われわれはなぜミニコミをつくるのか?
文・南陀楼綾繁

「ミニコミ」とは、ある個人やグループ(サークル)が自主的に発行し流通させる印刷物のことだ。このコトバは、「マスコミ」という大きなジャーナリズムに対する、Mini Communication Mediaという和製英語の略だといわれる。
 このような小さなメディアを呼ぶコトバとしては、「ミニコミ」のほか、「同人誌」「自主出版物」「インディーズ雑誌」「リトル・マガジン」「自費出版」といろいろある。また、発行者や発行地から「サークル誌」「会報」「機関誌」「タウン誌」「キャンパス誌」などに分けることも可能だ。無料で配布するモノを「フリーペーパー」と呼ぶこともある。
 もちろん、それぞれのコトバから得られるニュアンスは一定ではない。発行者が自分の発行物にどのコトバを冠するかは、その趣旨や内容に密接に結びついているからだ。たとえば、『谷中根津千駄木』を創刊した三人の女性は、PR誌的な「タウン誌」という名称を避けて、「地域雑誌」を名乗った。
 取りあげるテーマは、地域のこと、運動のこと、個人のことといった自分(たち)にとって切実な問題で、それをさまざまなカタチで表現している。100ページを超えるような冊子体の印刷物もあれば、コピー1枚のモノもある。友人のあいだでのみ配布しているモノもあれば、全国の書店に配本している場合もある。
 だから、本書で取りあげた200近くの以上の小さなメディアをひとくくりに「ミニコミ」と総称するコトに、抵抗感を覚える読者もいるかもしれない。
 しかし逆に、「ミニコミ」はひとつのイメージに固定されないひろがりと可能性を持ったコトバだということもできるだろう。
 この序論では、「ミニコミ」というコトバの内実が時代によってどう変化してきたかをたどり、現在、多様なひろがりを見せている小さなメディアの世界を俯瞰しようと思う。

プレ・ミニコミ時代

 あとで見るように、「ミニコミ」というコトバは1960年安保をきっかけにひろがった。では、それ以前に小さなメディアをつくる動きがなかったかというと、そんなコトはない。
 近代的なジャーナリズムが成立した明治期以降、それに対して堂々と論陣を張る個人や団体の小さな新聞・雑誌が多く出されている。
 そのナカでとくに大きい流れだったのが、文学を志す人たちによる同人誌だ。高見順の回想によれば、1925(大正14)年前後に空前絶後ともいうべき同人雑誌の全盛時代があり、「現在、何か書いている連中で、あの時分、同人雑誌をやってないのは、先ずないといっていい」ほどだったそうだ(『昭和文学盛衰史』)。ある調査によれば、このとき全国で出されていた同人雑誌は160以上あったという。おそらく、そのほとんどが二〜三人以内でつくられた100部以下の雑誌だったのではないだろうか。
 また、川柳の世界でも「柳誌」と呼ばれる同人誌が各地で発行された。岸本水府たち若手作家は、1912(大正元)年に『番傘』という新しい柳誌をはじめるが、この同人たちが集まって話すときの、仕事や世間での付き合いに関係なく自分たちの本当に追い求めていることに没頭し、互いに理解しあう姿は、寸暇を惜しんでミニコミをつくっている現代の連中とよく似ている(田辺聖子『道頓堀の雨に別れて以来なり 川柳作家・岸本水府とその時代』全2巻、講談社、1998年)。
 もう少しあとになると、自分が書きたいコトに責任を持って発行する個人誌・個人通信というスタイルも出てきた。有名なモノとしては、ジャーナリスト・桐生悠々の『他山の石』、弁護士・正木ひろしの『近きより』などがあるが、ここでは明治から戦後まで活躍したジャーナリスト・宮武外骨に注目したい。
 外骨は生涯に雑誌・単行本を100種類以上出したが、そのほとんどは自力で発行したモノだ。彼の個人出版社である「半狂堂」では、直接購読者のリストをつくり、新刊が出るたびに告知している。8万部印刷したといわれる『滑稽新聞』から、獄中で発行した新聞まで、その形態や内容はじつにさまざまだ。
 一つの箱に10種類の単行本を入れた『随題随記随刊』、12種類の雑誌を入れた『袋雑誌』というようなユニークな発想のモノが多い。思いついたらスグに新しい雑誌をつくらないと気がすまなかったようで、『早晩廃刊雑誌』なるヒトを喰ったタイトルまである(ホントに1号で廃刊)。自分の主張をそれにあったスタイルの印刷物としてカタチにしていくという意味で、個人的なミニコミの先駆者であったといえよう。
 このほか、戦前には三田平凡寺や池田文痴庵といった趣味人・コレクターが個人誌を出した例は多い(串間努「趣味誌の歴史」69頁)。また、鳥取県の片田舎の分教場教員だった板祐生は、県内からほとんど出ることなしに全国の趣味人と交流し、孔版印刷の個人誌を何十冊も発行している。
 自分の出したいモノを出したいようにつくった戦前の趣味人たちの生き方を見ていると、逆にイマのわれわれは自由を与えられながらもホントにやりたいコトをやっているのかなという気がしてしまう。

