映画が始まると同時に、カメラは主演俳優の動きに同調して激しく上下する。ちょっとまずい、この感覚は「A」「A2」(いずれも森達也監督)をポレポレ東中野のシートにもたれて見たときと同じだ、と思った。
 じっと画面を見ていると、まるで映画館が揺れているかのように頭がぐるぐるしてくる。船酔いにも似た状態のなか、だんだん吐き気が強くなる。どうしよう、目を閉じようかと迷っているうちにふっとそれが収まった。不思議な感覚だ。
 少々髪が薄くなったベルギーの俳優オリヴィエ・グルメ演じる主人公オリヴィエ(俳優と同じ名前だ)を撮影していたカメラは、冒頭から執拗に彼の細かい動作をなんの説明もなくただただ追い続ける。取材記者のような貼り付く視線への同一化を強いられた観客は、いささかの吐き気をがまんしていっしょにオリヴィエという対象に徐々に接近し、最後は彼の顔、眼、視線までをも生々しい客体として見つめるようになる。
 ところがある時点からカメラの角度が大きく変わる。少年院を出所し、社会復帰のための訓練所に入所した少年を見た瞬間からである。一転してオリヴィエの視線とカメラは、対象・客体である少年を彼と協働しながら見つめるようになるのだ。その転換と吐き気がおさまるのはほぼ同時に起きる。そしていつのまにか私たち観客も、オリヴィエと視線を重ねながらともに少年をみつめるまなざしの主体と化していく。
 このような導入部における謎に満ちたまなざしの転換は、後半部分にいたると再び大きく転換する。カメラは大きくパンし、主人公と少年をほぼ等距離、等間隔でとらえ、観られる対象でもなく、見る主体でもなく、ふたりの関係の動態をドラマとして描き始める。主人公と少年は初めてドラマの登場人物として活写され続けていくのだろう、と期待した瞬間、突然映画は終わる。
 あまりの唐突さに、これはなんだろう、どうしてここで終わってしまうのだろうかと映画館を出て渋谷の人ごみを歩きながら私はうろうろと考えた。登山途中で放り出されたような、航海の海図を奪われてしまったような戸惑いをおぼえ、「わけのわからない映画だ」と総括してたしかその晩は眠ってしまったようだ。

1年半後に

 小骨がのどの奥に刺さったような違和感を覚えながら、それから1年半が過ぎた。
 毎日のカウンセリング、日々発生する事件、おぞましいというしかない犯罪に直面しながら、できるだけ避けたり横道にそれたりしないようにと歩んできたつもりだった。そして本書の執筆にとりかかることになった。
 当初から計画を立てていたわけでもなく、目的を持っていたわけでもない。5月の山を登りながら眼前に突然現れたつつじに息を飲み、晩秋の川べりで対岸に並んでいる紅葉の暗い赤に目を奪われながら、いつのまにか足を踏み入れた小道を迷わず歩き続けた私は、気がつくと「加害者と呼ばれるひとたち」にとらわれてしまっていた。そのとき、混沌とした記憶の海の中から不意に浮かび上がってきたのがこの映画「息子のまなざし」(脚本・監督:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ、2002年ベルギー・仏)だった。
 記憶について多くを語れるほどわたしは学術的研究を重ねているわけではないが、いつも不思議に思うことがある。
 たとえばグループカウンセリングの場面で他者の語ることばに耳を傾けていると、そのことばが自分の中に取り込まれた瞬間、まるで触媒がスポイトで水の中に一滴注がれたように、思い出しもしなかった記憶がよみがえってくるのである。それらがなぜずっと忘れ去られていたのか、苦痛、混乱と撹乱を避けるために過去のものとして意識せず封印されていたのか、罪悪感とともにひっそりと小箱にしまわれていたものか、判別はむつかしい。
 トラウマという専門用語(いまや通俗的言説となってしまったが)を用いて一括表現することにも抵抗がある。
 前章を執筆している最中に、突然1年半前に見た映画がこうして再び明確な輪郭をもってたち現れたことと、多くの被害者たちが突然ある記憶を想起し始めることは、どこか共通しているかもしれない。いずれも思い出すが意味があるから思い出すのだと考えている。

