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井の頭通りをまっすぐ東に吉祥寺にむかって歩いていたら、とても素敵なおっぱいに遭遇した。
マトリックスのキアヌ・リーブスとキャリー=アン・モスみたいなサングラスをしていたので、顔はわからない。背が高くてすらっとした体をTシャツがぴったり包んでいた。
あ、カッコいい、と思って目をこらしたら、女のおっぱいが揺れていた。プルルンって感じで揺れていた。ゆさゆさ、でもなく、たっぷんたっぷん、でもなく、プルルンだったのだ。
そのプルルンおっぱいとの距離が、だんだん縮まっていく。思ったとおりだ。プルルンおっぱいを包むTシャツに、乳首のピピッとした隆起があった。あ、やっぱりね。ノーブラじゃなきゃ、あんなにプルルンとは揺れないものなのだ。
それにしても、なんと素敵なおっぱい。重力に抗するように、斜め前方にキュッと盛り上がった、ちょっと尖りめのおっぱい。立ち止まって、振り返って、遠ざかっていく女の背中に「素敵なおっぱい、ありがとう」と念を送った。
その後も、おっぱいのプルルンが脳裏に焼き付いて離れない。歩きながら、心の中でプルルンと唱えたりして、なんともウキウキした気分になった。それから、ルックスと雰囲気から察するに、ちょっとした変態さんだったのかな、とか、きっとおっぱいに自信あるんだろうな、とか、もしかして調教してる男がいて、ノーブラで来るように指令されたのかな、とか、白昼に妄想ばかりがふくらむ。
それにしても、なぜ、かくもおっぱいに魅せられ、執着してしまうのだろうか?
口唇リビドーというのがあって、おっぱいはそのリビドーの対象なのだろうか、と考えたりもするが、どうも納得いかない。おっぱいをしゃぶりたいという欲動は、セックスするようになってから、後から獲得したのではないだろうか。そして、セックスするようになる前には、おっぱいというのは、口唇リビドーの対象というよりも、女性を表す記号にすぎないのではないか、と思うのだ。
小学生のとき落書き帳に、いわゆる戦闘美少女の絵をよく描いていた。絵で女性を描きたいと思った最初のモチーフがそれだった。女型ロボットの絵なんかもよく描いた。それは、現実のおっぱいのイメージがあって、それを絵に描くというのではなくて、おっぱいは単純な図形であって、その図形を描くことに熱中していたのだ。長い髪と膨らんだおっぱいとスカートがあれば、それだけで女性のイメージが成立したのである。
図形的ではない、生身の女性の身体のシルエットに、描きたいものが移行していったのは、中学生になってからだ。その頃読んでた少年マガジンには、アイドルの水着写真が掲載されるようになって、キャンディーズやアン・ルイスの水着写真を薄い紙でトレースしたりしたのをおぼえてる。
アイドルの水着写真の系譜は、アグネス・ラムの登場で、ひとつのピークを迎えたように思う。1976年くらいの話だ。あの頃アグネス・ラムがブームになった背景にあったのは、たぶん南島楽園幻想だろう。ゴーギャンがタヒチに憧れたみたいなものか。ただし、アグネス・ラムのいつも無邪気に笑ってる顔をみてると、原始的で生命力に満ちてるものに憧れるといっても、それは牙が抜かれた原始であって、文明のストレスフルな生活からなるだけ遠い女に癒されたい、というくらいの願望だったのだろう。
その頃、こっそり月刊PLAYBOYを買ったりしていた。週刊プレイボーイとかGOROとかよりも、月刊PLAYBOYを買う方が平気だったのだ。それは、水着じゃなくてヌードを見たいという欲求だけじゃない。プレイメイトのヌードは人工的な感じがして、あまり生々しさがないので、それだけ抵抗なかったのだ。
ひとついえるのは、この頃までは、おっぱいに対する性的欲望は、きれいなかたちをしたおっぱいを見たい、というのが中心にあったことだ。そして、いろんなおっぱいの写真を見ているうちに、顔と同じように、おっぱいにも表情があることに気付く。さらにその次の段階になると、おっぱいに触って、それがどんな感触なのかを知りたい、という欲望にかわっていった。
80年代になって、にっかつロマンポルノとかを見るようになったのは、ひとつには、おっぱいそのものを見たいというより、おっぱいが鷲掴みされ、もまれているところが見たい、というのがあったのだろう。その頃のにっかつだと、風祭ゆきや朝比奈順子が好きで、街のちょっとはずれにある薄暗い映画館によく通ってた。朝比奈順子のおっぱいはかなり大きかったけど、風祭ゆきは、かなり小さめのおっぱいだった。でも、より好きな方は、というと、風祭ゆきだったりするので、何が何でも大きいおっぱいでないと好きになれない、というのはなかった。
ぼくにとっては、おっぱいの大きさというのはあんまり重要ではない。おっぱいや乳首に触ったりするときに、すごく感じてくれる女性もいれば、ぜんぜん反応のない女性もいる。おっぱいの大きさよりも、それを触ったりするときに、すごく感じてくれると嬉しい、というだけなのだ。
それでは、おっぱいの持ち主である当の女性にとって、おっぱいとは何なんだろうか。多くの女性が自分のおっぱいのかたちやなんかに、いろいろなコンプレックスやら執着やらをもっているようだ。こうありたいと望むボディイメージがあって、その中で、おっぱいの大きさやかたちというのは、とても大きな比重を占めているのだろう。そうすると、おっぱいは、男にとって記号である以上に、女にとっても記号なのだと思う。
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