ミニコミ・ムーブメントの誕生

 第二次世界大戦後、民主主義の潮流により、市民運動を進める場として小さなメディアをつくる人々が出てきた。これが1960年前後に、安保(日米安全保障条約)への反対運動につながった。
「ミニコミ」というコトバは、50年代末、この安保闘争のなかで生まれたといわれている。中国文学者の竹内好は「小新聞の可能性」を書いて、市民が自分の手でニュースを選んでメディアをつくるべきだと主張したが、政治権力やマスコミへの市民の側からの異議申し立ては、おもにビラやパンフレットなどのスタイルをとってあらわれた。
 これら多くの小さな発行物をマスコミに対してミニコミと呼ぶようになったのには、べつに名付け親がいたわけではなく、ごく自然な流れだったのだと思う。「ミニコミ年表」(『生きるためのメディア図鑑』)には、64年に『ミニコミ』という誌名が見つかるから、この時期にはすでにこの呼び方が定着していたのではないだろうか。
また『思想の科学』では、56年から鶴見俊輔らによって「日本の地下水」というサークル雑誌時評がはじまっている。この欄を引き継いだ田村紀雄らが「ミニコミとはなんだ││私たちの立場と考え」を書いたのは66年であった。
 65年にはじまったベ平連(「ベトナムに平和を!」市民連合)は、市民運動とミニコミの結びつきをより明確にした。機関誌『ベ平連ニュース』のほか、各地で300以上生まれたという地域ベ平連によって、100近くのミニコミが出されたそうだ(丸山尚『ミニコミ戦後史』)。
 この時期のミニコミとしては、前田俊彦の『瓢鰻亭通信』、米軍基地内の反戦運動を支持する『脱走兵通信』、70年安保運動のメディア『週刊アンポ』などの名前があがる。
 1970年代に入ると、『朝日ジャーナル』が特集(71年3月26日号「ミニコミ71 奔流する地下水」)を組んだほど、数多くのミニコミが出されるようになった。吉祥寺で出されたフリーペーパー『名前のない新聞』、四日市公害を批判する『公害トマレ』、女性解放のミニコミ『女・エロス』など、発行者の視点や読者の対象もいろいろなひろがりを見せていく。それは公害反対運動、環境保護、障害者福祉などに分化していく市民運動の現実を反映していたといえよう。
 また、「カウンター・カルチャー」と呼ぶべき、既存の文化やジャーナリズムに反抗する動きが若者を中心に起こった。69年創刊の『フォークリポート』はその典型的なミニコミだ。71年には、大阪で『プレイガイドジャーナル』、東京で『ぴあ』というカルチャー情報誌がはじめて生まれている。
 70年代後半になると、キャンパス誌の先駆けである『早稲田乞食』、演劇と楽団から生まれた『水牛通信』、誌面全体がパロディで埋め尽くされた『面白貼紙情報』のように、市民運動と直接関わりのないトコロからもミニコミが多く登場しはじめた。
 ミニコミが多く出されるようになると、その存在を読者に伝え、流通させるしくみが必要になってくる。70年10月には、新宿御苑に模索舎がオープンし、ミニコミ(模索舎では「自主出版物」と呼んだ)を集めて販売する情報センターとなることをめざした(「川上賢一さんに聞く」194頁)。
 この同時期に、丸山尚・田村紀雄らが新橋に「日本ミニコミセンター」を設立し、ミニコミ発行者同士の連帯をはかろうとしている。彼らの呼びかけで、71年、誕生したばかりの新宿の歩行者天国でミニコミを販売する「ミニコミ市」が開かれている。この日本ミニコミセンターは、のちにミニコミ資料を収集する住民図書館に発展していく。
 若者が集まる街の喫茶店には、ミニコミが多く置かれるようになる。札幌には『ひらひらニュース』を出した人たちが、「ひらひら」というミニコミ喫茶をつくっているし、70年代後半には神保町に日本各地で出されるミニコミを集めた「アクセス」というミニコミ喫茶もあった。喫茶店の片隅での雑談のナカから多くのミニコミが生まれている(扉野良人「喫茶店はひき合う孤独の力」87頁)。


