オンライン書店の誘惑する力
津野海太郎

オンライン書店の誘惑する力 津野海太郎
ある春の日、とつぜん
アマゾン・コムが
日本語で読めるようになった

 一九九八年のある春の日、市ヶ谷左内坂にある『季刊・本とコンピュータ』の編集室でアマゾン・コムのサイトをのぞいていたら、そばをとおりかかった若い部員が、
「そこはもう日本語サイトができてますよ」
 とおしえてくれた。
 アマゾン・コムというのは、一九九五年にインターネット上に開設されたアメリカの有名なオンライン書店の名まえである。公称二五〇万タイトルの本をデータベース検索して、みつかった本を世界中どこからでもかなりの割り引き値で購入できる。ただし、ここはあくまでもシアトルに本拠をおくアメリカの書店だし、扱っている本も英語のものが中心だ。その「日本語サイト」というのは、いったい、どういう意味なのだろうか。
「だからアマゾンが日本語で利用できるんですよ。見れば、すぐわかりますよ。つい最近、開設したみたいです」
 さっそく、インターネット住所(http://www.amazon.com/jp)をおそわって接続してみた。なるほど、ホームページのデザインもそのままに、このサイトの使い方から注文方法の解説にいたるまで、すべての文章がいちいち日本語におきかえられている。ちょっと見では、日本国内のウェブサイトとも区別がつかないくらい。
「……開設当初から日本のお客様にも数多くご利用いただき、北は北海道から南は沖縄まで、全国各地に様々な本をお届けしております。また、Amazon.com ならば、日本にいながらにしてお探しの本を見つけられ、ご自身で輸入されることで時間も本代も節約できると、洋書愛好家の方々から大変喜ばれております」
 というあいさつ文の下には、同書店の一〇〇万人目の客が日本人だったので、ジェフ・ベゾス最高経営責任者(CEO)が注文のあった本を日本まで直接とどけにいったというような記事が、写真入りでのっている。ようするに、いざオンライン書店をはじめてみたら、ローマ字アルファベット圏だけでなく日本からの注文が意外におおかったので、これは市場としてさらにのびる可能性があるぞと、あらためて日本人専用のサイトをもうけることにした、とまあ、そういうことであるらしい。アメリカ国内のベストセラー表とともに、「日本からの注文がおおかった本・ベスト20」といったものまでがちゃんと用意されている。
 もちろん日本語で読めるのは、いってみれば入り口の部分だけで、書店内部での検索や注文は英語でこなさなければならない。
 でも私もふくめて、まだオンライン・ショッピングの手法に慣れていないほとんどの日本人にとっては、これらの手つづきがけっこう煩雑なものに感じられてしまうというのもまたたしかなことなのだ。オンラインでのモノやカネのやりとりを安全なものにするには、いまのところ、さまざまな認証の手つづきが必要になる。たんに英語が日本語になっているだけのことでも、正直いって、ホッとする。必要な本を注文すると、「たしかに受理しました」とか「いま出荷しました」という報告の電子メールがとどく。その定型文の日本語訳までがのっているあたり、なかなか芸がこまかい。このんで英語の本を買う日本人、かならずしも英語に堪能ならず、という侘びしい現実をすっかり見すかされているのかもしれない。
 アマゾン・コムの日本語サイト開設の背後には、おそらく、たんなる日本人利用者への親切というだけではなく、このオンライン書店の野心、世界戦略といったものが、どかんと横たわっているのだろうと思う。
 現に、ベゾス以下の同社のリーダーたちは、提携相手をもとめて、最近、この国をしばしばおとずれていると聞く。日本の書店はもう百年もまえから日本人あいてに洋書を売ってきた。インターネット時代をむかえて、アメリカの書店がオンラインで和書(日本で出版された日本語の本)を売るようになったとしても、なんのふしぎもない。ただし、古びるだけ古びて、すでにうまく機能しなくなっている日本の書籍流通システムは、そのことでたいへんなショックをうけることになるはずだ。「ビッグバン」はなにも銀行や証券業界だけの話ではないのである、といった点についてはあとでまた触れるとして……。

