クリスマス後物欲 35000円

 クリスマス当日、所用があってデパートにいってびっくりした。アクセサリー売場が、黒山の人だかりではないか! カルティエもフォリフォリもカルバンクラインもクレージュも、店という店全部、人がびっしりと覆っている。人、というかぜんぶカップル。こんなにたくさんのカップルをいっぺんに見たのははじめてだ、というくらいの数。
 そうか、クリスマスは男の子が女の子にアクセサリーを贈る日だったんだね。いや、知りませんでした。
 私はもの心ついたときからサンタクロースの存在を信じていない子どもで、けれど毎年クリスマスは祝っていたから、近しいだれかに贈りものをもらうのは当然だと思っているふしがある。キリスト教徒でもないのになぜクリスマスを祝う必要がある、なんて言って、贈りものをやりとりしない男の子がたまにいるけれど、私に言わせれば愚の骨頂、というか、つまらないことこの上ない。だって、贈りものを同時にやりとりできる機会なんて、クリスマスをのぞいたらほかにないじゃん。
 それで、今までずっと、家族とも恋人ともクリスマスは贈りものをやりとりしてきた。子どものころから、私用のプレゼントはリクエスト制だった。何々がほしいからそれをください、と最初から言うのである。驚きも色気もないが、でも、ほしくないものはいらないのだ。子どものころから現実的だったんだなあ。
 大人になってからはもっぱら友人と恋人としか贈りもの交換をしていないけれど、それもまたリクエスト制。ほしいものを言って、ほしいものを聞いて、贈りあう。
 黒山状態のアクセサリー売場を見て、今まで私がもらってきた(つまりリクエストしてきた)クリスマスプレゼントを思わず思い起こしてしまった。スーパーファミコン、セガサターン、プレイステーション、プレイステーション2、プレステ2のソフト……なんかゲームばっかりだ!
 これはどういうことかと、ひまにまかせて自己分析してみたところ、私にはどうも、クリスマスプレゼントに対する照れがある。たぶんその照れのせいで、子どもじみたお祭りにしたいという気分になる。プレゼントを配って歩くサンタクロースなんていないと知っているんだけれど、サンタクロースごっこを敢えてするのだという意識がある。
 サンタクロースの絵なり人形なりの隣には、いつもぱんぱんに膨らんだ白い袋があるけれど、あの中身、いったいなんだとみなさんはお考えになりますか? 私はどうも、愚にもつかないおもちゃ関係のような気がしてならないんだよな。子どものころからずっとそう思っていた。
 それで、クリスマスプレゼントといえばおもちゃが連想され、自分に適したおもちゃは何かといえばゲーム関係だと結論が出る、ようなのだ。
 たまたまクリスマス間近のとき、本気で欲しいもの、もしくは早急に必要なものがあったとする。乾燥機つき洗濯機とか、ヘルシア(脂を落とす新発売のオーブン)とか、犬(黒パグ)とか、電気の笠とか、正月用のおいしい餅とか。でも、本気で欲しいものや必要なものをリクエストするのは、照れが邪魔してなかなかできない。いや、スーファミもプレステもそのときは欲しかったんだけれど、欲しいリスト、必要リストではけっして上位ではない。
 かような理由で、アクセサリーというのも無意識にクリスマスプレゼントから除外していたんだな。アクセサリーを本気で欲しいとかすごく必要というわけではなくて、なんとなく、本気っぽいかんじがするでしょう。その「かんじ」に照れちゃうんだな。
 あんまり人が群がっていると、自分も混じりたくなるミーハーなところが私にはあって、それで、人と人の隙間にちょっと押し入ってみた。が、ガラスケースの中身はなんにも見えない。カップルが身を乗り出しているから、目を凝らしても見えるのはせいぜい、ケースに敷き詰めてある布地のみ。もっとよく見ようと思って、ぐいと体を押しこんだら、ぐいぐいと押し戻された。そんなことされると、なんだか私も今、まさにこの瞬間、みんなとともにアクセサリーを買わなきゃいけないような気になってしまう、恥ずべきミーハーなところも私にはあって、ぐいぐいとさらに押し入り、ぐいぐいぐいと押し戻され、ぐいぐいぐいと位置を移動し、さらにぐいぐいぐいぐいと押しやられ、気がつけば通路にぽつんと立っていた。
 これ、私二月にも経験しました。恐怖のチョコレート売場である。チョコレート売場には女しかいなかったが、アクセサリー売場は女と同数男も混じっているので、人のかたまりがなんだか硬い。押し戻される力も強い。アクセサリー、見たいのに、まったく見れん! どれだけ移動しても片鱗すら見れん! 物欲がこんなに刺激されているのに!