「チビ雑誌」たちと80年代

 1970年代の後半になると、学生運動や市民運動の退潮にともない、若者の関心はサブカルチャーへと移っていった。そうなると、ミニコミも運動の場から発信されるようなものよりも、音楽・映画といったジャンルごとのものや個人の趣味や見方を反映したものが増えてきた。
 76年、目黒考二と椎名誠が創刊した『本の雑誌』は、この時代を象徴するミニコミだった。「本が好きだ」というだけで、なんの権威も知名度もない若者たちが書評とブックガイドの雑誌をつくってしまい、それが読者を獲得したコトの意味は大きい(「目黒考二さんに聞く」106頁)。
『本の雑誌』では、新聞や雑誌の書評欄では取りあげられないような本や雑誌を積極的に紹介した。「面白雑誌」「らんだむガイド」などの欄では、ミニコミや地方のタウン誌が多く取りあげられているし、読者欄「三角窓口」がミニコミ発行者が自己PRをする場になっていた(本書で紹介した『書皮報』は第31号の「三角窓口」での呼びかけから生まれている)。
 ミニコミのつくり手の多くがこの雑誌の読者だったコトを示したのが、79年(第12号)と85年(第45号)に行なわれた「ガリバン誌コピー誌熱血コンテスト」だ。第1回は257誌、第2回は133誌ものミニコミが送られてきたナカから「バカバカしいエネルギーがはっきり出ているかどうかを基準に選んだ」という。このコンテストに入賞しているミニコミを見ると、それ以前のミニコミとは明らかに違うところがある。それは、表現そのものを楽しむタイプのミニコミが主流になっているというコトだ。たとえば、第1回でコピー誌部門の一位になった『BEE・BEE』はワケがわからない内容ながら編集センスはバツグンだったという(このミニコミの発行人はのちにライターとして活躍する高杉弾。執筆者の隅田川乱一は『本の雑誌』に原稿を書くようになる)。
 また、誌面には『ぱふ』『奇想天外』『ロッキング・オン』『JUNE』『宝島』『噂の真相』『話の特集』『広告批評』『ビックリハウス』『夜想』といったリトル・マガジンの交換広告が載っている。コレらの「チビ雑誌」(椎名誠の表現)は、いずれも商業誌だが少部数であり、熱狂的な読者がいた点では共通していた。
 ちょうどこの時期に、レコードや映画の世界で「インディーズ」と呼ばれる独立資本の小会社が生まれはじめたことも、コレらの雑誌の読者を増やしたかもしれない。
 この時期にはじめて、これまでアンダーグラウンドな場所でしか取りあげられなかったようなマンガや音楽、SFなどのマニアックな記事が普通に商業誌に載るようになったのだ。
 82年にエンドユイチ(現在『月刊アスキー』編集長であり、コンピュータ文化について書いている遠藤諭)が創刊し、のちに中森明夫が編集人となった『東京おとなクラブ』は、こういったサブカルチャー全盛の時代に、それでもまだミニコミでしか読めない情報はあるハズだという確信をもって出されている。
 このミニコミが新しかったのは、志があればレイアウトのセンスなんていらないという従来のミニコミを「読み手の立場になれない一人よがり」と批判し、「『ポパイ』と『フォーカス』のレイアウトおよび語り口の良さは定評のあるところで、後発組がその成果をチャッカリいただいたうえに、短所までも研究しつくしてより面白いものにできるならそれはそれでヨイ」のだ(第2号)といいきった点にある。
 ココではすでに、マスコミとミニコミ、メジャーとマイナー、メインカルチャーとサブカルチャーは交換可能なモノになっている。この先、前者と後者のあいだにあるわずかな差異を楽しむことが、メディアへの関わりかたになっていく。
「おたく」(周知のごとく、中森明夫が名付け親)の時代の幕開けである。ミニコミのありかたも、当然変わっていくであろう。
 また、1975年にはじまった「コミックマーケット」(以下、コミケ)は、「同人誌」と呼ばれるアマチュアのマンガ作品を載せる印刷物を販売する場として、多くの参加サークル、参加者を獲得していく。自分で描いたマンガを本にする楽しさ、経験がなくともキレイな同人誌がつくれること、見知らぬヒトに自分の同人誌が読んでもらえるという対面販売の快感などは、コミケというイベントによって一般的に知られるようになったといえる(「米沢嘉博さんに聞く」217頁)。