おびただしいかずの本と
途方もない情報量に
わたしはあっけにとられた

 私がインターネットを利用するようになったのが一九九五年。それからの三年間で、「よもや私の生きているあいだにこんなことが可能になるとは」と、心底、びっくりさせられたことが、いくつもある。なかで、もっとも新しいおどろきがこのオンライン書店だった。
 通常の書店のような物理的な店舗はもうけず、インターネット上に、イメージと情報だけで構成された仮想書店をひらき、オンラインで世界中から注文をうけて本やCDやビデオを売り、その代金を(いまはとりあえず)買い手の銀行口座からひきおとす。さきに紹介したように、こうしたオンライン書店の手法は、一九九五年、ニューヨークで投資信託のしごとをしていたジェフ・ベゾスという男が、シアトルを本拠にアマゾン・コムを開店したときにはじまった。
 ベゾスの前業からも想像がつくように、オンライン書店の利点はその精密巨大なデータベース・システムにある。一年ほどまえ、アマゾン・コムをはじめてのぞいたとき、ためしに、
 ──印刷について書かれた子どもの本。
 をさがしてみた。印刷史に関心をもちはじめた時期だったのと、もともと子ども向けの本に興味があったという以外、とくに理由はない。
ふつうの書店同様、インターネット上の書店も、歴史書とか文学書とか料理本とかビジネス書とか、領域別に、いくつかのコーナーにわかれている。そのうちの児童書コーナーにいって、キーワード検索用の空欄に「printing」と打ちこみ検索アイコンをクリックしたら、あっというまに結果がでた。印刷や書物の歴史をあつかったもの、だれにでもできるかんたんな印刷術の本(イモ版の本まである)などが、あわせて三十六点。いちばん古いのが一九六六年にでたアーヴィング・サイモンの『いんさつの話』という本で、九〇年代にはいって出版された新しい本が圧倒的におおい。グーテンベルクの伝記絵本だけで三点もある。

 ○ジョーン・バーチ文、ケント・アルドリッチ絵『うつくしい印刷』(キャロルローダ・ブックス、一九九一年)
 ○レオナード・エヴェレット・フィッシャー文と絵『グーテンベルク』(マクミラン、一九九三年)
 ○ナンシー・ウィラード文、ブライアン・レスター絵『グーテンベルクのおくりもの』(ワイルド・ハニー、一九八八年)

 それにしても、英語圏では子どもむけの印刷や出版の本がこんなにもたくさんつくられているのか! とあっけにとられた。
 では日本ではどうだろう。図書館流通センターの検索サイト(http://www.trc.co.jp/trc-japa/index.htm)にはいって、おなじ条件で検索をかけてみたが、案の定、一点もひっかかってこない。「幕末日本のグーテンベルク」ともいうべき本木昌造の伝記絵本? そんなもの、あるわけないじゃないの。いやはや、オンライン書店はすごいや。二つの検索結果をならべてみるだけで、ローマ字文化圏では印刷という基礎技術がいまもこれほど大切にされている、他方、日本では、というようなことが、だれの目にもはっきりと見えてしまうのだから。
 本の文化の特質はその多様性にある。多品種少量生産。したがって毎年、たいへんな量の新刊本が市場におくりだされる。とうぜん、どんな大型書店も、いま流通している本のすべてを店頭に並べることはできない。しかしオンライン書店なら、それができる。しかも軽々と。このコレクションの網羅性が第一のおどろきとすれば、第二のおどろきは、その検索のはやさ、正確さ、さらにいうならば、そこに準備された情報量の途方もないゆたかさだった。
 いかに興味のある主題とはいえ、なにしろアメリカ製の英語の児童書なのだ。何十点もの検索結果にずらりと無表情に並ばれても、どれがどんな内容で、どの程度の品質の本なのか、さっぱり見当がつかない。そこで、やみくもに一冊をえらんでクリックしてみたら、別ページがひらいて、その本についてのこまかいデータがぞろぞろと表示された。表紙の写真、判型やページ数はもとより、あらすじや目次、この本はいつ発送できるか、おなじ著者がほかにどんな本をだしているかといったことまでが、すぐわかるしくみになっている。
 なかでも感心したのが書評の再録だ。すべてではないが、半分ほどの本の紹介ページに児童書の専門誌や印刷関係の雑誌にのった書評の抜粋が収録されていて、それらを読むと、それがどんな内容の本なのか、だいたいの当たりがつけられるようになっている。読者の書評や著者へのインタビューも読める。うーん、おもしろそう。思わず、前記の三冊のグーテンベルク絵本をはじめ、十冊ほどの本を画面下方におかれた「買物かご」に投げいれてしまった。
 値段は、たいしたことない。値引きがあるので十冊買っても二万円たらず。しかも配達料こみである。「アマゾンがこれだけ急成長したのは、配達の速さと値段の安さがあったからだ」と、『季刊・本とコンピュータ』一九九八年夏号に掲載された「オンライン書店の衝撃」(星野捗・河上進)というルポにもある。

