであれば、結果的にお金をなくしてもあきらめがつく、と言っているわけだ。そのあきらめのつきかたには、たぶんある程度は人間の生き物としての特性が加味されているはずなのだ。いちばん大きくは、われわれは100年弱で死んでしまうという特性。そしてそれ以外の、未練や執着を産む肉体的な機構という形で。
 あと、情報処理が必ずしも生産性を上げない理由としてはもう一つ指摘しておくべきことがある。人間の頭脳、つまり情報処理機能は、すでに高度に発達してしまっている。鎖を考えてもらえばわかるけれど、あるシステムを強化するためには、そのボトルネックやいちばん弱いところを強化しなくてはならない。しかし、頭脳の情報処理は、人間のいちばん強いところである。それをコンピュータでさらに強力にしたところで、全体としては大した増強になっていない。コンピュータが生産性の向上に寄与しないのは、つまりはそういうことではないか。一方、産業革命は、人間の手足を補った。頭脳に比べれば、人間の手足ははっ断ちしていない。だからこそ、それを補うことで得られた生産力の高まりもすごかった。そういうことではないだろうか。
 以上のようなポイントをきちんと考慮することで、おそらく21世紀の人類の未来というのは決定づけられるはずだ。それがぼくの予想である。

5 21世紀の生産性向上にむけて

 というわけで、せっかく21世紀が目前に迫ったところで、真に意志決定の加速に寄与する方策を考えようではないか。アイデアはいくつかある。前出のR・A・ラファティは、人間の脳の中に「ためらい中枢」が発見されて、何の役にもたっていないのでこれを除去する、という設定で「スロー・チューズデー・ナイト」を書いていた。これはまあお話だ。しかしながら、これを別の形で現実化する方法はたぶんあるにちがいない。
 まず手軽なほうから行こう。人の意志決定を極限まで加速するものは、なんと言っても締め切りである。会議が一時間後に迫っているときの人間の生産性というか意志決定力には、われながら驚異的なものがある。では、それを使おう。締め切りがはやくくるようにすればいい。そしてビジネスでこれを実現するには、締め切りを変えてやればいい。締め切りがもっとはやくくるようにすればいい。決算なりのサイクルを短くしてやればいいのだ。
 すなわち、1年を10ヶ月にしてしまおう。そして、1週間を6日にする。端数についてはまあ好き勝手に処理すればよい。
 これは、コストはほとんどかからない。いろいろカレンダーを変えたり、といった調整には手間取るだろう。さらに季節は乱れる。でも、生産性はあがるだろう。「来週までに」とか「半年くらいで」とわれわれは気軽に口に出す。それは別に、「7日で」とか「180日で」と厳密に計算しているわけではなく、まあその程度の区切りで、ということを言っている。それを一割ほど縮めたところで、いままで可能だったものが急に不可能になることはほどんどないだろう。ということはつまり、いままで1年で可能だったものは、この新しい1年でもたいがいは可能だということだ。生産性は単純計算しただけでもいまの一割以上は増えることになる。いまの日本の潜在成長率は2%くらいだが、それが2.2%になる。悪い話ではない。ほかの国との整合性はとれなくなるけれど、まあそれは見逃してもらおう。なんでもかんでもグローバルスタンダードでいいわけではない。ねえ石原慎太郎くん。それにその程度は会計処理でなんとかなるはずだ。
 ただし、これには限界があるだろう。たとえば、一年を今の半年にしてしまっても、生産性は倍増しないだろう。まずあまりに魂胆が見え透いているというのと、さきほどあげた、意志決定の肉体的な根拠があるはずだという仮説からそれが推定できる。ふられて立ち直るのにかかる時間は、こういう会計年度のまやかしではどうにもならないだろう。「ああ、もうあれから1年たったんだ」という時間の節目のような感覚が、多少はそれに貢献することもある。でも、それが効くのはせいぜいが10%くらいであろうと考えられる。本格的な生産性向上のためには、もっと根本的な処理が必要となるはずだ。
 もう一つ、もし意志決定が体内の化学反応の結果であるなら、化学反応を加速するようなシステムを考えようではないか。化学反応を高めるための手段としては、温度をあげる手があるだろう。人間の体温をあげれば、意志決定は革命的にはやまるかもしれない。すなわち、文字通り「熱い」、まさに熱血人間をつくりあげてやれば、人間の意志決定は高まることが考えられる。おそらく、現在使われている「熱血人間」という表現は、実はこういう認識をみんなが無意識に持っているために普及している表現だろう。
