しばらく留守にしていたら、むかいの庭に霜柱が立っていた。ぐずぐず戻る日をのばしていたら、つぎの月になっていた。
 はじめの三日は、予定どおりだった。友だちと飲んで食べて笑っていた。
 友だちの帰る列車に手をふり、ぽつんとコーヒーを飲んだ。若いマスターの親切がうれしくなって、その町にもうひと晩とまった。翌朝、財布のなかを見る。からになるまでと、知らない電車に乗った。
 終点駅で宿を見つけ、キオスクでクリームパンを買った。まだ暖房のまわらぬ部屋で、ホームで冷えていたきいろいクリームをなめた。
 腹も足もつめたいまま、糊のきいた敷布にすべりこむ。四日放っておいた、鎖骨のした放心に、手をのせる。先週黒くまるく、穴のようにあいた。
 散策好きの友だちと歩いた山のもみじ、古い商家の玄関にならんでいた、むらさきいろの菊の花びら。夜の寺に細くたなびいていた線香。
 きれいだなあ、おいしいね、きょうもたのしかった。笑うたび、穴に響くよう声にして、立っている時間を確かめた。苔の庭、ずらりと並んだ阿弥陀仏。とうふが湯気に揺れた。
 身のうちにやわらかな景色をつめて、横になった。ひとつずつつまみあげ、ながめると、ほとほとと泣いた。
 まわりのひとに優しくされて、のうのうと泣いているだけなのだった。
……どんなことがあっても、よく見なさい。それから、眠って食べなくてはいけない。
 駅まで送ってくれたひともいた。移った町で、泣いて寝て、また泣いた。
 この町では、よく眠れて、いつもより飲めた。寒かったから、熱燗で勢いをつけて、古い道をさがしてバーにはいった。
 扉をあけると、カウンターにならんだ客は、みなちいさなテレビにくぎづけで、みな店の奥をむいている。
……こんなかわいい顔して、ごっつい太ももしてますわ。ぼくは、つきあって言われても、だめです。
 カウンターのなかの蝶ネクタイの青年がいう。
……あの、スカートのしたのズボン、いらんわ。
 まんなかの、あから顔のおじいさんがいった。画面は、スケート大会だった。
 どうぞ。背の高いマスターは、髪をうしろになでつけている。細おもてで、益田喜頓の若いころに似ていた。
 まだ外の空気をしょっているおじさんの、となりにすわる。おしぼりで、顔をこすったひとが、ハイボールと注文した。
 まねして、もうひとつと頼んだ。それから、横をむく。棚におさまった、ちいさなテレビ観戦にまざった。
 前日までの道中で、まためがねを見えなくして、ひとの区別がつかない。テレビの音も消してあった。
 欧米の選手のふくよかなからだの厚みと、日本の選手は小鹿のような肢体のちがいはわかった。くろい衣装が多かった。
 となりに、おまちどおさんです。すぐにおなじ酒がならんだ。クリームソーダをいれるようなコップに、西日いろの泡がはぜてる。
 糊のきいたシャツの袖が、すいとのびる。ちいさく切ったレモンをつまんだ指が、すばやく表面をすぎた。
……ハイボールは、うちの売りです。
 ゆったりした、歌のうまそうな声だった。
 おおきなコップを持って、コカコーラのはやさで飲んだ。ひさしぶりのウィスキーは、なつかしい甘さがある。またテレビを見る。
 一番人気の女の子は、店に来るまえに滑りおわっていた。つぎつぎに滑り出て、まわる。ならんだ八人と、手を休めたふたりはみな、画面のなかのしろい氷を、鼻さきに感じていた。
 ハイボールで満腹で、もう一杯は、カクテルにした。こんどはままごとのようなちいさなグラスで、なめるように飲む。
 帰るとき、ちいさな紙包みをもらった。来年のカレンダーです。ちっさくてかわいから、おみやげにどうぞ。
 あたらしい一年をポケットにいれ、店を出る。ぼったり目からぬる水が出るのも、もう慣れてしまった。ちいさなお堂の手水で顔を洗わせてもらい、お守りを買った。
 手をあわせると、もれた息は、ほうと白く、あたたかい。
 ポケットに手をつっこんで、歩くと、靴の縫いめが、やぶれていた。しんとした宿の、眠りの深さが気重になった。食べたいものも、あらかた食べてしまった。
 明日、あたらしい靴を買って、競馬をやったら帰ると決めた。

 東京は雨だった。財布のなかは、まだ一四六四円あった。高円寺なら、もう一杯だいじょうぶだった。
 電車から、熟れたいちょうのはりつく道が見える。
 秋葉原のネオンが、お濠にとけている。そのならびに、しんと暗い家なみがある。御茶ノ水につくまえ、電車がすこしゆっくりになる。
 中央線に乗ると、いつもこの窓から見る。ただいま晶文社と思う。

 


石田千(いしだ・せん)
1968年福島県生まれ、東京育ち。國學院大学文学部卒業。
2001年、雑誌『彷書月刊』主催の第一回「古本小説大賞」を受賞。
著書に『月と菓子パン』(小社刊)、『踏切趣味』(筑摩書房)。
現在、『i feel』に「並木印象」、『ちくま』に「屋上がえり」を連載中。