映画のあらすじ

 簡単なあらすじはこうだ。
 少年院を出所した少年たちの社会復帰施設で職業訓練担当員として主人公は働いている。大工仕事を教える彼はつなぎの洋服を着、ヨーロッパ流の皮製でふといベルトを胴回りに締めている。ある少年が入所してくる。その名前を見たときからオリヴィエは少年を盗み見、つけまわし、果ては少年の住んでいるアパートに忍び込み、少年のベットに横たわり天井を見つめてみたりする。背景を知らされない観客はほぼ間違いなく、オリヴィエは少年を愛しストーキングしていると判断するにいたるだろう。
 中盤で明らかになるのは、彼の息子が殺害されていること、その後妻と別れていること、そしてその少年が実は殺害の犯人であったこと、である。その時点で観客は一転してオリヴィエが少年に復讐をするのではないかといった期待と恐怖とが入り混じったスリルを感じながら画面に吸いつけられていく。
 結果はダルデンヌ兄弟が監督した他の作品同様、観客の期待どおりのドラマをことごとく否定した展開となって終わる。
 オリヴィエが冒頭で繰り返した行動をストーキングだろうと推測した観客は、中盤で大きく転換を強いられる。ひどくやつれた別れた妻が登場し、オリヴィエがこともあろうに息子を殺害した加害者の少年の訓練にあたっていること、大工指導のために二人で同じ車に乗っていることを激しく責める。「あなたはいったい何を考えてるの」と泣き叫ぶ妻をなだめるオリヴィエの表情は絶妙な演技によって画面にクローズアップされる。厳しく抑制され、それでいて苦渋を隠せない彼の表情は、観客に対して妻の抱いた疑問をなぞることを強いるかのように実に謎めいて見える。

「こころケア」ブームの背後

 近年の少年事件、学校に乱入し小学校の児童を多数殺傷した事件などの報道に共通しているのは、いかにして被害者の「こころの傷」を癒すか、ケアするか、いかにして残された家族のこころのケアをするのかにことごとく収斂していく傾向である。
 JR西日本、福知山線の列車事故の107名の犠牲者の報道も、原因究明とJR西日本の企業責任の追及と相俟って、「被害者とその遺族に対するこころのケア」がかつてないほど叫ばれているのはそのことの現れであろう。
 たしかに戦争の世紀と呼ばれた20世紀は天災に加えて甚大なる戦争被害が生起したが、被害者のこころのケアがここまで叫ばれたことはなかっただろう。
 その端緒は1970年代に起きたベトナム戦争の退役軍人に対するアメリカの国家補償にある。PTSD(心的外傷後ストレス障害)という診断名がDSM(アメリカ精神医学診断基準)に加えられたのもその流れを加速させた。金額に換算した「補償」というかたちに加えて、精神科治療による「こころのケア」によっても被害者(ベトナム従軍帰還兵)は償われたのであった。
 しかしそれが十分であったわけではなく、多くは個人的営為に任されるしかなかったのが現状だろう。個人的営為といってもそれほどバラエティがあるわけでもない。たとえば宗教に入信する、さもなくば精神科に通院しての投薬、心痛から身体的疾病を発して病人としてケアを受ける、などだろう。しかしもっとも多いのが、家族という場・関係性の中でのケアの希求ではなかっただろうか。
 そのために動員されたのが妻であり母であり、そしてケアの与え手として疲れ果てた女性のケアの与え手は幼い子どもたちであった。アダルト・チルドレン(AC)のグループカウンセリングで語られることの多くは、昭和20年代から高度経済成長期にかけて、いかに家族がケアの与え手として期待されてきたのか、そして最終的しわよせは子どもへのケアの与え手役割の強制となっていたかを証言するものである。
 いっぽう近年の「こころのケア」ブームを、一部の論者たちは「社会の心理学化」として批判している。わたしの立場は、社会の心理学化への違和感をもちつつ(トラウマという一括する簡便な用語使用への抵抗感はじゅうぶんにもっている)、それでもこころのケアを家族という脆弱で権力に満ちた集団に押付けて事足れりとしてきた従来の風潮より、はるかに今のほうが好ましいと感じる。なぜならば、家族の中でもっともケアされるべき存在の子どもにとって、明らかに負担は軽くなり、もちろん妻・母である女性にとっても同様であろう。
 介護保険の制度化と「こころのケア」ブームは地下水脈において実はつながっていることに気づかされる。わたしたち臨床心理士の活動のひとつの柱が「被害者支援」である。1995年の阪神淡路大震災を契機として一気に広がった被害者支援、それもこころのケアに重点を置いた支援は臨床心理士という立場にも大きな転換をもたらした。個人の自助努力、またプライベートな家族のケアだけではどうしようもない被害が社会全体として共通に認識されたのである。その点からみて、1995年を「被害者元年」と呼ぶ森達也(ジャーナリスト)のことばに深く同調するものである。

