神前式婚と儀礼

 2005年11月15日、礼宮清子と黒田慶樹の結婚式が行われた。かつてロイヤル・ウエディングが神前式を広げるきっかけとなっただけに、今回のスタイルは興味深いところである。式そのものは非公開だったが、帝国ホテルの式場を使わず、欄の間に特別の式場をしつらえたという。斉主が天照大神をまつる伊勢神宮の大宮司だったために、イザナギノミコトとイザナミノミコトをまつる帝国ホテルの式場を使えなかったというのが理由らしい。ちなみに、ホテルによくある神殿では、出雲大社系の神が祭られていることが圧倒的に多い。早い時期に写真館を併設するなど、出雲大社では結婚式に力を入れるようになった。逆に言えば、伊勢神宮は、民間の結婚式にはほとんど関わっていない。
 ともあれ、奥の祭壇では、天照大神の神座を中央に据え、両側の壁に青龍や朱雀など、四神旗を飾ったようだ。ところで、新婦は、白無垢ではなく、珍しくロングドレスだったという。白のシルクに真珠のネックレス。装飾は控えめである。これを契機として、再び神前式が流行ったり、ロングドレスを着用した神前式が増えるのかわからないが、今後の行方を注目したい。
 現在の挙式スタイルは、キリスト教タイプのものが主流となっている。結婚情報誌の統計では、約60%の恋人たちがキリスト教タイプで挙式をあげるという。この形式は、1970年ごろから発展してきた歴史の浅い挙式タイプだ。その発展に促されて発生したのが結婚式教会なのである。もっとも、こうした結婚式のためだけの教会は、やはりアメリカが先駆けている。ロバート・ヴェンチューリとデニス・スコット・ブラウンらの『ラスベガス』も、結婚式教会の分布を調査しており、1960年代から登場したようだ。そして結婚式教会がメインストリート沿いに集中しているのに対し、本物の教会は、その裏側の居住地域に点在していた。ネバダ州の法律では、結婚式のハードルが低いことが、こうした施設の増殖をうながしたのだろう。
 先日、ある建築家から聞いたはなしだが、所員が西洋風の結婚式をやったとき、ヨーロッパ人の所員がそれに参加して、なんという産業だ、そしてなんと日本的なんだと驚愕したという。われわれにとっては日常的な風景になっているが、やはり海外の目から見ると、異様なものなのだろう。しかし、かつて日本人の結婚式といえば、神前式婚が圧倒的なシェアを占めていた。キリスト教系の挙式が一般に認識される以前の状況を知っている人々にとっては、そちらこそが「結婚式」として馴染みを覚えるのではないだろうか。
 実際、今でも「人生行事」と呼ばれるものは、神道系のものがほとんどだ。例えば、七五三や成年式は神道にゆかりをもつ儀礼といえる。民族宗教学者の宮家準は、死後の世界観を含む日本人の宗教的儀礼をダイアグラム化し、神道系と仏教系のそれぞれに属するタイプを分けている。人生の成年期に行なわれる儀礼には神道系のものが多いという。以前の挙式スタイルの主流であった神前式も、そのダイアグラム中の成年期に含まれる。
 婚姻を含む、日本人の儀礼に対する態度は、宗教観念と分けて考えることができない。つまり、キリスト教圏の文化に属する民俗とは異なるアプローチを必要とする。一神教の信者にとっては、日本人のように教義を混在させた儀礼をもつ文化はないのである。
 結婚式のみキリスト教タイプの儀礼が成立する日本。結婚式教会は、そのような宗教観念をもつ文化の中だからこそ生み出されたといえないか。