「……読者が注文すると、即座に、一〇以上の卸業者からなるネットワークに発注される。早ければ翌日の午前四時までにシアトルの配送センターに本が届き、梱包・発送される。日本から注文した場合、航空便では一〜三週間、DHL社の国際速達便なら一週間以内で届く。いまのところ、動きのいい少数のタイトルにかぎって、配送センターに在庫をもっているが、ゆくゆくは卸業者や出版社から直接読者に配送させるシステムを考えているようだ。全タイトル中の四〇万冊について、ハードカバーは三〇パーセント、ペーパーバックは二〇パーセント、特別推薦の本は四〇パーセントというように値引き販売したのも、顧客をつかむ要因になった」

 こうしたアマゾンの値引き作戦で一般の書店が大きな打撃をこうむっているといった話も耳にしないではない。さもあらん。でも、そのことがもつ深刻な意味について、いまここでうんぬんすることは避けたい。
 ともあれアマゾン・コムを一見すれば、店頭で、じかに手にとって本をえらぶ従来の書店方式と、そこから生じる伝統的な「本屋さん」の魅力に対抗すべく、オンライン書店はどれだけの工夫をこらさなければならないか、ということがよくわかる。巨大データベースの構築、性能のいい検索エンジンの開発、書評その他の懇切な情報提供にはじまって、流通過程の合理化や大幅な値引き作戦にいたるまで、アマゾン・コムは、そのために考えられることのすべてを徹底的にやったといってよかろう。オンライン書店の歴史が開始される場所で、これだけ高度なモデル(サービス基準)を一挙につくりあげてしまったことの意味は、きわめて大きいにちがいない。

もし「こころざし」さえあれば
大学にいかなくたって
だれでも一人前の研究者になれる
 
 子どもの本だけでなく、私はこのしくみをつかって、たとえばアルダス・マヌチウスの伝記や研究書や展覧会カタログを何冊か入手した。アルダスはルネサンス期ヴェネチアの印刷業者兼出版人で、近代的な小型本のかたちをはじめてつくりだした人物としても名高い。

 ○ヘレン・バロリーニ『アルダスとかれの夢の本』(イタリカ・プレス、一九九一年)
 ○ポール・J・アンガーホファー他『アルダス伝説』(ハロルド・B・リー図書館友の会、一九九五年)
 ○ジョージ・フレッチャー『アルダス・マヌチウスを頌えて』(ピアポイント・モーガン図書館、一九九五年)など。

アルダスの同志にして居候だったエラスムスの伝記、何冊かの印刷史や書物史の本も手に入れた。たとえば──

 ○ライサ・ジャーディン『文字の人エラスムス』(プリンストン大学出版部、一九九三年)
 ○アンリ = ジャン・マルタン『書くことの歴史と権力』(シカゴ大学出版部、一九八八年)
 ○デイヴィッド・ディリンジャー『印刷以前の書物』(ドーヴァー出版、一九八二年、元本は一九五三年)
○ ジョージ・アチエ編『イスラム世界の書物』(ニューヨーク州立大学出版部、一九九五年)

など。
 私は大学人ではないし、出版史や印刷史に頭からのめりこんでいる在野の研究者でもない。書物マニアでもなければ蒐集家でもない。だから、アルダス・マヌチウスについて知りたいと思っても、そのためにまずどんな本を読めばいいのか、そんな程度のことすらなにもわからない。ほしい本を洋書店で日常的に注文したり、直接、外国の本屋に発注したりという習慣も身についていない。したがって私にかんするかぎり、たまたま足を踏みいれた日本や外国の書店で、偶然、ちょっとおもしろそうな本にぶつかる、というのが、外国で出版された本との唯一の出会い方だったのである。
 そんな無知な人間でも、必要とあらば、じぶんの部屋から一歩もでることなく、特定の主題にかんする新旧の研究書を一瞬にしてさがしあて、それを自分のものにすることができる。そういうことがオンライン書店によってはじめて可能になった。考えてみると、これはじつにおどろくべきことなのではないか。
 アマゾン・コムの成功に刺激されて、アメリカでは、バーンズ&ノーブルやボーダーズなどの有名書店チェーンもあいついでオンライン化をはかり、そのいずれもがめざましい成果をあげている。どの書店でもアマゾン・コム方式をまねて、検索をかけると、たちまち、数冊、ときには数十冊、数百冊の関連書が表示されるしくみができあがっている。それぞれの本にかんする『ニューヨーク・タイムズ・ブック・レビュー』その他の書評の再録や抄録が用意されている点もおなじ。自前で電子書評誌を創刊したところさえある。
 こうした大書店にとどまらず、アメリカ各地の比較的ちいさな専門書店も、オンライン・ビジネスに積極的にのりだしはじめた。それぞれの専門におうじて、大型書店にはできない高度な情報提供をおこなうことがセールス・ポイントになっているらしい。
 さらにアマゾン・コムやボーダーズには、品切れ本や絶版本を古本でさがしてくれるサービスが用意されている。そうなれば古書業界もだまってはいない。一九九八年には全米的なオンライン古書ネットワークがいくつか組織された。そのひとつ、インターロック(http://daniel.interloc.com)をつうじて、先日、