 
被害者のケアとは

 論旨がかなり迂回してしまった。ふたたび映画にもどろう。
オリヴィエが被害者の立場であることはいうまでもない。最愛の息子を殺害されてしまった衝撃を今もかかえ、おそらくはそれをひとつの契機として夫婦は別れることになったのだから。
 さて、被害者である彼が求めているものはなんだろう。彼の求めるものは「こころのケア」なのだろうか。とすればいったいこころのケアとはどのようなことを指すのだろうか。
 J.L.ハーマンは3段階にわけて心的外傷からの回復を捉えている。(「心的外傷と回復」みすず書房、中井久夫訳)
 第一段階→安全の確立
 第二段階→想起と服喪追悼
 第三段階→通常生活との再結合
 この3段階は今では被害者支援にあたる援助者に広く共有されており、なかば常識と化している。
 ここで第二段階に注目してみよう。想起とは文字通り想い出す、想い起こすことを指す。外傷的記憶について本書では詳細に述べる事は避ける。それについてはすでに多くの専門書が世に出されており、それら先行する良書を手にとっていただければそれでいい。
 想起はそれほどたやすいことではない。なぜなら想起とはそれを語ることと同義であり、語るためには文脈化し時間の流れに沿って経験を再構成することが求められる。多くの自助グループにおいて体験談が語られるのは、想起された記憶を物語として再構成する試みと考えることもできる。この点については「ナラティヴの臨床社会学」(野口裕二著、勁草書房)を参照していただきたい。
 経験を語ることをすこしずつ進めていくと必ず突き当たる問いがある。
「心的外傷と回復」からその部分を引用してみよう。
 ――残虐行為の生存者は、年齢と文化とがどうであろうと皆、証言をしているうちに、すべての質問が一つの問いに集約される時点に至るものである。それは怒りよりもむしろ戸惑いしつつ発せられる「どうしてまた?」である。その答えは人間の悟性の限界を越えている。
 この底知れない深い問いを乗り越えると、生存者はもう一つの問い、やはり答えのない問いに直面する。それが「どうしてこの私に」である。――(278ページ)
 ここでいう悟性とは、わたしたちが出生時よりこの世に適応的に生きながら身に着けた「合理的行為者」(「共同性の現代哲学−心から社会へ−」中山康雄、勁草書房)としての信念体系を裏打ちするものとしてとらえることができる。合理的行為者の条件がいくつかあるが、たとえば、「信念内の矛盾を避けようとする」「他者がなぜそのように行動するのか説明し、予測する」といったものである。
 被害者(その家族もここに包括しよう)は、理不尽な事件・できごとによってしばしばこのような世界に対する信念、秩序への信頼を公然と打ち砕かれたひとたちである。
「『どうしてまた』『ほかでもないこの私に』このような信じがたいできごとが起きてしまったのか?」
 あらゆる被害者たちが繰り返し自分に問いかけ、神や仏に向かって問いかけるのはいつもこのようなフレーズである。自分たちのこうむった苦痛がまったく無意味であり、風に舞う木の葉が地面に落ちて朽ち果てるのと同じであることに、ひとは耐えられない。
 第二段階の想起のもたらす困難さとは、自らの受けた被害・苦しみに「意味」を与える信念体系を再建しなければならないことからもたらされる。
 ケアという言葉から連想されるやさしさや慰撫のイメージからはほど遠い遠大でエネルギーを要する作業こそが、実は被害者支援の中心的対象となるのである。

