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ジョン・レノンの『イマジン』が、アメリカあたりで放送禁止曲になったらしく、でもテロ犠牲者追悼番組とやらでニール・ヤングが歌っていたなと思ったら、オノ・ヨーコがニューヨークタイムズに歌詞の一部をコピーに使った全面広告を打った、といった一連の出来事が続いた。そういえば、横浜トリエンナーレでオノ・ヨーコの『貨物列車』を観たのは、9月11日の2日前だったなあ、などと感慨にふけりながらも、やっぱ、オノ・ヨーコは『イマジン』など使わずに、彼女自身の言葉でアクションすべきじゃねえの、と思いつつ、NHKアーカイブをみてたら『ワン・ステップ・ロック・フェスティバル』を記録した『若い広場』なんかをやっていて、それで内田の裕也さんの紹介ヨロシク、オノ・ヨーコのご登場で、なんなんだろうな、このドキュソなパフォーマンスは、と思いつつ、どうせだったら頭脳警察の『世界革命戦争宣言』の映像とかないのかな、と思っていたら、ビンラディンのアジテーションというのが、まるで「世界革命戦争宣言」のフレーズみたいだよ、と思ったりして、「朝まで生テレビ」を見てたら、足立正生が出てたり、その翌月は重信メイが出てたりしていて、そういえば、あの時代の重信房子は機関銃を構えたポーズで戦闘美少女(?)していたのだな、なんか下手なゴダールの映画みたいだな、などと思っていたら、WOWOWがゴダールの『映画史』をやってて、録画したテープを再生しようとしたらビデオが故障してしまい、なんだよ、20世紀ってぜんぜん終ってねえじゃん、とぶつぶつ言いながら、9月が終わり、10月が終わった。
テロの直後、ツアー中のマドンナが、コンサートでテロの報復は何も解決しない、みたいな発言をしたとかいうニュースがあったのだけど、そのマドンナというのは、イスラム原理主義(原理主義ってのも、やな言葉だね)からみたら、マイケル・ジャクソンと並んで、文化的テロリストということになっているらしい。
なるほど、文化的テロリストねえ。たとえば、キッシンジャーの「これは第二の真珠湾攻撃だ。敵は広島・長崎と同じ結末を迎えるだろう」という発言にはむかついたのだが、ビンラディンに「広島・長崎はアメリカの犯罪だ」と言われてしまった日本というのも、これまたマヌケなわけで、ビンラディンに言われる前に、日本は世界に向けて「広島・長崎はアメリカの犯罪である」と言っておくべきだったのだ。まあ、チョムスキーに同じ事を言われてしまった大江健三郎というのも、マヌケなわけだが、それはともかく、キッシンジャーの発言にはユダヤ人の本音が露骨ににじみ出ているのではと思うのだ。
ユダヤ人虐殺といえばアウシュビッツなのだが、19世紀末のロシアでもポグロムと呼ばれるユダヤ人迫害/虐殺が多発した。ユダヤ人にとっては、ナチスが恐怖であった以上に、ロシアも恐怖だったのではないだろうか。20世紀の東西冷戦の背景には、少なくともユダヤ人にとっては、ポグロムの悲劇の記憶が背景にあったのではないだろうか。
イスラエル建国というのも、シオニズムを支援したヨーロッパの心理からすると、ヨーロッパからユダヤ人が出ていってほしいという願望があったからではないのか。そう考えると、ヨーロッパがユダヤ人を差別し、その差別されたユダヤ人のイスラエルが、パレスチナを差別するという構図が見えてくる。さらにいえば、ナチスのユダヤ人虐殺が20世紀最大の悪だとしても、ナチスを断罪するヨーロッパの無意識の中では、それによって自分たちのユダヤ人差別をなかったことにしようとする心理が働いているのではないのか。一方、差別されたユダヤ人にも、そのアイデンティティの根源にはユダヤ選民思想があるのではないのか。
と、そんなことを考えながら、やっぱり『イマジン』は能天気ヒッピーの白昼夢にすぎないと言わなければならない。国境があり、国家があるから戦争があるんではない。天国を信じるから戦争があるんではない。そうではなく、優越民族と劣等民族を差別する思想があるかぎり、どうしようもなく必然的に終わりなき「戦争」はいたるところにあるのだ(『WAR』)。でも、残念ながら、いまのところイスラムには、レゲエのような音楽の政治もないし、ボブ・マーレイもいないってことなんだよな。
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