 ○ジョン・クライド・オズワルド『印刷人としてのベンジャミン・フランクリン』(ダブルデイ、一九一七年)

 という本を注文した。まだ現物がとどいていないので正確なことはわからないが、おそらく二〇年ほどまえに宮益坂の古本屋でみかけたまま、値段が高すぎたかなにかで、つい買いそこねて後悔しつづけてきた本なのではないかと思う。私が二〇代のころ、もしこういうしくみが存在していたら、と思わざるをえない。私の人生は、いまあるものとはずいぶんちがったものになっていたのではなかろうか。
 じぶんが関心をもつ領域についての必要な本をひろくさがし、確実に入手する技術を身につける。そのためには、以前であれば大学その他の研究機関で何年も経験をつむ必要があった。でも、いまはそれが、だれにでもかんたんにできる。今後は大学にたよらない本格的な研究者がどんどん登場してくるだろう。書籍流通にとどまらず、オンライン書店は大学を頂点とする学問システムをも大きく揺るがすことになるかもしれない。それがわるいことであるとは私には思えない。

失われた本屋さんのときめきを
オンライン書店が
よみがえらせてくれた

 むかしは好きな本屋にはいると心臓がときめいた。たとえば前川国男が設計したという四十年まえの新宿紀伊國屋。二階(洋書と地図部)に回廊をもつ吹き抜けの大空間と、入口わきに設置された円形テントふうの小さな雑誌売場。日が暮れるころ、隣接する茶色い板壁の喫茶部で、なかなかあらわれない恋人を待つ。じつになつかしい。
 その、とうのむかしに忘れていた感覚を、思いがけず、アメリカのオンライン書店がよみがえらせてくれた。仮想書店であろうとなんであろうと、ここには昨今の書店ではたえて味わうことができなくなったときめきが存在するのだ。
 いきおい、このときめきに負けて、それほど買う気がなくても、つい必要以上の本を買ってしまうというようなことが、しょっちゅう起こる。はじめてアマゾン・コムをのぞき、あまりの情報量のゆたかさ、はなやかさに頭がクラクラして、ひと晩で四〇万円分もの本を注文してしまったという知人がいる。さすがに「送り先をどうしようか」と頭をかかえたそうだ。奥さんにバレたらおこられるというので。
 他人のことはいえない。私も先日、アメリカのミュージカル映画にかんする本をまとめて大量に買い込んでしまった。
中学から高校にかけて、ミュージカル映画にいれこんでいた時期がある。ちょうど、MGMの作詞家兼プロデューサーだったアーサー・フリードを中心に、ヴィンセント・ミネリ、ジーン・ケリー、スタンリー・ドネンなどの「アーサー・フリード一家」と呼ばれる才能たちが活躍していたころの話である。映画でいえば『雨に唄えば』や『巴里のアメリカ人』の時代。そしてそれから半世紀のち、インターネットのオンライン書店にとびこんで、なんの気なしに「musical film」というキーワードで検索をかけ、でてきた結果を見て気がくるった。

 ○リチャード・バリアス『暗闇にうたう──ミュージカル映画の誕生』(オックスフォード大学出版部、一九九五年)
 ○ヒュー・フォーディン『MGMの傑作ミュージカル──アーサー・フリード・ユニット』(ダーカーポ出版、一九七五年)
 ○ジェフ・カッチ『ミュージカル映画トリヴィア・ブック』(アプローズ・ブックス、一九九六年)
 ○マイク・ニコルズ序文『コムデンとグリーンのNYミュージカル集』(アプローズ・ブックス、一九九七年)
 ○エイミー・ヘンダーソン他『レッド・ホット・アンド・ブルー』(スミソニアン協会、一九九六年)
 ○スタンリー・グレイ『ミュージカル・コメディの世界』(ダカーポ出版、一九八〇年)
 ○リック・アルトマン『アメリカン・フィルム・ミュージカル』(インディアナ大学出版部、一九八七年)