 
被害経験に意味を与えること

 オリヴィエにとって息子が殺された事実は「どうしてまた、ほかでもないこのわたしの息子が殺されなければならなかったのか」という問いととも意識される。それは時間がたつにつれて益々その重みを増していく問いでもある。
 ではどうすればその事実に意味が与えられるのであろうか。
「いつまでも過去の経験にこだわっていないで、前向きの姿勢で、プラス思考で、未来をみつめて生きる」
 などというあまりにベタであまりにありふれたアドバイスは、ほとんど効果をもたない。 なぜならその作業が可能であれば、被害経験はとっくの昔に過去のものと化しているだろうからである。被害者の内的作業、こころの中での整理だけで収拾がついてしまうものではない。
 いっぽう刑罰とは、法によって加害者が裁かれることで、自分と同じ苦しみを加害者も受けたのである、それも国家が自分に代わって裁いてくれた、という信念体系の再構築をもたらすだろう。そして加害者が処罰されたことは、正義は被害者にあり加害者にはないという意味の枠組みを付与する。最低限の意味付与であってもそれは被害者に取っては大きい。なにしろ国家による意味付与なのである。
 しかしながら個人の作業だけでは、国家による刑罰だけでは、被害者にとってはいづれも不十分だと感じられるだろう。
 意味を与えることとは、「どうしてまた、ほかでもないわたし(わたしの家族)に」への回答が与えられることである。では回答を与えるのは誰だろうか。それはほかでもない加害者自身によってである。

加害者像の構築こそが、被害経験に意味を付与する

「わたしは〜の理由によって加害行為を行いました」と加害者が述べることばが「どうしてまた」と言う問いへの回答なのである。さらに「〜だから〜さんに対して加害行為を行いました」と述べることが、「ほかでもないわたしに」という問いへの回答なのである。
 しかしながら、現行の法制度においては加害者が被害者からの問いかけに対して直接応答することは不可能である。最大限できることは、裁判の傍聴席に座り、加害者を見つめ、そのことばから回答の一端を引き出そうとすることぐらいだろう。
 時に被告である加害者のことばのなかに、回答どころか被害者や家族に対する非礼や神経を逆撫でするような内容が含まれた場合は、いっそうの加害者への怒り・憎悪を掻き立てることになる。裁判においては珍しくない光景ですらある。しばしばそのような言動は「単に加害者への復讐に燃えているだけ」「報復したいだけだろう」などといったこころない実に浅薄な理解に基づいた揶揄を浴びさえする。
 加害者と接近できる唯一の機会に、ずっと問いかけ続けてきたことへの回答をすべてとはいわずともわずかな糸口だけでも引き出せないだろうかと、被害者は必死の思いで傍聴席に座っているのだ。まさに被害者の人生を賭けているといってもいい。被害者になることから無縁の人生を送ってきた幸運なひとたちは、この気迫、この重さをわずかでも想像し類推する責任があるだろう。わたしたちはだれもが一歩間違えば自分も被害者になるかもしれない状況を生きているのだから。

