中野の「囲町公園」は、なかなかマニアックな江戸の残り香が漂う場所だ。思い切り鼻の穴をひろげても、その香りは、あまりにもヒッソリとしすぎていて、なかなか感知することは難しい。
 その公園は、中野駅北口から徒歩五分ほどに位置し、中野市役所の隣にある。
 まわりは樹木で囲まれているものの、公園のなかは見通しがよく、さんさんと陽がふりそそいでいる。広すぎず狭すぎず、キャッチボールをして遊ぶ子供たち、ゲートボールに興じる老人たち、ベンチで昼寝をするサラリーマンなど、それぞれが気ままに過ごし、いたってのどかな風情がある。 
 敷地内を見回しても、ここが江戸時代の残り香が漂う場所である、とはどこにも説明されていない。入り口はこんな看板が立てられている。 

「犬を園内に入れないでください  中野区」

 わたしはこの看板を見た瞬間、そりゃないワン、と犬のように鼻をク〜ンとならして、この界隈で大切に育てられていたであろう同士(?)たちに思いを馳せた。 
 なぜならば、ここは犬たちの楽園である通称「犬屋敷」があった場所である。徳川五代将軍綱吉が発令した「生類憐みの令」に守られた聖域だったのである。
 中野村を中心として、30万坪(東京ドーム20個分!)にもおよぶ犬小屋が建設されたのが元禄八年。それ以後、綱吉が亡くなるまでの二十二年間、犬屋敷に囲われた犬たちは、豪華な食事を与えられ、専属の医者にかかり、すくすくと大切に育てられ、その数は十万頭近くまでふくれあがったそうだ。す、すごい数だ。
 そんな大事業を成しとげた場所にもかかわらず、その名残は「囲町」という公園の名前からほのかに匂い立っているだけだ。
 しかも公園内は、犬の立ち入り禁止。
 いっそのことドッグランにでもすれば、あー、ここらへんは犬屋敷だったからねぇ、とメモリアルな気分に浸れるのではないか、と思うのだが。

 犬屋敷があったことをなぜアピールしないのか、と不思議に思いつつ、中野区役所へ向かった。
 敷地の隅に、犬屋敷をしのぶ「犬のブロンズ像」がある。
 授乳している犬、りりしくまっすぐを見つめる犬、座っている犬、口をあけて見上げる犬、吠えている犬、など和犬が芝生の上に五頭並んでいる。
 像の横に石碑があった。

「かこい この付近一帯は、徳川五代将軍綱吉の時代(元禄八年)に作られた「犬屋敷」があったところです。犬の像はその歴史を語り伝えようと、東京セントラルライオンズクラブが寄贈したものです。 1991.10 中野区」

 犬屋敷というよりは、寄贈した団体の方が、中野区の歴史にその名を刻んでいるような印象を受けた。銅像ができたのがたった一六年前で、なかなかバブリーな頃である。「犬屋敷の歴史を伝えたい!」という純粋なる想いに欠けている印象を受けるのは、わたしだけだろうか。まあ、いいけど。
 銅像を眺めているうちに、はたと気がついた。
「生類憐みの令」という大事業を為し遂げた地にしては、その残り香が非常に希薄なのは、綱吉が民衆の生活を顧みなかったトンデモ犬公方だったせいだろうと思っていたが、ゆる〜い和犬たちの顔を眺めているうちに、なにかが違う、とひらめいた。

 たとえば長野県駒ヶ根に「霊犬・早太郎」という伝説の山犬がいる。化け物の老ヒヒと戦って村人たちを救った、と伝承されているのだが、今でもそのスター性は健在で、「早太郎温泉」、「早太郎最中」などその名を冠した公共施設や名産品がある。以前、駒ヶ根に行ったときに商店街で「霊犬・早太郎」と書かれた大きな看板を見たこともあった。

 ──もしも犬屋敷に、こんな伝説的なスター犬が、一頭でもいたら。

『綱吉はおかしいワン、と犬蜂起のリーダになった、犬』
『生類憐みの令によって島流しになった飼い主を追って海を渡ったマリリンみたいな、犬』
『「フランダースの犬」のような、清冽な涙を誘う中野の、犬』

 といったシンボリックな犬がいれば、この地の盛り上がり方は少し違ったのではないか。
 駅前に渋谷の「名犬ハチ公」のような犬の銅像が建っていたかもしれない。犬のまんじゅうや最中が売り出されていたかもしれない。中野駅北口商店街の「ブロードウェイ」も、「中野ワンワン・ウェイ」という名前になったかもしれない、「中野祭り」も「中野犬祭り」に…。
 そこまで想像すると、お腹一杯になった。江戸の残り香どころか、江戸がムンムン匂ってくる。
 メモリアルなドッグランにすればいい、なんて思って申し訳なかった。「囲町公園」は江戸気分を「嗅ぎつける楽しみ」がある奥ゆかしい場所なのだ。
 これといって特徴のないゆる〜い和犬たちの銅像が、やけにまぶしい秋の日であった。



松井雪子(まつい・ゆきこ)
1967年、東京生まれ。1988年、大学在学中に『ASUKA』(角川書店)で漫画を描き始める。漫画単行本に『絶望ハンバーグ工場』(文藝春秋)、『マヨネーズ姫』(青林堂)、『犬と遊ぼ!』(講談社)『おんなのこポコポン』(竹書房)など。2001年、雑誌『群像』(講談社)で小説も書き始める。小説単行本に『チル☆』『イエロー』(ともに講談社)、エッセイに『奇跡でも魔法でもない犬語の話し方』(幻冬舎)、絵本に『クウとポーのクリスマス』(平凡社)がある。