 しかし近寄れないんだからしかたない、すごすごと用を済ませてデパートを出た。
 焼き肉を食べているカップルはできている、って昔、どこかで読んだか見たかしたけれど、クリスマスにアクセサリーをリクエストする、されるカップルというのは、どの程度の親密度なんだろう。「照れ」がまったく介在しないくらいの近しさ? それともクリスマスの照れというのは私独特の気分で、クリスマスとアクセサリーはごくごく自然に寄り添っているものなのか。
 黒山の人だかりなんか見てしまったものだから、へんに物欲が刺激され、後日、私はひとりでアクセサリーを買いにいった。アクセサリーをつけることはほとんどないんだけれど、買うのは好きなのだ。
 クリスマスも過ぎ、元通りひとけの少ないアクセサリー売場を好きなだけ眺め、そうしてはたと気づいたことがある。
 この値段。アクセサリーのこの値段って、ひょっとして、女向けにではなくて、男向けに設定されているのではないか?
 世のなかには女値段と男値段とある。80000円の自転車なんかは完全な男値段だと思う。120000円の靴というのは女値段。有名作家の椅子220000円というのは男女兼用値段だが、漫画みたいなキーホルダー3800円は女値段。それぞれ、財布を開けてもよし、とする値段がある。
 それで、ふだん使いのアクセサリーというのは、女値段のようでいて、しかし男値段なんじゃないか。だいたい10000円代から50000円。好きな子が喜ぶならまあいっか、と男の子が財布を開けられるような、微妙な値段だと思いませんか。これが100000円代から200000円だったり、500円から2000円くらいの幅しかなかったら、クリスマスにアクセサリー売場が黒山になることはないと思うんだが。
 そうかそうか、アクセサリーというのは、クリスマスにかぎらず男の子が買うことのほうが多いのかもな、なんて心のうちでつぶやきつつ、じっくり吟味して、みずから財布を開けて買いました、ブレスレット35000円。
 家に帰ってきてから、なんでブレスレットなんか買ったんだろう? とふと思い、ああ、クリスマスに刺激された物欲の残り香だと思い至り、来年のクリスマスはアクセサリー売場になんか近づくまい、と心に決めた。

ランチ(まぐろ味噌丼定食) 400円

 年明けは四日から仕事をはじめた。世間といっしょである。
 私が仕事をするのは平日の八時から五時で、昼めしはいつも近場の店でランチを食す。今日の昼も、ランチを食しに出向いた。
 近所にフランチャイズふうの飲み屋があり、昼はランチ営業をしている。この店のランチをすごく好きというわけではないのだが、店が広くていつも空いている。この日、私は所用があって急いでいたので、空いているところにしようとこの店に入った。
 ところがなんだかいつもと雰囲気が違う。さほど混んではいないのに、店じゅうに異様な緊迫感が漂っている。
 席に案内され、異様な緊迫感の原因がじょじょに理解できた。
 正月明けで人手不足なのか、それとも、他の店が休業中でいつもより客が多いのか(とはいえ、全席が埋まるほどではない)、店員たちは走りまわり、客たちは何も置かれていないテーブルに肘をつき殺気立っている。つまりほとんどの客に、注文の品が届かず、みんな待ちくたびれているらしい。
 ああ、なんかやばいところへきてしまったよ、と思いつつメニュウを開き、釜飯が食べたかったのだが、これは絶対にやばそうなので、日替わりメニュウ(まぐろ味噌丼定食)を注文した。
 私の隣の女性六人グループ。五人がおんなじ日替わりメニュウで、ひとりがしょぼんと茶をすすっている。走りまわる店員をひとりが呼び止め、「この人の、まだなんですかァ?」と殺気立った声で訊いている。「すみません、すぐお持ち……」と言葉尻を消して走り去る店員。