佐世保の少女殺人事件

 昨年6月、長崎県佐世保市で起きた小学校女児を同級生女児が殺害するという事件は、現場が学校であったこと、殺害方法の残虐さ、低年齢、ネットの使用などの特徴から社会に大きな衝撃を与えた。
 しかし他の少年事件との決定的相違は、被害女児の父親が新聞記者であったことから、自らの境地を折に触れてマスメディアに冷静な筆致で発表し続けてこられたことだ。ほぼ全文が新聞に公開され、そのたびに読むひとたちは被害者の父親がいったい何を望んでいるのかを詳細にかつ共感とともに読むことができた。御手洗さんはかつてありえなかった経験を読者であるわたしたちに与えてくださっている。そのことに感謝しなければと思う。
 2005年6月8日の朝日新聞から御手洗さんの手記(5月31日付け)の一部を引用してみる。
「・・・私は昨年9月、最終審判の後に『事件をじぶんなりに見つめなおしたい』と言いました。そのため事件のさまざまな資料を読み、専門家の意見を仰ぎ、彼女の『なぜ』を探す作業を続けました。非常につらいものでした。」(太字は著者による)
 ここで記されている内容は、被害経験の「意味」を探す作業にほかならない。「どうしてまた」という問いを抱かれ、一年にわたってその回答を探し続けてこられたのである。しかし続けてこう書かれている。
「私は作業のある時期から『なぜ』探しをやめようと思っていました。多くの資料に描かれた彼女の姿は、審判の決定要旨にある『自らの手で被害者の命を奪ったことの重大性やその家族の悲しみを実感することができないでいる』という表現が誇張ではないことを示していました。
 私は、事件当時のことは彼女自身もわからないのでは、という感覚を覚えました。それは底の見えない暗い井戸をのぞき込むような空恐ろしさでした。その時点で私にとって『なぜ』探しの意味はなくなりました。(中略)
 彼女の『なぜ』を探すことに意味はないというのは、あくまで『娘を失った私にとって』です。社会にとっては、こんな事件の再発防止に向けた原因究明の努力が重要であるのは言うまでもありません。」
 彼の1年にもわたる必死の回答探しは、加害者にも回答がわからないという実に残酷な結果に終わったということなのだろうか。殺した本人にもまったく実感がない、という点を「底の見えない暗い井戸をのぞき込むような空恐ろしさ」と表現されているが、まさに大地の底が抜けるにひとしい虚無の恐怖であっただろう。加害女児に対する最終審判(2004年9月15日)についても御手洗さんは「なぜ」の答えがないと感じられた。たしかにあの内容は敷衍すればどのような家族にも見られるものであり、凄惨な事件の引き金を説明するに足るとは思えない。裏返せば誇張されずに誠実に書かれた審判書であるとも考えられる。しかしながら、御手洗さんが述べているように、もっと迅速に事件直後に少女に対する心理臨床的(カウンセリング的と表現されていた)アプローチがなされれば、もっと別の内容を少女は表現したかもしれない。少年事件直後の聴取に際しての専門家の起用を考えるべきであろう。いずれにしても現段階では、あらゆる専門家を動員しても加害女児がどうしてまたほかでもない自分の娘を殺さなければならなかったのか、という問いへの回答を御手洗さんは得られなかったのである。

