2000年4月、なをめは公衆衛生学教室の大学院に入学した。10月に福祉事務所に異動して半年が過ぎ、様々な業務に関わるうち、調査や研究にはどうしても学術的な視点が必要だと感じるようになったからである。そして社会人でも入学できる大学を探したところ、ちょうど小児外科時代に所属していた大学の公衆衛生学教室が受け容れてくれることになった。
 基本的に医学部の大学院は、病院で医師として働きながら研究している学生が多いため、授業がほとんどない。公衆衛生学教室でもこの年の入学生はなをめともう一人の留学生のみだったので、当初月1回のセミナーと発表会の予定しかなく、なをめは仕事帰りに顔を出す程度であったが、その後体育学部の大学院生とともに、統計学の勉強会を始めることになった。

 ある日のテーマは「確率」であった。正規分布曲線の説明について、教科書に繰り返し、
「全ての現象は確率分布する」
 という言葉が出てきた。正規分布曲線とは、自然現象を無限の回数繰り返した時に得られる結果の分布のグラフであり、左右対称の山形をしている。
 この考えは、なをめにとって非常に新鮮であった。様々な質疑応答が学生から出た後、なをめはどうしても一言言いたくなったので、教授に質問した。
「全ての現象は確率分布するんですよね。ということは、どんなにいいシステムを社会に投入してみても、そこからこぼれ落ちてしまう人がいるということですよね」
「その通り。だからある介入をしても、結局ブワッとした結果しかでてこないということになるんだよね」
 なるほど、だからその分布の中のどの部分を対象に、どの程度の金銭を投入するのか、というのが政策というものだろう。保健所が対象にしているのは山の中心にいる普通の人々で、福祉事務所が対象にしているのは山の裾野にいる零れ落ちてしまって這い上がれない人たちだ。なをめが保健所より福祉事務所と意見が合うのは、なをめがどちらかというと平均的な一般大衆を相手より、限りなく下から5%以内にいる人、たとえば路上生活者とか、要介護高齢者などの健康状態の方が気になるからなのだろう。

「この全体の95%以内に入らない値というのは『外れ値』と呼ばれて確立統計学では切り捨てられるんだけど、しかし面白いのは、実はそこにこそ、次世代に生き残る可能性があるのかもしれないということなんだ。だから外れ値を切り捨ててしまってはいけないんだよね」
 なをめはそんなことは考えてもみなかった。そしてこの「外れ値にこそ進化の可能性がある」という言葉はなをめの頭に強く残った。

 その後統計学の勉強は終わったが、今度は10月の学会に向けての準備が始まり、それぞれの学生が自分の発表を持ち寄り、検討し合う機会があった。ある日開かれた予行練習が終わってから、なをめは悩んでいた。どう考えても、他の人の演題となをめの演題は違う、というより、異質だった。なをめの発表のテーマは「住宅改修制度普及のための事例集作り」であったが、他の人のものは「住民健診」「企業における産業保健衛生管理」でいわゆる公衆衛生学の王道を行くテーマであった。なをめの発表に関して的確なコメントしてくれる人は誰もいなかった。他の学生には理解すらされていない感じがした。そんなになをめが面白いと思っていることは人と違うんだろか??

 落ち込む理由はそれだけではなかった。なをめは8月に保健所と大喧嘩した後、福祉事務所の自分の職場でもトラブルが絶えなかったり、自信満々で福祉系の学術雑誌に投稿した論文を落とされたりして、「保健分野」だけでなく、「福祉分野」にも自分の居場所がない気がしていたからである。大学院に来てもこの有様である。その頃夫からも、
「あなたは一体何がしたいんですかねえ??」
 と言われ始め、なをめは本当に所在が無くなってしまった。

 ある週末、土曜日のお昼前にたまたま教室に顔を出したところ、教授室に電気がついていた。なをめは突発的にドアを開けて質問した。
「先生、どうしても聞きたいことがあるんです。
 私、変なんです。私が面白いと思うこと、人と違うんです。私がやっていることは『学問』なんですか? 私の居場所はどこにあるのでしょうか? この違和感はどうしたら取れるんでしょうか?」
 突然滝の様に口走った質問だったが、教授はきちんと答えてくれた。
「『学問』というのは、そもそも19世紀の産業革命以後のヨーロッパという背景において成り立っていた体系だよね。確かにそれが、背景がまったく変わった現代に成り立つのかというと、難しい問題になる」