民俗学に見る日本人の婚姻

 日本女性史の開拓者、高群逸枝の著書『日本婚姻史』は、婚姻の歴史を「婿取式」、「嫁取式」、「寄合式」の三つに大別する。すなわち、原始から大和、飛鳥、奈良、平安、鎌倉時代までが「婿取式」、安土桃山、江戸時代までが「嫁取式」、そして明治、大正、昭和を「寄合式」としている。高群は、「女性」の社会的地位を向上する使命感をもっていたため、「母系」によるイエ構成を主眼におく。そこでイエに所属する婿を招き入れる婚姻の形式をつぶさに提示しているのが特徴だ。例えば、平安中期の文献『万葉集』に見られるツマドイ(妻問い)は、婿が妻の下へ土産を持参して通い、性的な結合を経て、婚姻関係となる。これは婿を迎える前段階の婚姻形式だが、ここから当時のイエの形成の関係が見えてくる。後述する「夜這い」のシステムも、同根のものだろう。つまり、この婚姻への認識は、日本人の婚姻、ひいては性への意識と根深く繋がっている。
 民俗学においても婚姻は重要な研究対象であった。特に地方の婚姻は、明治に入ってからも古代の様相を残すものが多く、早くから民俗学者によってデータ収集がなされている。日本民俗学の祖、柳田國男は、それまでの通史であった「嫁入婚」を覆した。また、かつての男女の婚姻は、ルーズなセックスライフから成立していたことも報告されている。例えば、「ヨバイ」。夜にしのんで女性の褥に忍ぶといった邪な印象をもつ言葉だが、本来は「ヨブ(呼ぶ)」を語源にもつ。また、それを支える「若者組」や「娘組」といった組織が村に存在したことからも、れっきとしたシステムとして成立していたことがうかがえる。「仲人」については、近代に入って、遠方の人々との交流によって生まれた婚姻のシステムであると分析されている。この視点は、高群の「寄合婚」に近い。かつてのフレーム、すなわち「村」という単位を超えた婚姻関係が結ばれるとき、その間を取りもつ「顔役」が登場する。それが「仲人」の始まりだという。この地方色をもつ婚姻の形式を超えて発生した現象は、新しい儀礼の発達をも促した可能性が指摘されている。
 柳田は、他にも様々な土地の婚姻、あるいは恋愛技術の変遷について、地方で採集した事例をもとに例示していく。「今後の婚姻」について自著で頻繁に触れているのは興味深い。昭和八年に「人情地理」で連載された「常民婚姻資料」の冒頭において、彼は、新しい儀礼である神前式婚に触れる。そして新しい儀礼の登場により、劇的に変遷を遂げた婚姻のシステムに対して、今後の役に立つように、婚姻に関する語録集を編んだという。それは百姓の間で執り行われていた婚姻のシステムが、明治33年以降、一般化していった「神前式婚」によって変遷を遂げた様子を読み取ることができる。
 中世史の網野善彦も興味深い見解を述べている。彼は、柳田がとり上げた後の時代の婚姻について、同じく民俗学者の宮本常一の著書『忘れられた日本人』を引き合いにだす。宮本も農村の婚姻形式や恋愛、あるいは百姓仕事の苦楽や智恵を記述しているが、内容の点から見ると、柳田と大きく隔たるところはない。しかし、宮本は、「村」の息吹のようなものにまで肉薄し、婚姻にまつわる周辺の状況まで浮き彫りにする。網野は、さらにルイス・フロイスの「日欧文化比較」を重ねて、日本人の「性」に関する観念を読み解く。フロイスは、織田信長に謁見したポルトガルの宣教師だが、祖国に謙譲した日本の滞在紀には、キリスト教の信者からの視点とはいえ、誇張と思えるような見聞が記されている。彼にとって、日本の「性」は、酷く乱れて見えた。例えば、日本人は女性の純潔について重視しない、堕胎は普通のことで二十回も堕ろした人がいる、意のままに離婚できるなどなど。網野は、これらの記述を比較して、日本では「現在から見ると乱れた性への慣習」が続いていたのではないかという。社会学の宮台真司が『まぼろしの郊外』において、地方のテレクラを調査したときも、こうした構図を採用している。
 戦後の風俗について、文化史家の井上章一が著書『愛の空間』において、皇居前の乱痴気騒ぎについて取り上げている。原武の『皇居前広場』も、かつてそこがアメリカ兵と日本人女性の逢い引きの場であったことを論じていた。その後、皇居前広場は、社会運動の舞台となるが、血のメーデー事件以降、警察の整備が進むことで抑圧的な場に変わっていく。ところで、戦後の日本は、「中絶天国」といわれていた事実がある。言うまでもなく、カトリックに代表されるような保守的なキリスト教は、中絶や離婚を認めない。自殺もそうだ。現在、先進国のなかで日本は、同棲や婚外子を認めない傾向がもっとも強いこと、また自殺者が年間3万人を超えていることと、無関係ではないだろう。