ふたたび「息子のまなざし」

 オリヴィエと少年との関係が明かされる前の、ストーカーめいたオリヴィエの奇矯な行動の理由は、ここまでたどりつくことで明快になる。
 なぜ尾行をしたのか、なぜロッカーをこっそり開けたのか……オリヴィエは自分の息子を殺した少年の内面をのどから手が出るほどに知りたかったのだ。だからこそ、少年の粗末なアパートに鍵を開けて不法侵入し、少年がいつも眠るベッドに横たわり、少年が眠りに就く前に必ず見上げるだろう天井を同じ姿勢で見つめてみたのである。
 おそらく彼の心の中で息子を殺した加害者への復讐心も湧き上がってきただろう。少年の手をとり、木材の採寸を指導しながら、一瞬殺してしまおうという衝動が起きることもあったに違いない。しかし目の前で不器用に木材の数を数え、かなづちで釘を打つ少年のあごの幼い線、全身から発散される警戒と不信、そして孤独のにおいを受け止めたオリヴィエは、少しずつ少年と奇妙な連帯感を抱いていくかのように描かれる。
 復讐心と怒りと、そして目の前にいるか細く不安に満ちた少年への思いとが激しく交錯する。あまりに激しい情動を表現するために、ダルデンヌ監督は主演のオリヴィエ・グルメに対して、どんな顔をしていいのかわからない顔を求めたのかもしれない。
 冒頭から結末まで、ほとんどグルメの表情は変わらない。めがねの奥に淡々とした視線をしまいこみ、喜怒哀楽をどこかに忘れてきたかのような表情は、背後で揺れ動く相反する衝動の激しさを逆説的に強調している。この手で、この眼で、この顔をさらしながら、少年は自分の息子を殺した。そのときどんな気持ちだったのか、どんなことを考えていたのか。殺風景なアパートの一室でベッドに横たわりながら、自分が殺した少年(オリヴィエの息子と知るはずもない)のことをどのような反省と悔恨で想起しているのだろうか。突き上げるような「なぜ」を解きたい衝動がオリヴィエを駆り立てる。

被害者が加害者に接触する意味

 オリヴィエは稀な偶然によって、加害者である少年とかくも親密な接触ができる機会を手に入れることができた。しかしそのことが彼に何をもたらしたのかは描かれていない。映画の結末は観客に問いを投げかけ、その後の展開をどう想像するかをゆだねて終わる。ダルデンヌ監督らしい結末である。テーマの大きさと抑制のきいた展開が評価され、数々の賞を与えられているが、日本では興業的にはそれほど成功しなかったらしい。
「修復的司法を描いた映画」という触れ込みで紹介されたが、1年半たった今になって思うのだが、この映画はもっと巨大なテーマに取り組んだのではなかったのだろうか。
 少年のベッドに横になったオリヴィエの姿は、残されたものは被害の意味を獲得せずには生きていけないのだということを切々と訴えてくる。どんなかすかな痕跡でもいい、加害者像を構築するための手がかりを得るためには、不法侵入すら犯してしまうのだと。
 被害者におけるこなごなになった世界への信念体系は、そのようにグロテスクで哀れな行動をとることによってしか再び積み上げられることはないのだ。
 オリヴィエも御手洗さんも、加害者を責めて復讐をしても殺された子どもは帰ってこないという当たり前の事実を痛いほど何度も何度も反芻することによって、初めて「なぜ」という意味の構築へとたどり着いたのではないだろうか。
 オリヴィエと比べて、御手洗さんは一切の加害者との接触を法的に禁じられている。手記にあるように加害者の親に会う、資料を読むことでしか加害者との接点を得ることはできない。このような制度は被害者にとってあまりに残酷であると言わざるを得ない。群盲像を撫でるのたとえのように、間接的情報によってでしか加害少女を知ることができないとき、御手洗さんはおそらく彼女の入所している更正施設に飛んでいって、少女と直接会いたいと何度思われたことだろう。オリヴィエのように彼女が何を思いどんなベッドで寝ているのかと想像されたことだろう。
「被害者救済」とスローガン的に叫ぶのは実に簡単である。しかし忌むべき、唾棄すべきと考えられがちな加害者について深く知ること、それによって加害者像を構築できることこそが、大きな喪失と世界観の分裂・崩壊にまで至らしめられたひとたちが求めているものなのではないだろうか。
 いたずらに被害者を刺激するためではなく、「なぜ」という被害者にとってもっとも切実な問いに答える一助として私は本書を書いたのだということを改めて実感している。

ご愛読ありがとうございました。本連載と「愛と執着のはざま」は、書き下ろしを加え、単行本として晶文社より刊行いたします。