きものを毎日着始めて一年と少しになった。きものを着始めたころは自分でもぎこちなかったと思うし、見ていても変だったのだろうと思う。何くれと、きものにくわしそうなおばさまが寄ってきてくださっては、帯を直したり、一言のこしていったりしてくださったものだ。そういうフェーズが何ヶ月か続いた後、そういうありがたい「おせっかいおばさま」から声がかからなくなった。自分でも、今日はどう考えても、かっこよく着れていないな、と思う日でも、ちょっと帯がずれているかもしれない、と思う日でも、おばさまからもう声がかからない。つまり、少々変でも「慣れていそうだから、わかっているんだろう」と思ってもらえるようになっているのではないか、と想像する。
 世の中、おかしいことをおかしい、と口に出す、まっとうなおじさま、おばさまが減って久しい。口うるさい人がへって、若い世代は楽なのだが、反面ちょっとさびしくもある。が、こと、きものに関してはこういうおばさまが健在なのである。なかなかよいではないか。まったくきもの初心者の方がきもので外出するときも何も心配することはない。何か変なことがあれば、かならずこういったおばさまがなにくれと声をかけてくださることと思う。ちょっとうるさそう、おせっかいそう、一言多そう、という気持ちをすてれば、こういうおばさまの注意も素直に聞ける。先日、友人の中学生のお嬢さんがお茶のお稽古に行くのにきものを着ていったそうである。まだ自分ではきられないので、母親が着せてあげたそうだが、あわてていて、なんと左前に着せてしまった。お嬢さんはお茶のお稽古場につくまでに、4人くらいのおばさまから「あんた、左前よ」「おかあさん、なにもわかってないのね」といわれたらしい。「着いた先で直しなさいよ」とみなにいわれながら、お茶のお稽古場につく。ついたら、先生に直してもらおうと思っていたそうだが、先生も鷹揚な方らしく、「まあ、いいじゃない、今日は」と直してくださらなかったらしい。そのまま帰ることとなったが、帰りの道すがら、またまたたくさんのおばさまに声をかけられた挙句、最後には「踊りをやってます」という方にもよりのトイレにひっぱっていかれて、全部着付けなおしてもらったそうである。何も心配がない。失敗しても誰かが助けて下さる、と、いいように思って不安があっても外出したほうがよい。
 着慣れてくると、何が違うのか。毎日着ていると、自分でもちがいがよくわかってくる。着慣れてきて、最も変わったな、と思うのが、えりである。えりをきれいに出すことは最初は本当に難しい。えりがきまらず、胸元があきすぎたりする。えもんを抜こうとするのに、つまってしまう。えもんが抜けていたと思っても、しばらくするとずいぶんえもんが詰まっている。半襟がでていたはずなのに、きものにかくれてしまったりする。えりがうまく、「むねにのらない」のである。それが毎日きものをきて、からだをゆるゆるさせて、さらに高岡英夫氏の考案された「ゆる体操」などをしていると、あるときから急にえりがきれいに「むねにのる」ようになってくる。開きすぎたりすることもなく、胸元はきちっときまり、ずれないし、着物とのバランスもよく、長くきていても変わらない。えもんはきれいに抜けるようになって、時間とともにつまってくることもない。半襟はいつもよい感じで見えている。私の仕事を手伝ってくださっている若い女性は、偶然だが、プロとしてできるくらい着付けを学ばれた方である。彼女があるとき、「ほんとに急にえりがきれいになりました」といってくださった。
 これは、きものを着て、からだをゆるめることを意識していたので、姿勢が変わったからだろう。日本人が洋服を日々着て机に向かったり、仕事をしていたりすると、すこし猫背になって、背中が曲がる傾向があると思う。普通に立っていても、肩もはってきてちょっと前にいかりぎみになっている。こういう姿勢では、えりはきれいにのらず、きものに半襟が隠れて見えなくなる。きものをきていると、肩がおちてくる。いわゆるなで肩になっていき、前にいかりぎみになっていた肩が、極端に言うと、うしろにむかってすとんと落ちているような感じになってくる。肩甲骨の位置が変わっているように思う。
 ふつうは、きものが「むねにのらない」状態になっているままで、からだをかえるのではなく、「補正」が行われている。タオルをまいたり、補正具をいれたりする。もちろんたまにきものをきるときにきれいに着付けるためには大切なことだと思うが、毎日きものを日常着にするときには補正は苦しいことだろう。補正をいれるのは、やはり、ここぞ、というときだけにしたいと感じる。また、毎回補正をしていたのでは、からだのほうが変わる機会を失ってしまう。からだを変えていく機会にするためには、やはり毎日着て、実感することがよいのだろう。えりがきれいに出るようになったころから、私は本当に肩がこらなくなってきた、と感じている。

 三砂ちづる(みさご・ちづる) 疫学者