「私は自分が『エキセントリック』なんだと思うんです」
 なをめは思わず自分を表現する時にいつも冗談で言っている、「エキセントリック(excenteric=ex外の・外れた、center=中心から)」という単語を使ってしまったが、思いがけずその言葉に教授は反応した。
「『エキセントリック』じゃあだめなんだよね、あくまでも『マージン(margin=ふちの)』にいなければ」
 そういって、1冊の本を出してきた。その題名は『Writing at the Margin』であった。
「つまりね、これは誰もがページの注釈みたいなマージンに書き込んである、誰も見向きもしないようなことに注目した、という意味の題。この本の内容は医療人類学のことだけれど。僕はこの本の著者の医療人類学者、Arthur Kleinmanが大好きでね。アメリカの大学ははっきりしているから、力の無い教授は追い出されてしまうんだけれど、ジョンスホプキンズ大学で彼なんかがまだ生き残っているからこういう概念は支持されているってことだろうね。
 それはともあれ、僕が言いたいのは、君のようにある分野のはしっこを歩いている人は、いつでも簡単に突き落とされてしまうんだから、しっかりしがみついて、だんだんとマージンを確保し、分野を広げていくように行くようがんばっていくしかないってことだよ。」

 それからなをめは職場で他の職員と意見が合わずにけんかしたことをなどを話しているうちに、なんだか泣けてきた。
「なんだか私は自分の頭がおかしいような気がするんですよ、自分でいうのも変なんですが」
「そういえば、」
 と教授は言った。
「この話をしたことがあったっけ。僕が日本のある島で調査をしていた時の話。僕はその時戸籍の調査をしていたんだよね。それで、島の各家の系統をおっていくうちに、ある見慣れない戸籍に行き当たったんだよね。それで聞いてみたら、役場の人が、『あのうちは、じいさんが「旅の人」だったから』と言うんだよ。どういう意味だと思う?」

 つまりあらすじはこうだ。あるときこの島を旅行しに来た男性が、思いがけず島の女性と恋に落ち、結婚して住み着くことになった。そしてもうそれは遠い昔の話で、今やその孫の世代になっている。にもかかわらず、「島」という閉鎖された社会にとってその家は、「おじいさんが『旅の人』だった」家系なのであって、「島の人」の家系ではない、と区別され続けているというのである。

「そんなことがあって、僕はやっぱり島という環境は閉鎖的なんだなあ、なんて思っていたんだけれど、ちょうどその頃、僕の大学の同級生で、とても優秀な人がいて、その人は理学部から法学部へ転向したんだよ。移籍した当初、彼は法学部の事務の人から彼は『理学部の人』と呼ばれていたんだ。その後、彼は本当に優秀だったので、法学部で助手になり、講師になって、助教授にまでなった。ところがそれでもずっと事務の人には『理学部の人』と呼ばれ続けていたんだよね。それを見ていて、僕はあの島の役所の人が言った『旅の人』という言葉を思い出したんだ。つまりね、こんな東京の大学でも、島と同じなんだなあと思ったら、日本全国そういうものなんだと考えるしかないなあ、と思ったんだよね」
 教授は笑いながら言っていたが、ある範疇の境界を越えようとする人は、このような現実に直面していくしかないのだと言う、厳しい話であった。

 留学についても迷っていたなをめは、
「アメリカやイギリスの公衆衛生学部に行けば、私の興味について理解を得られる人がいるんでしょうか」
 とも聞いてみた。当時なをめはいろいろな人から「とにかく一度は留学した方がいい、何でもあるからとにかく行って見なさい」と、勧められていたが、その「何でも」という中に自分のやりたいことが本当に含まれているのか、信用ならなかったのである。

「残念ながら留学したとしても違うね。ぼくが唯一知っているとすれば、アメリカの農林省のような組織にいた人が、同じような現場の問題を取り上げていたけれどね。最近は研究と共に現場に介入していく『アクションリサーチ』という概念が出てきているけれど。まあそれにしても、確かに君の職場は君がずっといるようなところではないかもね」
「いいんです、この違和感はどこに行っても取れないということが分っただけでも楽になりました」
「本当に落ち着く場所が何処かとしたら、医学史の世界だね、そもそもの学問なんていう概念にとらわれないでいいから」
 笑いながら、教授は次の約束のため走って出て行ってしまった。しかしなんとなくホッとして、せきなをめは部屋を出た。そうか、私は『変』なんじゃなくって、『偏』なんだな。

 独創性とは何だろうか。それは、いまだ名前をもたないもの、衆人の眼の前にありながら、名前がつけられずにいるものを「見る」ことだ。
 ニーチェ