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フロイトの本をいくつか読みはじめたところなのだが、たとえば『性理論』などを読んでて不思議に思ったのは、科学に対するこだわりがその文体から強く感じられる点である。どう考えても科学にならないだろう問題に対して、それを何とか科学として成立させたいというこだわりを感じてしまうのだ。
要するに、フロイトの本というのは、いわゆる「とんでも本」の典型なのではないだろうか。でも、フロイト本人は、自分のやっていることはまぎれもなく科学であると確信しているらしいことがその文体からひしひしと伝わってきて、なんともいえない可笑しさを感じさせるのである。
そのような「とんでも系」の典型に思われるフロイトの思想に絶大な影響を受けた20世紀というのも、一体何だったんだろうと考えさせられてしまう。
たとえば「無意識のうちに〜」という言い回しは、よく日常的に使われるわけだけれども、明らかにフロイト用語である「無意識」という語が含まれているにも関わらず、実はフロイトのいう無意識とはあまり関係ない意味であるように思われる。そもそも「無意識」を言うのであれば、同じくらい「超自我」を言ってもいいように思うわけだけれども、「超自我に従って〜」などという日本語はない。
思春期あたりに精神分析に興味を持つ人は多いが、そういう人たちにとってフロイトよりもユングの方がなんとなく受けがいいのも、たぶん日本の精神風土みたいなものと関係あるのだろう。
まあ、エロスとタナトスだとか、リビドーとか、エスやイドとか言われると、どことなく知的な雰囲気がしてしまうわけだが、ではフロイトの本が熱心に読まれたかというと、『夢判断』なんかを除くと、実はほとんど読まれていなかったのではないだろうか。
フロイトの説く理論には、その全部ではないにしても、部分的には、なるほど、そういうこともあるかなと納得した気にさせられるところがあるのだろう。無意識という、意識を越えた何かというのは、おそらく「無心に〜」とか「自然に〜」みたいなことを良しとする日本の精神風土に、すんなり受け入れられたのだろうし、あるいはタナトスにしても、切腹みたいなものの背景にある何かと通じるところがあると思われたのかもしれない。しかし、そういった部分的に納得できる概念ではなく、フロイトの思想の枠組み全体が、日本において納得できるものとして受け入れられたかというと、どうも怪しい気がするのだ。
ある日テレビを見てたら、小此木啓吾という人が対談で喋っていたのだが、心理学ではこういう考えがあるといったようなことばかりを語っていて、なんともつまらない人という印象を持った。そのとき感じた小此木のつまらなさは、たぶん自前の原理をもたず、西欧で評価されている学説や理論を部分的に受け入れているだけで、根っ子の部分にある日本的な常識が、ちっとも揺らいでないように思われるところにあるのかなと思った。
まあ、ちょっと前のアダルトチルドレン説の流行みたいに、つねに心理学的言説に対するニーズはあるわけで、それはモラトリアム人間とかシゾイド人間が流行したとき以来、ずっとそうなんだろう。でも、この手の本と違って、フロイトには、なんでこんなことを本気で考え出したのだろうと思いつつも、理論や説が正しい、正しくない、といったレベルを越えたところにある、その根底にある過剰なまでの何かがあるところが、やっぱり読んでて面白いのだ。
マルクスとマルクス主義が同じでないように、フロイトとフロイト主義は同じではないように思う。それで、フェミニズムにおいては、フロイトというのは打倒すべき思想の筆頭として考えられているのだけれども、ちょっとでもフロイトの本を読んでみると、そうした批判する立場が依拠する思考の道具さえもがいくつか書込まれているので、少なからず驚いてしまった。
そうなると、フロイトを批判するフェミニズムの理論的立場というのも、実はフロイトの思想に依拠しているとすれば、フロイトが「とんでも系」であるのと同等かそれ以上に、フェミニズムも「とんでも系」ということになるのではないか。
フロイトを読みながら、ペニスの去勢と性差を関連付けているところに、かなりひっかかった。
──自分にペニスがないことを知った少女は、いつかペニスを獲得し、男性と同じような存在になろうという願望をもつ。自分が去勢されているという事実を否認し、自分はペニスを持っているとひたすら確信する、その帰結として、男性のようにふるまうことを強いられる。
フェミニストかどうかは別にして、男のように振る舞いたい女というのは少なくないと思うのだが、それにしても、自分にペニスがないことを知ったときって、ほんとにそんなにショックなものなんだろうか。そこのところは、よくわからないのだが、でも、女には(ペニスはなくても)クリトリスがある、みたいなことを言う女の人もいたりするので、案外、男根コンプレックスへの反動は根深いものがあるのかもしれない。
では、少年はどうかというと、少女にペニスがないことを知ったとき、自分のペニスも去勢されてしまうのではないかという去勢不安に陥る、とフロイトは説いている。このあたりがどうも腑に落ちないのだけれども、フロイトが説く去勢コンプレックスが正しいかどうかよりも、なぜここまで徹底して男根中心主義が理論の根幹にあるのか、ただ、そのことが気になるのだ。
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