 もちろん体内反応は触媒反応が多いし、単に加熱するだけでどこまで加速が可能かはわからない。さらにあまり体温をあげると、脳が茹だってしまったりしてまずいだろうし、かなりいろんなところでコントロールが必要になってくるし、人体の根本的な改造が要求されてくるだろう。が、現代のテクノロジーをもってすれば、不可能ではない、かもしれない。
 別の手は、化学反応プロセスを外部化してやることだ。つまり、体内の情報伝達物質を合成して注射してやればいい。会議の前にこの一本を飲む・注射すると、悩まずにシャコシャコと意志決定ができてしまうような、そんなクスリができないものだろうか。
 これは一種の、ドラッグによる意志決定支援であり、生産性拡大である。
 むかしから、ドラッグは生産性向上のために使われてきた。実はあまり知られていないことだけれど、別に各種のドラッグが規制されるのは、それが有害だからなんかではぜんぜんない(濫用すると有害なのは、酒だって同じだ)。むしろ、特にアメリカにおいてそれによる非白人たちの生産性向上をおさえるための措置だった面が大きい。
 たとえば大麻は、カリブからの移民や黒人たちの間で多用されていた。麻痺作用があるので、大麻を使うと長時間労働が可能になる。これは、白人労働者たちにとっては脅威だった。したがって、大麻はかなりはやい時期に取り締まりにあい、白人優位があらゆる面で維持される一助となってきた。
 また、コカも重労働のメキシコ人や南米系移民たちが使っていたものだった。かれらはマヤ時代から、重労働に耐えるためにコカをかんでいた。あとの話はまったく同じである。コカを規制することで、連中の競争優位を奪え!
 そしてもちろん阿片ですら、西部開拓時代にこきつかわれたシナ人たちが疲労を忘れるために使っていたものだ。まったく同じ話が展開される。シナ人労働者の、労働市場での優位性を奪うために、阿片を禁止する。
 こうすることで、もともと低い生活環境に置かれていた移民労働者たちは、低い生産性と賃金に甘んじるしかなくなる。こうしてアメリカ国内の階級構造が維持されたと言われているのだ。
 もちろん、ここでほしいのは、そんな単純労働支援のための感覚麻痺剤ではなく、もっと迷いをなくすような代物だ。コカインなど覚醒剤系にはそういう部分もあるけれど、ああいう途中の情報判断をすっとばして単純に軽薄になったりするようなノリも困る。まちがった意志決定をいくら高速にやってもらってもダメなのだ。きちんと物事を考えた結果を肉体化する、そこだけを考えてくれないと。そういう代物があるのかどうか、ぼくは知らない。スマートドラッグ系で、頭をすっきりさせるようなものが出回っていたけれど、その効果がどの程度のものなのか、どこまで検証されているものなのかもわからない。カフェインはそれなりに効くけれど、すぐに頭打ちになるし、切れたときのだるさや脱力感がかなり尾をひく。あるとすれば、プロザックのような代物は感情的な(つまり肉体に結びついた部分の)起伏をなくし、非常にフラットな判断を可能にしてくれるという意味で有望かもしれない。
 もう一つ、逆の発想がある。人間は手足が弱いので、それを補うことで生産性は爆発的に向上した。では、逆に手足が強くて頭の弱い動物をつかまえてきて、それにコンピュータをとりつけてみようではないか。たとえばイヌやサル。それにキジ。こういった生物にコンピュータをつけることで情報処理能力を増し、もっとよい家畜をつくる手がある。これはおそらく、生産性の面ではかなりの見返りを産むはずだ。これは、ここで論じた人間の情報処理の範疇をちょっとはずれるので、ここでは触れない。ただ、この考え方を拡張した場合、現在のようなコンピュータがある程度教育のある人間にしか使いこなせない状況の問題は見えてくるだろう。愚鈍でまぬけで、どうしようもない人間の行動をコンピュータが補えるようになったときに、コンピュータの情報処理革命は真の意味で開花するだろう。

6 おわりに

 以上のアイデアは、すべて思いつきの域を出ない(って、あたりまえだな)。でも、可能性としてはまったくありえないわけではない。そしてこの中の一つでも現実化した場合、世界は完全に変わる。情報処理力ではなく、意志決定力の向上こそが世界を変えるのだ。
