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フロイトはセックスが下手だったに違いない。
女から「セックスが下手ね」と言われたことはなさそうだし、下手なのかもと悩んだこともなかっただろう。そもそも、セックスが上手とか下手とかいう発想そのものがなかったに違いない。
というのも、たとえば次のような文章を読むと、フロイトはずいぶんつまんないセックスをしていたんだろうな、という気がしてくるからだ。
――われわれが達成できる最大の快楽、すなわち性的な行為のもたらす快楽は、最高度に高まった興奮が瞬時に消滅することに結びついていることは、周知のことである。すると欲動興奮の拘束は準備的な機能であり、興奮を調整して、放出の快感において最終的に解除するものであろう。
(『快感原則の彼岸』 中山元訳、ちくま文庫)
――性的な産物を放出する行為は、最大の快感をもたらすが、そこではいかなる緊張も生まず、逆に緊張が放出される。
(『性理論三篇』 中山元訳、ちくま文庫)
つまりフロイトは、射精の瞬間が一番気持ちいい、と言ってるわけだ。
でも、それだったら、別にセックスでなくても、マスターベーションでも同じことが言えるのではないのか?
そう思って読み直すと、フロイトが論じている「性的行為」というのは、男の「それ」でしかなくて、セックスが相手(女に限らない)との相互的な行為である、という視点が全然読み取れないのだ。
もしかしたらフロイトも、ほんとはセックスって、もっと違うものなのかもなあ、なんて考えることもあったのかもしれない。でも、フロイトは、もっと違うセックスを探求してみる、という展開にはならずに、この射精の気持ちよさは一体何なんだろう?と考えたのだ。
『快感原則の彼岸』から引用した文の直前で、次のように書いてある。
――快感原則は一つの傾向となり、ある機能のために存在するものとなる。……この機能は、無機的な世界の静止状態に復帰するという、すべての生命体のもっとも普遍的な営みに関与するものと思われる。
(『快楽原則の彼岸』 同前)
「無機的な世界の静止状態」というのは、死のことである。フロイトは、「すべての生命体の目標は死である」と言う。
――この生命の目標が、これまで一度も達成されたことのない状態であると考えると、欲動の保守的な性格に矛盾する。逆に、最初の状態に戻ることを目標にしているのである。生命は発展のすべての迂回路を経ながら、生命体がかつて捨て去った状態に復帰しようと努力しているに違いない。
(『快楽原則の彼岸』 同前)
フロイトは、これを「死の欲動」と呼ぶわけなんだが、それについてはとりあえず置いといて、この「かつて捨て去った状態に復帰しよう」って言い方は、何かに似ている気がする。そう、あの胎内復帰願望ってやつだ。
フロイトは、この射精の快感(オルガスムス)を、「(小さな)死の体験」として解釈したといえるだろう。それは緊張のない状態、緊張から放出された状態として考えられている。逆に、膣にペニスを挿入する行為やその状態そのものは、むしろ緊張がともなうものであり、射精という死の体験において放出される緊張を高めるための準備的なものと考えられているわけだ。
であれば、胎内復帰願望というのは、膣にペニスを挿入することで代理されるような願望ではなく、その彼方にあった誕生以前の状態への復帰願望、というのが本質ということになるだろう。
でも、このような「死」の観念そのものが、幻想なのではないか。射精を「死」と関連付けるフロイトの考えは、あまりに目的論的でありすぎるように思える。射精が目的であり、それに至るまでの過程は、あくまで準備にすぎない。そう言われると、いや、セックスは射精がすべてじゃない、という気分になるのだけれども、しかし、射精の瞬間を超越的なものとして考えてしまう傾向が、ぼくの中にまったくないかというと、そうも言い切れないのだ。
それはたとえば、ペニスを出し入れしているとき、ふっと興奮が醒めるときがあって、なんか運動してるだけだよな、と我に返るというか、自分を見ている自分を感じるときがある。そうなると、射精の予感のようなものが、すうっと遠ざかっていくのだ。それは必ずしもインポテンツに対する不安とか恐怖というわけではない。ペニスは勃起している。そのとき、相手の身体が、物のように感じられてしまうのである。それで、醒めてしまった興奮を回復するために、攻撃的な何かを駆り立てようとしている自分がいる。
そういうとき、たしかに射精に執拗にこだわっていて、行為そのものがまさに射精にむけた準備になっているのだ。だから、あんまりフロイトのこと、笑えないのである。
そのときの攻撃的な何かというのは、サディズムと関係あるんだろうか。そして、サディズムと死の欲動の関係を、フロイトはどのように考えたのか。そのあたりに、男のセクシュアリティの鍵が隠されている気がしている。
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