小笠原流

 上記の民俗学的なアプローチで詳らかにされた常民の婚姻の場は、大体が自宅で行なわれていた。その形式を変遷させたのが、かつての婚姻スタイルの主流「神前式婚」である。では、「神前式」は、どこに根を求めることができるのか。
 今和次郎は、当時の都市と農村の生活について分析した。著作としては『日本の民家』などが知られているが、やがて彼の収集癖は、当時の風俗を記述する考現学の確立へと進む。今や吉田を始めとする考現学の面々は、都市を彩る様々な事象を、細にいり微にいり採集、分析していく。その後、この功績を認められた今は、農林省に招聘され、労働者達の生活改善に力を注ぐ。その一環で生まれたのが「家政学」であった。
 今は、無駄をなくし、労働者の負担を減らすことに心を砕き、日本に根付く「儀礼」や「作法」に対して批判的な視線を送る。ある意味において近代的な合理主義だろう。『今和次郎集』では、様々な人生行事の儀礼について源流を探り、それをつまびらかにしている。そして武家文化や明治政府といった封建社会形成を目的とした政治的な意向からくる非合理的な浪費であると糾弾する。とりわけ重要な記述が、婚姻についてだ。
 今によると、神前式婚の儀礼や作法の大本には、「小笠原流」という教本が存在するという。その源流は、遠く足利義満にさかのぼる。平安期から、鎌倉、安土桃山期にかけて、公家から武家へと権力者が移行する頃である。そのなかで、粗野な武士の立ち居振る舞いや、儀礼の損失に対して、一策もうけたのが足利義満だった。義満は、当時力のあった公家由来の武家一門の「伊勢家」や「今川家」、そして「小笠原家」に、それぞれ礼儀作法の指南書を制作させる。ところが、その後、戦国時代に入り、足利家は衰退、公家文化に端を発する礼儀作法も、戦乱の世では必要とされず、指南書もろとも忘れ去られた。
 こうした礼儀作法に再び脚光があたったのは、江戸時代に入ってからだ。五代将軍徳川綱吉は、当時の器用人水原ト也に指示して、足利義満が編集した指南書を復興させるよう命じた。しかし、そのとき存在した指南書は、「伊勢家」と「今川家」の二つのみだったという。「小笠原家」の教本は、すでに紛失しており、存在しなかった。そこで水原は、当時の風潮と、「伊勢家」や「今川家」の指南書を組み合わせて、礼儀作法の教本を作りだす。それが「小笠原流」の形成へと繋がった。江戸時代を通して、戒律だてられた教本「小笠原流」は、こうして生まれた。その後、明治になり、西洋化するに伴い、武家の文化も意識的に忘れ去られようとしていた。
 ところが、明治33年の皇太子嘉仁親王、九条節子の婚姻にあたり、件の小笠原流に則った儀式が行なわれ、公然の知るところとなった。その数年前、高島夫妻による神前式婚の前例はあったが、小笠原流が正式に婚姻儀礼として確立したのは、このときからであった。農村などに見られる婚姻形式にまで影響を与えた儀礼のシステム化は、もともと明確な根幹をもたない作法に則って制作されていたのである。
 今の主眼は、このようないい加減な発祥で成立している礼儀作法の無意味性を、歴史の裏づけをとることで批判することだった。ただ、弟子として評伝『今和次郎』を執筆した建築評論家の川添登によれば、今の記述もときとして正確さに欠けるという。とすれば、今の小笠原流への見解も、正確な立証ではないのかもしれない。しかし、民俗学者の大間知篤三も、小笠原流および近代以降流通している婚姻の形式については、今に近い見解を示している。このことから、今の解釈は見当違いの立証ではないといえそうだ。
 ところで、柳田國男も、神前式婚の形式が先んじている当時の状況を危惧していた。かつて、自宅で行なわれていた婚姻の儀は、結ばれる夫婦の枠を超えたムラやイエなどの集団そのものの儀式でもあった。しかし、形式のなかで順を追って行なわれる神前式婚にとって代わられたとき、共同体としての儀礼が損失することを危惧したのではないか。柳田自身は、神前式婚の流布が婚姻形式の混迷の一時期であるとしてみていた。それが、やがては過去の状況を踏まえつつ、あるいはさらに新しい形式を発明することで変遷していくだろうと予測していた。先述した「常民婚姻資料」は、その発達に寄与するべく、編まれたものであったが、はたして現在の婚姻の形式からは、すでに神前式婚すら死滅しかかっている。この現状を柳田が見たら何と言うであろうか。


