「おひとりさま」
司ぐり子30歳にとって、これほど癇に障る言葉はない。
 言葉自体が悪いのではない。単身で飲食店にぶらりと入って、店員に、
「お客さまはおひとりさまですか?」
 と聞かれても、「なんやとこらぁ〜!」と横山やすしばりに腹を立てることはもちろんない。だって本当にひとりなんだもの。
 なんだかなぁと思うのは、女性誌で「おひとりさま特集」なんぞを目にしたときである。ひとりでも"サマになる"レストラン、宿、バーなどがズラリと紹介されているのだが、ここに挙げられているというだけで、なにがあってもこの店には足を踏み入れないぞ、とかたくなに思ってしまう。
 第一、おひとりさまご用達の店なんて、考えてみると気持ち悪い。扉をガラリと開けると、カウンターにはおひとりさまの女性がズラリと並んでいる。ホラーだ。
 それに、往々にしてムーブメントに乗りやすい女性というのは、いざ立場が変わるといきなり持論を180度転換させるものだ。恋人ができてでもごらんなさい。彼氏と一緒に行った店で、ひとりで食事をしている女性を見つけるとこっそり指さして、
「ああいうさ、おひとりさまやってます、なんて女って、本人はいいかもしれないけど、見てるほうは痛々しいのよねぇ」
 ってゼッタイ言うから。

 こうもつらつらと「おひとりさま」の悪口を言ってしまったのは、ほかでもない。
 世のおひとりさまが恐怖するメインイベント、クリスマス・イブがまさにそこまで迫ってきているからだ。
 すっかりひとりでいることにポーカーフェイスである私も、このイベントだけはちと肩身が狭い。街全体がジングルベル、イルミネーション、チッカチカなんだから仕方ないといえば、仕方ない。
 24日、25日の2日間はまるで地下シェルターに潜るかのように、自宅のなかでそっとしている。20代半ばごろまでは同じシングルの友だちで声をかけあって、飲み会なんかを開いていたが、いまでは互いに遠慮をしあい、クリスマス前1週間くらいになると、パタリと連絡が途絶える。
 で、当日が過ぎてほとぼりが醒めたころに、
「そういえば今年はなにやってたの?」
 と、あくまでさりげなく聞く。
「う〜ん、家でDVD観てた。ぐり子は?」
「私も似たような感じ」
 このやりとりが例年のように続く。じゃあ、飲み会を復活させればいいじゃないか、と思うかもしれないが、「私がダメでも、彼女にはいいことがあったかもしれない。いや、あってくれ」という祈るような気持ちで、急によそよそしくなってしまう。これが友情なのだ。
 クリスマスを恋人と過ごさないと人間失格、とまではいかないまでも、この胸がつまるような罪悪感はなんなのだろうか。

 そうか、そうだ! 日本が悪いのだ!
 数年前、その答えに帰結した私はこの時期の日本を飛び出すことにした。
 目指すは、赤道直下、常夏のシンガポールである。
 全世界どこに行ってもキリスト教文化からは逃れられない。ならばいっそ、ホワイトクリスマスまっ青のホットクリスマスを経験してみようじゃないか。
 そして、唯一私にも恩恵にあずかれるクリスマスの福分、クリスマスセールを思う存分堪能する! う〜ん、燃えてきた! 燃えてきた!
 思いついたら行動は早い。まずは航空券の確保。次はホテル……、このとき天の声が囁いた。どうせ泊まるなら、ホ〜テルはリバーサイド〜! 井上陽水じゃない!?
 そう。世界で有数の名門ホテル『R』に泊まってみようじゃありませんか! 人生で一度は泊まってみたいホテルとして必ず名前が挙がるホテルにひとりで泊まる。しかもクリスマスウィークに3連泊。日本円にして1泊5万円弱。こんな贅沢なシングルクリスマスはめったにないだろう。惜しむらくは誰にもいばれないことだけれど、いいの。いつか笑って話せる相手が現れるはずだから。
 23日シンガポール着。この日は贅沢の上塗りということで、シンガポール本島の南に浮かぶ小島、セントーサ島のスパリゾート・ホテルに一泊。おとなの隠れ家リゾートで浮き世の垢と憂さをさっぱり洗い流して、翌日、憧れの『R』へと向かったのである。
 "東洋の貴婦人"と称される壮麗な白亜の外観にほうっとひと息。ターバンを巻いたインド人のドアマンと笑顔で挨拶を交わしながら、ロビーに入ると、耳に響くは聖歌隊の妙なる調べ。目の前にはキラキラと輝く、重厚なクリスマスツリーがそびえ立つ。このツリーはシンガポールのクリスマス名物、ということで、観光客がしきりに記念写真を撮っている。
 ふふん。私はそんなことしないもんね。だって泊まり客なんだもんね。……なんでしょ、この優越感は。人間、自信を持てなくなると、人品が卑しくなるって本当だ。気をつけなければ。くわばらくわばら。
 とブツブツ言っている間にも、フロントマンは中庭に面した回廊を歩きながら、私を部屋へと導く。『R』は全室スィート。もっとも手頃なランクといわれるコートヤードスィートでも、ドアを開けると、小さいながらも品の良いリビング、その奥にはコロニアル調の広々としたベッドルーム、そしてバスルームへと続いている。
 "司ぐり子、人生初のスィートルーム経験は自分のお金で手に入れました!"
 縁はなくとも甲斐性はある。これぞ逆セレブの女。ボーイさんが持ってきてくれたウェルカムドリンク「シンガポールシリング」をチュチュチューとすすりながら、「ま、こういうのもありか」と格別な感慨に耽ったのである。
 『R』のホスピタリティは実に素晴らしいものだった。"おひとりさま"なんて強がる必要もない。部屋ごとにバトラー(執事)がつき、宿泊客=ゲスト専用のスペースをのんびり散策しながら、時間が流れていく。
 私がチェックインした日、つまりクリスマスイブの夕方には、ゲストたちはホテル側の招待で3階のサロンに集まった。カクテルとオードブルでもてなされるささやかなパーティである。
 シンガポールでクリスマスを祝うために集まった各国の紳士淑女(カップルも家族連れも)が、和やかに談笑する。なかにジャパニーズの逆セレブが一匹ぐらい混じっていてもウェルカムなのである。憶えておこう。これが持てる者の余裕というやつなのだ。ホテルスタッフも優しい。「何杯でもお替わりしていいですよ」と微笑む。ブラボ〜、ブラボ〜、ブラビッシボ!

