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高橋源一郎の「小説教室」を読んでたら、その中のブックガイドで石川啄木の「ローマ字日記」が「男性の性的妄想を赤裸々に描いたものとして、時代を先取りしています」と紹介されていた。
たしかに、娼婦のあそこに指を五本入れる、手首まで入った、とかいう記述が岩波文庫の143〜144ページにあったりする。
おいおい、石川くん、指五本はやりすぎ、せめて三本までにしておけ、とか、手首まで入ったとは、よっぽど手が小さかったのかな、とか、ここを読んだときは、いろいろ気になった。
まあ、ゲイでもちょっとSM系のプレイになると、フィストファックがあったりするから、アナルに拳骨が入るんだから、子供を何人も産んだおばさんの膣だったら、入らないこともないかな、などと思ったりもする。
たぶん、入るか入らないか、でいえば、入らないことはない、入れようと思ったら入るものなんだろう。でも、実際に指五本とか手首とかを入れた経験がないので、それがどんなものなのかは、実感としてはわからない。
で、石川くんが、ほんとに手首まで入れたのか、それともそこは「性的妄想」であるのかは、なんともわからない。ただ、それが妄想だったとしても、指五本入れて、さらには手首まで入れてしまった石川くんの気持ちは、わからないでもない。
たぶん、石川くんの手首を入れられた娼婦の人を想像するに、「あ、だめ、そんな、五本も入れられたら、壊れちゃう」とか、ぜったい言いそうになさそうだし、それどころか、顔色ひとつ変えずに、余裕というか笑みさえ浮かべて、平然としていたのだろう。
入れた方も、入れられた方も、どっちも妙に、あっけらかんとした雰囲気が読み取れるのである。石川くんは、この女の膣に指が何本まで入るか、手首は入るか、そのような好奇心からチャレンジしたようには感じられないのだ。また、この女をヒーヒーいわせたくて、ついついエスカレートしてしまって、手首まで入れてしまった、という展開でもなかったのだろう。
石川くんの気持ちは、「すげえ、手首まで入った」というのではなく、「なんとなく手首入れたら、入っちゃった、なんだ、こりゃ」というのが近いように思う。この「なんだ、こりゃ」は、驚きとかではなく、むしろ、驚きのなさに対する、どこか投げやりな気分なのである。
たぶん、そのとき石川くんには、その娼婦が、ただの肉の塊に感じられたのだろう。いや、それは肉ですらなく、まるで粘土をこねてるような錯覚に陥ったのかもしれない。そういう錯覚というのは、たいがいペニスを萎えさせるものである。いや、ぜったいに萎えてたはずだ。萎えてたから、手首を入れてみたのだろう。
で、手首を入れられた娼婦は娼婦で、石川くんの手首にしろペニスにしろ、同じように、ただの肉の塊としか感じてなくて、だからこそ、あっけらかんとしていたのだろう。
ヘルスとかの風俗嬢は、客のペニスをいじってるとき、何を考えているのかな、と想像したりするのだが、たぶん何も考えてないのだろう。乳牛の乳首というのは、大きさといい形といい、ちょっと大きめのペニスみたいなものだが、牛の乳をしぼるのに、いちいちそうしたことを連想してたら仕事にならないのと同じで、ヘルスの風俗嬢も、たいていは、牛の乳をしぼるような感覚で、客のペニスから精液をしぼってるのだろう。
というわけで、手首を入れる方も入れられた方も、そこは、あっけらかんとした雰囲気だけがあって、「性的妄想」がふくらむ余地はない、という状況というのは、石川くんの時代も現在も、たいした違いはないように思う。
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