ミニコミづくりの道具史

 70年代から80年代にかけて、ミニコミの世界に大きな影響をもたらしたのは、印刷手段が安価で手軽になったコトだ。
 戦前から60年代までは、少部数の同人雑誌、機関誌、新聞などのミニコミはガリ版(孔版)印刷するのが普通だった。持ち運びのできる小型の印刷機械を使って、安く速く大量に印刷できたため、市民運動や学生運動でもガリ版によって、多くのビラやパンフレットがつくられている(田村紀雄・志村章子『ガリ版文化史』)。ガリ版でミニコミをつくるためには、まず原紙に鉄筆で原稿を書き(筆耕という)、それを印刷機に貼りつけ、インキをつけたローラーで紙に印刷する。筆耕も印刷もそれなりの技術が要求されるので、労働運動の現場では「ガリキリ八年、ビラハリ三年」といわれたそうだ。
 その後、書き文字に頼るしかなかったガリ版印刷に替わって、タイプ孔版による印刷や軽オフセット印刷が登場してくる。コレにより、さらに大量部数の印刷が可能になり、多くの書体を使うこともできるようになった。
 しかし、ミニコミの製作を大きく変えたのは、ワード・プロセッサー(ワープロ)とコピー機だった。両者とも、一般人が買ったり、利用したりできるようになったのは80年代前半ごろである。
この二つの新しい道具がミニコミづくりをいかに変えたかというコトは、81年に出た別冊宝島『メディアのつくり方』と、93年に出た同シリーズの『新・メディアのつくり方』を見比べればハッキリと判る。ワープロもコピー機も普及前夜だった頃の旧版には、ミニコミづくりのための技術マニュアルに、原稿用紙の使い方・活字の級数指定・版下指定のやり方などの項目がある。ところが、新版では手を動かして版下をつくるやり方についても触れてはいるが、基本的にはワープロ・コンピュータで原稿をつくってDTPで組版したものを印刷する過程を説明するのが中心だ。この10年のあいだに、ミニコミのつくり方は大きく変わったのだ。
 現在では、ワープロは5〜6万円でじゅうぶん版下がつくれる機種が手に入るし、DTPソフトが使えるコンピュータも安くなった。街に行けば、コンビニエンスストアの10円コピー機で、版下を自由に複写できる。縮小・拡大、両面印刷、カラーコピーなどの機能も当然ついている。オフセット印刷する場合にも、コミケに出すマンガ同人誌専門の印刷所が増えたため、フルカラー表紙で100ページを超えるようなモノが安く印刷できるようになった。
 こうしてわれわれは以前からは想像もできないほど安く速くキレイに大量に印刷する手段を持つコトができた。しかも、すでにそれをアタリマエのように感じている。しかし、いまでもガリ版で個人通信を出している人たちは多いし、コピー誌でも徹底してデザインに凝るミニコミ発行者もいる。必要なのは、自分がつくりたい中身に合う本づくりを考えていくコトではないか。

中身とカタチの関係

 商業出版では、判型や組み方、書体の選択肢はそんなに与えられていない。単行本の場合、内容がどんなモノであろうと、明朝体の文字で一段組、四色刷りのカバーが掛かった四六判(あるいはA5判)でというきまったフォーマットに押し込められてしまう。コストの問題もあるが、書店や読者が本について持っているイメージを裏切るコトは、あんまりやってはイケナイのだ。
 だけど、ミニコミでは自分でカネを出してつくり自分で売るんだから、どんなカタチにしようと誰にも文句はいわれない。むしろ、読者は商業出版にないオモシロさを求めてミニコミを買う。値段が安いかどうかもそんなに関係がない。読みたいと思えば、高くてもカネを出して買っていく。ミニコミでは、わずか4ページで手書き、ホチキス止めのコピー誌が、100ページでフルDTP、カラー表紙というビジュアル要素いっぱいのモノよりもバカ売れするという事態がいくらでも起こる。
 書きたいコトや人に読ませたいコトという中身と、それをカタチにするやり方が合ってさえいれば、そのミニコミは成功なのだと思う。
 かつて、作家の橋本治は、『恋するももんが』という全編手書きのミニコミを500部だけ勝手につくって本屋に売って回ったことがあるが(のちに『覆刻版恋するももんが』として扶桑社より刊行)、これについて「青春というものはバカでダサイものなんだから、若いヤツのつくるミニコミはヘタであるべきだ。キレイにつくろうと思うんじゃない。活字なんて使うな!」というようにいったのをどこかで読んだ記憶がある。たしかに、カタチばっかり先走っても中身が取り残されちゃあしょうがない。だけど、ホントーのところをいえば、カタチが先走ったからこそ中身がついてきたミニコミもたくさんあるんだけどね。

