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『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』は、嫌いな映画じゃないんだけど、でも、メチャクチャ好きというわけでもなかった。観てみようかなと思ったのは、グラムロックと関係ありそうな気がしたからだ。観終わって、たしかにいい映画だったんだけど、でも、もうこれしかないって感じでもなかった、というのが正直なところ。
グラム映画には『ベルベット・ゴールドマイン』があった。このタイトルは、デビッド・ボウイの曲にちなんでいるが、ボウイの曲は一切使われていない。ボウイは曲の使用を許可しなかったらしい。ほんとはボウイのジギースターダストの頃の曲を使いたかったんだろうなあ、というのが、よくわかるんだけど、でも、ボウイが許可しなかった理由というのも、それ以上にわかる気がするのだ。それは、ボウイにとって、グラムの頃の曲というのは、過去のものであると同時に過去のものでない、ということなのだろう。要するに、『ベルベット〜』は、グラムの頃のあの時代は、甘美で輝いていたよね、うっとり、というだけの映画だった。そうしたノスタルジーを、たぶんボウイは嫌ったのだろうと思う。
その点、この『ヘドウィグ〜』は、ルー・リードの『ワイルドサイドを歩け』を除けば、ほとんどの曲がオリジナルで、プラトンの『饗宴』に出てくる両性具有の話を歌った曲とかもあるしで、曲のよさがそのまま映画のよさになっていた。見せる映画である以上に、聞かせる映画であったわけだ。
1961年、ベルリンの壁が築かれた年に、東ドイツにヘドウィグは生まれた、という設定になってる。だから、完璧に同世代というわけで、子供のときにロックにしびれて、それでもって思春期になって、ボウイ、ルー・リード、イギー・ポップに、ぞっこんになってしまう、という展開は、ぼくに限らず、まあ、ありがちなパターンではあるのだ。
ベルリンといえば、ロックにはベルリンと壁をテーマにした曲の系譜というのがあって、ルー・リードの『ベルリン』とボウイの『ヒーローズ』を思い出す。といって、それは別に東西冷戦が云々という話ではなくて、閉塞した気分を演出する舞台としてベルリンがあった、という程度のことだったと思う。それでも、なぜ、ベルリンの壁なのか? それは、ヘドウィグが、東側の世界から西側の世界に越えることと、男から女に性転換手術を受けることとが、だぶらせてあるからなんだけれども、このあたりの設定は、かなりこじつけな感じがした。ヘドウィグは、アメリカの黒人兵に掘られて、惚れて、それで結婚するんだけど、それがほんとに結婚したくて性転換したのか、それともアメリカに移るための手段ということだったのか、そこのところは、よくわからなかった。
ただし、6インチあったペニスを手術で切断したものの、手術のミスでペニスが1インチ(アングリーインチ)残ってしまった。というわけで、MTFGとはいえ、完全に女になれたわけではない。その1インチは、ぶざまな現実のカケラであり、余りもののカケラなのだ。おまけに、アメリカに渡ったものの、黒人の男には捨てられてしまうし、ベルリンの壁は崩壊してしまうしで、かつて抱いていた夢は、次々と現実から嘲笑され、裏切られていく。
やがて、美少年のトミーと出会い、ヘドウィグはトミーに、ロックのイロハと美意識を手ほどきするのだが、1インチのペニスをもつ、できそこないの男/女であることを知ったトミーは、ヘドウィグのもとを去る。ヘドウィグの曲を盗んだトミーは、ロックのスターダムをのぼりつめる。対照的に、ヘドウィグのバンド「アングリーインチ」は、みじめったらしいレストランのどさ回りの日々。
ヘドウィグは、そうした皮肉な現実から嘲笑されるのではなく、逆に、自分を笑い飛ばすことによって、現実を笑い飛ばす。彼の歌は、切なくて、ぐっと来るんだけど、でも、それはやっぱり、どこか感傷的で、最後には、もういいよ、さようなら、という気持ちになってしまった。
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