 悲しいかな。有頂天なままでは終わらせてくれないのが、ぐり子の人生である。
 調子に乗った私は、『R』のメインダイニングでひとりクリスマスディナーをとることに決めた。コンシェルジュに「ひとりでよろしく」と予約を頼むと、さすがである。顔色ひとつ変えない。ちなみに値段は日本円にして3万円強。価格設定も気合い十分だ。よし!   髪を夜会巻きに仕上げ、ドレスアップして鼻息荒く、メインダイニングに乗り込んだ!いま闘いの銅鑼が鳴る!!
 ……詳細は省くが、残念ながら料理が口に合わなかった。伝統的なコースを期待していったら、斬新なオリエンタル・キュイジーヌだった、とでも言おうか。冷たい料理はぬるく、熱い料理もぬるい。しかも皿と皿の間隔が異様に長い。もっとも、不満を感じたのは私だけではなかったらしい。ヨーロッパ人と思わしき老夫婦は食事の途中、すごい剣幕で店員にクレームをつけて席を立ったし、隣の席の熟年夫婦の顔は次第に曇り、しばしば「どうしたものかねぇ」という表情で私にアイコンタクトをとってきた。
 悲惨だったのは、少し離れたテーブルに座っていたリッチそうな中年男性と20代前半の女性の日本人カップルだ(私はいまでもあれは不倫カップルだったと睨んでいる)。
 ディナーの当初は、男性がプレゼントらしき包みを手渡し、彼女の顔を覗き込むようにしてさかんに話しかけていた。彼女のほうも大げさなぐらいのブリブリのリアクションで、男性の言葉にうなずく。
(今夜が勝負、ね)
 面白い獲物を見つけたとばかりに、シャンパングラスを傾けながら、その様子を横目で眺める私。
 しかし、である。先に述べたようなメロウなディナーが進むうちに、ふたりの口数は次第に少なくなっていく。会話につまった中年男性が次に出た行動。それは思いもかけないものだった。なんと、デジタルカメラをポーチから取り出して、黙々と昼間の観光で撮ったであろう画像をチェックしはじめたのである!!
(おい、おい、おい!)
 飲みかけた白ワインを吹き出しそうになりながら、あくまでマダム然とふるまうが、目が彼らに釘付けになって離れない。
 無視された彼女のほうはというと、男性に冷た〜い一瞥を投げたあと、長い巻き髪の端っこをくるくるともて遊びはじめた。
それからふたりが目を合わせることは、私の知る限りいちどもなかったのである。
 シビアである。あのあと彼らがどういう夜を迎えたか、それは知らない。が、あそこまでムードを完璧に失ったあと、燃え上がることは可能なのだろうか。
 男の立場からすれば、一流のホテルを用意し、最高級のディナーをもてなせば、女なんてちょろい、ってなものだったのだろうが(まあ、彼女もついてきたんだし、これはもう同意したも同然)。しかし、まあ、人生いたるところ落とし穴あり。金で"愛"は買えるかもしれないが、"間"までは買えなかったのである。
(いくらなんでも、デジカメはやばいだろ)
 そんな教訓を胸に刻みつつ、赤ワインのハーフボトルを1本空けた。そして、部屋に戻ってふかふかベッドに倒れ込み、爆睡のうちにシンガポールのクリスマスイブは幕を閉じた……。

イラスト 05年、今年のイブとクリスマスは見事に土日である。ぐり子の予定はまだ決まっていない。
「おひとりさま」にはもう飽きた。これが本音なのだけれど。


司ぐり子
1975年兵庫県生まれ。幼・小・中・高を地元の公立校で地味に過ごす。が、「お嬢さん短大を卒業していいお嫁さんになれ」と周囲が猛反対するなか、一浪して早稲田大学入学。
99年一部上場企業に入社し、現在、広報部勤務。彼氏ナシ。