日本人の宗教観

 網野善彦は『日本の歴史をよみなおす』において、天皇家の葬儀に触れ、それにまつわる「古来の伝統」に問いを投げかける。本来、天皇家の葬儀は、「天皇」の称号が定着した持統以降、江戸時代までのほとんどが火葬であった。しかし、明治以後、「復興」と称して、古墳時代の埋葬形式になったのはおかしいという。この見解は、神前式婚にも当てはまる。つまり、「小笠原流」から確立された「神前式」は、古来から続く形式ではなく、明治の終わりにつくられたものだった。それを一般に広めたのも、皇太子嘉仁親王、つまり昭和天皇の婚姻だったことはすでに述べた。天皇家と古代復興と神前式の間に共通項を認めるのは、おそらく間違いではあるまい。近代とは起源をねつ造する時代なのだ。
 民俗宗教学者の宮家準の『日本の民俗宗教』から、近代日本人の宗教感覚を見ることもできるだろう。彼によれば、年中行事や人生行事のサイクル(円環)は、農業などを通じて、自然のサイクルと接続する。その行為は、有意識・無意識問わず、宇宙のなかに組み込まれる自己を認識させるだろう。宮家は、これを「見えない宗教」、あるいは「民間信仰」と位置づける。日本人の生活習慣を無意識に誘引する精神的なベクトルといえよう。現在、我々をとり巻く他宗派の教義や儀式の搾取、それに伴う年中行事の混在、あるいは迷信などの感覚も、ここに端を発するのだという。「見えない宗教」はともかく、宮家の観点は、すぐに宗教学者ミルチャ・エリアーデのそれをほうふつさせる。すなわち、農耕を通じて世界と自己を関係づけるところに宗教の発生を見るのである。さらに、農耕による作物の芳醇や種植えなどは、性行為との共通した観念をもつといわれている。
 神前式は、創造された「伝統」的な儀礼によって、一般庶民も皇室的なものや格式のあるものに接近する機会を与えた。男性を中心としつつ、イエとイエの結びつきを確認する場でもある。一方、キリスト教式は、むしろ個人と個人の契約を含意しており、より現代的な感覚と合致している。もっとも、信者ではない日本人の場合、神の前での誓いという意識はそれほど強くないだろう。そして結婚式教会は、西洋的なものへの憧れを背景とし、イメージのうえで西洋人との同一化をうながす。結婚情報誌をめくると、外国人のモデルがなんと多いことか。近代以降に普及した神前式とキリスト教式は、ともに決定的な根拠があるわけではなく、日本人の折衷的な精神構造においては、簡単に交換可能だった。
 結婚式教会自体は、キリスト教に端を発する教会建築を模写した形態といえるが、キリスト教に属しない。形式だけをコピーした空っぽの箱である。民俗学のアプローチでは、商業と結びつく一時的な婚礼儀式によって成立する婚姻を読み解くことはできないだろう。女性学は、そもそも虐げられた女性の社会的な地位を確立する目的があった。しかし、今や結婚式を左右するのは、男性ではなく女性である。ウエディングドレスを着る主役は、女性なのだ。結婚市場においては、男性が供給過剰である。ゆえに、現在は、男性が女性を選ぶのではなく、女性が男性を選ぶ時代である。結婚式教会は、女性が男性よりも優位にたつ時代を象徴している。


五十嵐太郎
1967年パリ生まれ。建築史・建築批評家。東北大学助教授。東京芸術大学、横浜国立大学、中部大学、非常勤講師。著書に『終わりの建築/始まりの建築』『新宗教と巨大建築』『戦争と建築』『読んで旅する世界の名建築』『過防備都市』ほか。

村瀬良太
1977年鹿児島生まれ。中部大大学院卒。バンタンキャリアスクールで非常勤講師。著書に『建築MAP 東京2』(共著)がある。

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