 これは割引率の概念とも密接に結びついているはずだ、という点についてはさっき述べた。上記のアイデアのどれかが実現すれば、この割引率がすべて変化する。割引率は、投資家の期待する収益率でもあるのだ。期待というのは、あきらめの裏返しである。期待やあきらめが変わった瞬間、世の中のあらゆるものの価格づけが一挙に変化する。具体的には、ほかの条件はまったく同じでみんなの期待収益率が一気に1%下がったら、それだけで日経平均は13%くらいはアップするし、融資の通るプロジェクトは倍増するはずだ。これはすごいよ。
 あとは若干の落ち穂拾い。往々にして、いろいろウダウダ考えてみたけれど、最初に思いついたアイデアがいちばんよくて、あといくつか代替案を考えてみても、それは単に数会わせでしかないというケースは、しばしば経験することだ。最初のアイデアにスパッととびついてしまってよいのではないか。ラファティの「ためらい中枢」というアイデアも、あながち荒唐無稽とばかりは言い切れない。
 もう一つ、ぼくがここにあげていない生産性向上のための可能性がある。さっきぼくはこう書いた。「コンピュータがいくら使いやすくなったところで、意志決定は、そしてそれに伴う各種の行動が加速することはないだろうと思う。人間がこの世の主役である限りは」。だが、人間がこの世の主役でなくなったらどうだろう。
 それがどういうふうな形で可能なのかはわからない。しかし、それが起こりつつある兆候は、すでにあちこちに見えていると思う。すでにオートメーションという形で、いろいろな判断や意志決定は機械やコンピュータに移譲されつつある。そしてそれは確実に生産性向上をもたらしているわけだ。さらになぜこうも人は、コンピュータを狂ったように買い換えて、いりもしない計算力ばかり増やすことに血道をあげているのか。そしてそれを(ほとんど無意味に)つなぎあわせることに関心を示しているのか。それがなんのメリットも産んでいないことは、生産性を見れば明らかすぎるのに。ふつうの産業的にはまったく説明がつかない。
 さっき、アイデアの中で、動物にコンピュータをつけたら、というのを挙げた。そしてそれに付随する形で、バカにコンピュータを使わせることこそが生産性を挙げる鍵だとも述べた。だがそれがバカのみならずあらゆる人間で起こるようになったらどうなるか。そのとき、メインとなっているのは人間だろうか、それともコンピュータだろうか?
 いま、まさにそれが起こりつつあるのではないか、と考えることはとてもだいじだ。三流SFだと、ここで人間はコンピュータの圧制に対してたちあがることになるんだけれど、実際はどうだろうか。そのとき人間は本当に不幸せだろうか、それとも大腸菌が人間の腹の中で(たぶん)幸せなように、従属していることにとくに疑問も感じずに、いや従属しているとすら思わずに生きていくのだろうか。ぼくにはわからない。
 そしておそらく、コンピュータに意志決定をさらにゆだねていったところで、なんらかの意味での生産性は上がるだろう。ただしそこで上がるのは人間の生産性なのか、それとも人間とまったく関係ない別のものなのか。これもちょっと疑問な点ではある。つまり、いまコンピュータを導入しても生産性はあがっていないのだけれど、それはもちろん人間にとっての生産性があがっていないわけだ。何か別のものが実はあがっているのではないか。ぼくたちにとっての価値と、コンピュータたちにとっての価値はちがっていて、実はコンピュータたちが最大化しようとしている効用や価値というのはなにか別のものではないのか。
 これを考えようとするとぼくたちは、いったい「価値」というのはなんなのかを、もう一度きちんと考え直さなくてはならなくなる。そしてこれは、本稿で前に述べた、情報そのものを消費するときの人々の価値判断に戻ることになる。人がいったい「価値」だと思っているのはなんなんだろうか。
 それをきちんと考えるためには、たぶんおたくという人たちの世界を見てやる必要があるはずなんだ。エリック・レイモンドは『ノウアスフィアの開墾』という論文で、コンピュータおたく(ハッカーともいうな)たちの世界を支配している価値判断についてある種の分析を提供してくれたのだけれど、それをさらに拡大・一般化しなくてはならない。そしてそれを人間以外のものに適用できる可能性も探らなくてはならない。ただし、それが解明されてしまったときに、人間は滅びるかもしれないという予測は前に書いた。これについてはいつか、また別のところで論じよう。いまはもう紙幅がない。