そしてインターネットへ

 コンピュータを使う生活がごく普通になりはじめた95年頃から、インターネットのWWW(ワールド・ワイド・ウェブ)で個人がホームページを持ち、なんらかの発信をするようになった。
 インターネットでは、文字と画像を自由に組み合わせることができる。自分の興味のおもむくままにリンクをはることによって、内容を増殖させることも可能だ。もっとも手軽に個人的なメディアをつくれるモノだといえよう。ナカには電子版の「ミニコミ」であることをはっきりうたうサイトもある。
 もちろん最終的に紙に定着する印刷物と、画面で文字を読み、ページめくりの感覚もないインターネットのホームページを簡単に同じモノだとみなすことはできない。しかし実際のところ、ミニコミ発行者たちの多くはごく自然にホームページをはじめている。
 たとえば、78〜87年まで100号続いたミニコミ『水牛通信』の編集者だった八巻美恵らは、今年、T‐Timeというソフトで読む『Ice Tea』(http://www.voyager.co.jp/T-Time/icetea/)というオンライン・ミニコミをスタートさせている。
 一方、サイトを通してミニコミづくりのおもしろさを知った若いヒトたちが紙のミニコミを出しはじめた例もある。彼らはむしろ両者のメディアとしての違いを楽しみながら、つくっているように見える。同じタイトルのミニコミで、紙版とウェブ版を両立させるコトが多いのは、そのためかもしれない(やみたけ「ウェブと紙のミニコミ」259頁)。

なんでミニコミをつくるのか

 ここまで駆け足で、「ミニコミ」的なモノの歴史をたどってきた。では現在のミニコミはどうなっているのか(野中モモ「90年代インディー・マガジンの昨日と今日」36頁)。
 80〜90年代にかけて、人々の価値観の多様化が進み、それまで幻想としてはあったかもしれない若者共通の時代感覚(のようなもの)が消滅してしまった。サブカルチャーでいえばあるジャンルのナカでさらに自分の好きな対象を求めるようになり、商業誌は読者のニーズに従って限りなく細かくジャンル分けしていくという泥沼に陥った。
 ミニコミも、より多様化・細分化した結果、いまでは一人一ジャンルと呼べるほどになっている。それまで主流だったサークルによる運動のミニコミよりも、個人的な興味をカタチにしていくようなミニコミが増えたせいもあるだろう。しかし、むしろこの時期になってはじめて、個人が「出したいモノを出したいようにつくる」ことに自覚的になり、タテマエよりもホンネに忠実であることがごく自然になったのだと考えたい。

 それでは、もう一度冒頭にかえろう。「ミニコミ」ってなんだ? そして、なんでミニコミをつくるの?
 70年代、『無名通信』を出していた河野信子は、ミニコミを出す意味について次のように書いた。

 この世には、一般性・共通性などでくくれることのできない狭い領域がある。この狭い領域を出発点とすることから、ミニコミは、始まる。だが狭いということは、閉鎖的な意識空間を主観的に設定して、そのなかに、閉じこもり、楽しんでいることを意味するのではない。
 一般性の名をえて、繰りかえされるパターンへの反抗にはじまり、自己の極限的に狭い領域を、たじろぐことなく内視し、内視領域を表出することで、個別的なものから特殊なものへ、特殊なものから普遍的なものへといった、やすむことのない介入を志すことでもある。(河野信子「『無名通信』から」『出版ニュース』1973年8月上旬号)