 その他その他、あわせて五万円ほどの本が、あっというまに「買物かご」にほうりこまれた。
 なんたる愚行!
 まあそうなんでしょうな。私も否定しない。でも逆に考えてみてほしい。日本同様、いまはアメリカでも本がまったく売れない。そんな暗い時期にあって、オンライン書店という新しい流通バイパスが出現したと思ったら、たちまちのうちに、それまでは影もかたちもなかった新しい需要が生じ、さして売れそうにない専門書が遠い日本にまでどんどん売れていくのだ。著者や出版社にしてみれば、こんなにありがたい話はない。アメリカ以上に本が売れない日本の出版人(私がそうである)としては、
 ──アメリカの出版社がうらやましい。
 と、こころの底からそう思わざるをえない。
 私のうちに眠っていた渇望がよみがえり、それまでいだいたこともなかった本への欲求が生じる。こういうことが、いま、日本の現実の書店で起こりうるとは思えない。新しい需要を喚起するどころではない。いまの書店は、ともすれば、私たちのうちにようやく生じた本へのなけなしの欲求すら、むなしく消滅させてしまいかねない。だってそうでしょう。一年に六万五〇〇〇点もの本が出版されているというのに、必要な本がどこの本屋でも見つからないのだから。
 私は一日に数軒の本屋をのぞかないとなんとなく気持がおちつかない。そういう生活を何十年となくつづけてきた人間でさえ、最近では必要な本がうまくさがしだせない。理由はかんたん。現在の流通システムは「いますぐ売れる本」しか本とみとめないからである。たとえどんなにすぐれた本であっても、市場原理とやらによって商品としての力を失ったと判断された本はたちまち返品され、出版社の倉庫に死蔵され、あるいはこなごなに断裁されて、いつのまにか、この世からすがたを消してしまう。いくら本屋をまわり歩いたところで、これでは必要な本にめぐりあえようわけがない。
 私たち出版にかかわる人間は、いま、顔をあわせるたびに「本が売れない」となげきあっている。しかし本を売れなくしているのは、じつは「いますぐ売れる本」だけを大事にして、本屋の店頭からときめきを消し、ありえたはずの需要までをもじわじわと殺してしまった私たち自身なのかもしれない。
 それに対して、オンライン書店の検索システムは、新刊と旧刊、売れる本と売れない本の区別をしない。というより、したくてもできない。網羅性を欠いたデータベースはデータベースの名にあたいしない。したがって、すべての本を同列にあつかい、それらについての情報を平等にあたえるしかない。それがオンライン書店の(いわば)宿命なのである。
 こうした特質によって、この新しい書籍流通方式は、いずれ新しいタイプの読者、新しい消費スタイルといったものを生むことになるのだろうか。なるはずだと私は思う。検索の結果、ずらりと並んだタイトルのうちから買い手が自分に必要な本をさがしだす。このとき、その本が新しいか古いか、大きな宣伝をうち、爆発的に売れているかいないかなどということは、あまり問題にならない。
 ──私には一〇〇万部の最新ベストセラーよりも、二十年まえにでた初版五〇〇部の本のほうが必要なのだ。
 だから買う。だから読む。そういう消費スタイルがふつうのものになれば、著者も編集者も、「いますぐ売れる本」ではなく、できるだけいい本をていねいにつくり、時間をかけて、ていねいに売ろうと懸命になるにちがいない。長い目で見る。経済的に見ても、そのほうが確実に商売になるのだという感覚を、もしかしたら、オンライン書店がよみがえらせてくれるかもしれない。もしそうなったとしたら……。私のような古手編集者にとって、これはほとんど本のユートピアに近い。