 奧にいる男女混合五人グループ。こちらは全員食事を終えて談笑している。談笑しつつ、しかし何か不穏な空気が、テーブルの上十五センチあたりに漂っている。こざっぱりした男が手を挙げて走りまわる店員を呼び止め、「コーヒー、まだかなあ」苛立った笑顔で訊く。「すみません、すぐお持ち……」走り去る店員。
 窓際にいる中年男女二人連れ。ひとりが釜飯を食べ、ひとりは待っている。とそこへ、店員が釜飯ののった膳を持って走りこんで、「たいへんお待たせ……」と言葉を切り、「あっ、違いました、すみませんっ」と奧へ走り去る。誤配膳らしい。すると、釜飯を食べていた女がいきなり立ち上がり店員を走って追いかけ、「もうそれでいいです、釜飯余ってるならくださいっ」と叫んで、向かいの男に釜飯膳を与えていた。
 仕切りの向こうから中年女性五人グループのひとりが立ち上がり、厨房に顔を突っこんで、「ちょっとォ、お箸ひとつついてないんだけどォ」と怒鳴っている。
 するとさっきのコーヒー男性、「もういいよっ、キャンセルキャンセルっ」と大声で言いながら席を立ち、みなを促している。彼もどすどすと厨房までやってきて、「コーヒーキャンセルねっ、伝票くれ!」と怒鳴っている。
 店じゅう、すごいことになっている。てんやわんや、ってこういう状態を指す言葉なんだろう。この状態を知らない客が、ガラスばりのドアを開けにこやかに店内に入ってくる。ああ、きちゃだめだよ、こわい思いするよ……と固唾を呑んで彼らを見守っていると、店長らしき年輩の男が入り口に走りこんできて、平身低頭何か言っている。そうして客たちはそのまま店を出ていってしまった。どうやら、てんやわんやに困憊した店長、落ち着くまでは客を増やさないつもりらしい。
 そんなあいだも、コーヒーはまだか、だの、注文とりにこい、だの、店内には店員を呼ぶ声が響き渡り、店員たちがばっさばっさと走りまわっていた。
 私の前に老人がひとり座っていた。彼は私より先にそこにいたが、テーブルにはやはり茶しかない。老人は退屈そうに自分の指をいじっている。
 あ、そうだ、そういや私もこのあと用があるんだった。思い出し、じりじりと私は厨房をのぞきこむ。暖簾の下から、走りまわる人の姿が見えるのみで、何か新しい料理が出てくる気配はまるでない。ぶりぶり怒った客たちが食事を終え、次々と席を立ちレジへ向かい、そこでまた長い行列ができる。
 何が嫌いって待たされることが嫌いである。ランチを食しにいって十五分以上待たされるともう、腹のなかが怒りでふつふつと沸き立つ。このときも、当然怒ってしかるべきだった。なんなんだこの状態は。日替わりくらい出すのわけなかろう。ごはんの上にねぎとろ置いただけの料理とも呼べない料理じゃないか。このあと用事があるんだし、いっそのこと、もう帰っちまおうか。と、いつものごとく怒ったのであるが、しかし、怒りは沸点に達する前にへなへなと蒸発してしまう。なんなんだこの状態は。と怒った一瞬のちに、だいじょうぶなんだろうか、とひよひよと心配になる。もう帰っちまおうか、と椅子をずらしかけた次の瞬間に、ああ、あのおばさんがさっきから店員を呼んでいるよ、気づかないと騒ぎになるよ……と泣きたい気分になる。
 このとき私は、己の短気克服法をひらめいた。自分が怒るより先に、だれかがそれを上まわる勢いで怒ってくれればいいのだ。酔っぱらいの論理だ。同席しただれかが、自分より早く泥酔状態になると、なかなか酔えない、あれと同じ。
 私の短気は、このとき、店じゅうにあふれかえる人々の怒りと苛立ちによって、あぶくのごとく霧散していった。そうして、待たされているのというのに、なんだか自分のせいでこの混乱がおきたかのように、ちんまりと椅子に縮こまって座っていた。
 三十分近く待ったのち、ようやく私の前に日替わりランチが運ばれてきた。私はちらりと前の座席の老人を見た。老人にはまだ料理がきていない。何も私が責任を感じることはないのだが、私はさらに萎縮して丼のふたを開けた。