 もう少しくだいて考えてみよう。
 われわれは自分のウチに簡単に解決できない問題を抱えている。その内実はヒトによって当然異なるが、共通しているのは、自分の抱える問題をなんらかのカタチで外に向かって発信しなければ、だれも判ってくれないというコトだ。
 ヒトに判ってもらえるためには、コミュニケーションが必要だ。しかし、マス・コミュニケーションは「一般性」の名のもとに、「私」の問題を抽象化しようとする。だから、個別的な問題を扱うためにはミニコミが必要になってくる。
 ミニコミという印刷物は、ヒトに自分の問題を伝えるためのメディアであるが、それを出すこと自体がコミュニケーションでもある。読者に「私」の問題を入念な手つきで伝えようとするとき、そこに「普遍的なもの」が生まれてゆく……。
 このミニ・コミュニケーションにおいては、マスコミと違って、つくり手と読者の距離はきわめて近い。ヒトのミニコミを読むことで、自分も発信したいと考えるようになり、次第にそのカタチやスタイルが見えてくる。
 読者はつくり手へ、つくり手は読者へ。
 また、ミニコミにおいては、ドコではじめてドコで終わるかはつくり手の自由だ。だから1号で消えてしまったミニコミは数多い。しかし、一方で20年以上変わらないスタイルで続いているミニコミ、1号ごとにカタチもタイトルもまったく変えながらともかく継続しているミニコミがある。ヤメてしまうコトも一つの意志表示ではあるが、つくり手にとっても読者にとってもミニコミを続けることがそれだけで大きな成果になることはいうまでもない。
 ミニコミとは結局のところ、「私(私たち)」がどうしても伝えたい内容をつくりたいカタチで発信するメディアではないだろうか。そして、そのようなモノである限り、運動系のミニコミも個人的なミニコミも、60年代のモノもいまのモノも本質的には同じなのではないかと思うのだ。
 コレは、僕だけのあまりに理想主義的な考えなのだろうか?

新しいミニコミよ、出てこい

 最後に、この本で扱う「ミニコミ」の範囲を簡単に説明しておこう。
この文章でさんざん強調してきたように、「ミニコミ」はけっして一つの形態に限定できない。だからこの本では、同人誌も運動の機関誌も個人通信も取りあげているし、値段をつけて売っているモノもフリーペーパーとして配布しているモノも入っている。また、定期刊行物として発行されているモノ(「ミニコミ誌」といういい方もある)だけでなく、一冊ごとの単行本・パンフレットも同じように扱った。
その結果この本は、1000部以上印刷して書店に並んでいるミニコミの紹介のヨコに、友人のあいだに5部だけ配布されるコピー誌が紹介されるような構成になった。しかし、このアナーキーな混沌がミニコミのひろがりの一端を示すものだと考えている。
 もちろん、欠けている要素はたくさんある。現在発行されているミニコミは、何千種類にものぼるだろう。しかしこの本では、一〇人の執筆者が自分で見つけたナカから選んだ約200種を紹介するにとどまっている。
 この本の執筆者は、全員がミニコミの発行者であるか熱心な読者である。この文章では「ミニコミ」というコトバについて長々と書いてきたが、日常的にこの小さなメディアとつきあってきたわれわれには、ほかのどんなコトバよりも「ミニコミ」がごく自然に口をついて出る。だから、自分たちが選んだ小さなメディアたちに親しみと敬意をこめて、この本の書名を『ミニコミ魂』としたのである。

 ココで紹介したミニコミに興味をお持ちになったら、願わくば、実際に手に入れて読んでみてほしい。そして、手紙でも電子メールでもいい、つくり手に対して反応していただきたい。そこまでいけば、あなたが読者からつくり手になるまでにあと一歩だ。
 プロの編集者である津野海太郎は、かつてこう書いた。

 本の世界は、ふつうに私たちが思っているよりもずっとひろいのではないか。(略)専門の執筆者と専門の編集者とが協力して、大小の差こそあれ、出版企業の商品としてつくりだす本のほかに、それとはちがう本のつくりかた、ひろめかたがあって、私たちとは別のところで、その経験が蓄積されつつある。商品としての本づくりを基準にして見れば、それはアマチュアの仕事ということになるが、かれらにつくれる本が私にはつくれないという点では、私たちこそがアマチュアなのだ。
(「本の野蛮状態のさきへ」『小さなメディアの必要』)

 これから先、われわれが想像もしていなかったような新しい「ミニコミ」が生まれてくることを期待している。