では日本のオンライン書店は?
いまのままでは、いずれ
出版流通「ビッグバンに」してやられる

 日本でも一九九五年以降、丸善、紀伊國屋、三省堂をはじめ、いくつもの書店が洋書や和書のオンライン販売をはじめている。和書にかぎっても、すでに年間二〇億円ちかい市場をかたちづくっているのだとか。
 私もこのシステムをかなりよく利用している。いまもいったように、そうでもしなければ必要な本が手に入らないからだ。
 最近、岸田吟香という人に興味をもつようになった。「麗子像」の画家、岸田劉生の父親で、一八六〇年代に日本ではじめての新聞『新聞紙』(のちに『海外新聞』)を創刊、ついでドクトル・ヘボンの助手として上海にわたり、やはり日本ではじめての英和・和英辞書『和英語林集成』の編纂に協力した特異な人物である。ところが、これだけの人物にかんする資料が、いくら大型書店をまわり歩いても、近所の公立図書館をさがしても、いっこうに集まってくれない。そこで、ふと思い立って、オンライン書店の検索システムにたよってみることにした。結果は上々。いまでも、以下の二冊の伝記が入手できることがわかった。

 ○杉山栄『先駆者岸田吟香(復刻版)』(大空社、一九九三年。原本は一九五二年)
 ○杉浦正『岸田吟香││資料から見たその一生』(汲古書院、一九九六年)

 ついでに日本の古書店ネットワーク「日本の古本屋」(http://www.kosho.or.jp)のデータベースでしらべたら、以下の本がみつかった。さっそく申し込んだことはいうまでもない。

 ○近代文学研究叢書『卯吉・岸田吟香・櫻痴他 』(昭和女子大学、一九五八年)
 ○ 岩崎榮『維新の開眼・岸田吟香傳 』(新興亞社、一九四二年)
 ○明治文人遺珠『岸田吟香の日記・斉藤緑雨の文章 』(湖北社、一九八四年)

 アメリカだけではない。日本のオンライン書店だって、けっこうがんばっていることがよくわかる。すくなくとも出版されてからちょっと時間がたった、あるいは、あまり有名でない版元からでたあまり有名でない本にかんしては、いまですら現実書店よりも仮想書店のほうがはるかに役に立つのだ。
 ただし、いまはまだ最小限の必要をみたしてくれるというだけで、アメリカの書店のような徹底的なサービスまでは期待できない。検索システムが貧弱すぎるし、いちいちの本についての情報も乏しい。なにせ、書名、著者名、出版社、刊行年がのっているだけで、それがどんな内容の、どれほどの水準の本で、この著者はほかにどんな仕事をしているのかといったことなど、まったくおしえてもらえないのである。一部をのぞいてはキーワード検索すらできない。配達もおそいし、注文した本があとで品切とわかってがっかりするというようなことが、たえず起こる。
 ようするに親切心が足りないのだ。どこがとはいわないが、あまりの不親切さに腹を立てて、すぐに店(サイト)を飛びだしてしまったことすらあった。
 日本のオンライン書店も洋書をあつかっている。
 ──じぶんが編集した本を売っていただいていることだし、いまは値段もたいして変わらない(店頭価格よりもかなり安い)のだから、どうせなら洋書も日本のオンライン書店で買うことにしよう。
 そう決心したはいいが、いまもいったように、日本の書店のデータベース・システムはあまり親切でない。やむなく私は、ブラウザーの窓をもうひとつ開き、日本の書店のほかに、アマゾン・コムやバーンズ&ノーブルなどのアメリカのオンライン書店に接続して、そこから必要な情報を得ることにしている。アメリカの書店サービスを利用して日本の書店から買う。ときに、もうしわけない、と感じないでもない。
 でも、この状態がいつまでもつづくとは思えない。はじめにも述べたように、いずれは海外のオンライン書店が日本の和書販売の世界にも進出してくる。アマゾン・コムだけではない。最近、世界最大のドイツの書店チェーン、ベルテルスマンが、バーンズ&ノーブルの株の五〇パーセントを取得したというニュースがつたわってきた。とうぜん、かれらだって日本上陸をねらっている。となれば、いやもおうもない。日本のオンライン書店が、今後、読者サービスを飛躍的に向上させなければならなくなることは目に見えているのだ。
オンライン書店の歴史がはじまる場所で、アマゾン・コムが、きわめて高度なモデルを一挙につくってしまったことの意味は大きい、と書いた。
 アメリカであろうと日本であろうと、後発のオンライン書店はアマゾン・コムが設定したサービス基準を下まわっては、まともにビジネスに参加することができない。いつの日か、日本のオンライン書店が、データベースや検索エンジン、書評その他の情報提供において、アメリカのオンライン書店に優に匹敵するサービスを提供するようになったとする。いまは街の書店で本を買っている私だが、そのときもいまと同じようにしているといいきる自信はない。そのとき、街の、いっぱんの書店はそれぞれにどんな工夫をこらすことになるのか。著者や読者は? 出版社は? そして編集者は?