 まぐろ味噌丼というのは、ごはんの上にねぎとろと錦糸卵と海苔ののった丼で、そこに醤油ではなく特製味噌を垂らして食べるものだった。ふーん、味噌ね、と思うこともなく、私は暗くうつむいて小鉢の味噌を丼に垂らし、もさもさと食べた。老人をちらりと見るが、彼の料理はまだである。彼もこちらを見ている。先に食べてすみません……というような心持ちで胃が淡く痛む。
 そんなさなかも、惨状はまだ続いている。箸がない、水がない、お茶が空、と叫ぶ客たちの声、走りまわる店員の陰、レジの行列、そして、そこここのテーブルに放置された空の食器。味なんかまるでわかったもんじゃない。私は異様な早さで、せっせかせっせかとごはんを口に入れ続けた。
 三十分待って、十分で食事を終えてしまった。そのころになってようやく、私の向かいの老人に釜飯が運ばれてきた。なんだか彼の手を取って「よかった!」と叫びたい気分だった。
 伝票を持ちレジに向かい、列につく。こちらは思ったよりは待たされず、レジカウンターに伝票を置き、財布から紙幣を取り出すと、
「あの、たいへんお待たせしてしまったので、むにゃむにゃむにゃ……」
 と声がした。へっ、と驚いて顔を上げると、レジにいるのはあの年輩の、店長らしき男である。
「へっ、なんですって」
 私は訊いた。単純に、むにゃむにゃむにゃ、のところが聞こえなかったのである。この訊き返し、店長には怒りの「はあっ? なんですってえっ?」に聞こえたのかもしれない。彼は消え入りそうな声で、
「お待たせして本当に申し訳ないことをしました。お勘定はいただけませんので……」と上目遣いに私を見るではないか。
 ぎょええ。待たせたからってタダにするなんて、聞いたことないよ。それにね、おじさん、私、もうどっこでもいっつでも待たされてんの、薬屋いきゃー待たされるし、切符買おうとしちゃー待たされるし、タクシー乗ろうとしちゃー長蛇の列だし、短気の逆因果で待ち時間を呼ぶような気もするんだけれど、とにかく待って待って待ってばかりの人生だから、そんな、タダになんかしてくれなくったっていいよ……という気持ちでいっぱいになり、
「いいですよ、払わせてください」おずおずと私は言った。
 店長らしき人は困ったような顔をして、「それじゃああの、半額だけいただきます」とさらに消え入りそうな声で答えた。899円の定食なので、半額は約450円なのに、500円玉を出したら100円のお釣りをくれた。
 なんだかぽかんとした気持ちで店を出た。
 あ、そうだった、待ち合わせがあるんだった、と気づいて昼下がりの町を走りつつ、なんとなくしょんぼりしている自分に気づいた。
 きっと怒りは私にとってエネルギーなんだろう。エネルギーをがんがん燃やせるはずの場所で、いたずらにくすぶらせられたあげく、「タダでいい」という発言によって、最後の燃えかすに水をかけられた感じなのだった。怒りたいときに怒りの芽をつまれるというのは、かように心許ないことなのだ。
 昼食が半額になるより、正価でぶりぶり怒っていたいなあ。そのほうがどんなに健康的なことだろうか。そんなことを思いつつ、待ち合わせの場所にいき、なぜか約束の時間にこない相手をじりじりと待つ私だった。


角田光代(かくたみつよ)
小説家。1967年生れ。早稲田大学文学部卒。90年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞受賞。96年『まどろむ夜のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞、『キッド・ナップ・ツアー』で99年産経児童出版文化賞フジテレビ賞、2000年路傍の石文学賞を受賞。エッセイに『これからは歩くのだ』『今、何してる?』『あしたはドロミテを歩こう』ほか。近作に小説『All Small Things』『トリップ』『太陽と毒ぐも』『庭の桜、隣の犬』『対岸の彼女』。