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父親が「こわい」という感情は、ホモフォビア(同性愛嫌悪)とつながっているように思う。
橋本治は『蓮と刀』で、男の子が大人になることを、幼児のとき「こわい」と思っていた父親を「もうこわくはないんだ」と知的に確認できるようになることだと説明している。
もちろん、幼児のとき父親を「こわい」と言うことはできる。しかし、父親を「こわい」と言えたとしても、そのことで心の中にある「こわい」という感情が消えるわけではない。橋本治は、この「こわい」という感情は、抑圧という心理的なメカニズムによって克服されるのだと書いている。つまり、大人というものは、「こわいと言ってはいけないんだ」という抑圧ができあがっている存在なのである。「こわいと言えない」のではなく、「こわいと言わない」のが大人なのである。この違いは一見わかりにくけれども、たぶん、こういうことだ。
「こわいと言えない」は、「こわい」と言いたいけれども言えない状態であると考えられるだろう。つまり、「こわい」という感情は、心の中に存在しているわけである。
これに対して、「こわいと言わない」は、「こわい」と言う必要がないと思わされている状態である。別の言い方をすれば、「こわいと言わない」は、幼児的感情を思い出すことを巧妙に避けたり拒否したりする心理なのである。
それにしても、なぜ幼児のとき男の子は、父親を「こわい」と思うのだろうか。
フロイトのエディプス・コンプレックスの考え方では、男の子は母親とセックスしたいという願望があるということが前提されているわけだが、それは男の子が甘えられる最初の異性が母親だったということにすぎないと解釈される。エディプス・コンプレックスには異性愛だけが正常な愛であるということが前提されているわけだが、では、その前提を取り除いたら、どうなるだろうか。つまり、男の子は、母親に対してだけでなく、父親に対しても、同じように甘えたかったのだ、と考えてみたら、どうなるだろう。
「こわい」という感情は、実は、父親に甘えたいのだけれども、父親は甘えさせてくれない、ということなのではないだろうか。そして、父親を「こわい」と思うのは、父親に甘えたいという感情と表裏になっているのではないだろうか。そう考えると、「こわいと言わない」大人になることは、同時に、父親に甘えたいと思っていた感情を抑圧することでもあると解釈できるだろう。もし男の子が父親に甘えることができたとしたら、その関係は、ホモセクシュアルの関係と同じものであるように思われる。
男の子が大人になることで、幼児のとき父親を「こわい」と思った感情を抑圧するのに成功するとき、同時に父親に対するホモセクシャルな欲望の抑圧にも成功しているのではないのか。そして、男の子が大人になることで、もはや父親を「こわくはない」と思えるとき、男の子と父親は「仲良く」なれるのである。この仲の良い関係というのは、ホモソーシャルな関係の原型であるように思われる。
セジウィックは、「二人の男が同じ一人の女を愛しているとき、いつもその二人の男は、自分たちの欲望の対象だと思っている当の女のことを気にかける以上に、はるかに、ライバルとして互いが互いを気にかけている」ことに着目した。
「二人の男が同じ一人の女を愛している」という状況は、エディプス的構造の反復と見なすことができるだろう。しかし、フロイトのエディプス・コンプレックスと違って、二人の男の間には、相手を殺したいという願望ではなく、互いに気にかける関係が成立しているのである。
セジウィックは、そのような男たちの間の関係を、ホモソーシャルという語で形容した。そして、ホモセクシュアルが「男を愛する男」の関係であるのに対して、ホモソーシャルは「男の利益を促進する男」の関係であるのだ。もちろん、ホモセクシュアルとホモソーシャルの関係は、男たちの間だけでなく、女たちの間にも存在する。セジウィックは、女たちの間では、ホモセクシュアルとホモソーシャルには、はっきりとした連続体があるのに対して、男たちの間では、両者は対立していることを指摘している。男たちの間でのホモソーシャルな関係においては、ホモフォビア、すなわち、ホモセクシュアルを恐れ、憎む感情がある、というわけである。
このようなセジウィックの考え方を受け入れてみると、フロイトのエディプス・コンプレックスは、まったく別な解釈が成り立つように思える。それは、母親に対する異性愛を刷り込むための神話であり、男の子は父親を殺したいと思っていると思わせることによって、逆説的に、父親と仲良くさせることを刷り込んでいるのではないか。父親を殺したいという願望は、男の子が父親の位置に立ちたいという願望なのであり、そのかぎりにおいては、父親的なものはしっかりと継承されているのである。
エディプス・コンプレックスは、男の子に対して、お前も父親のようになれ、そして父親が母親を欲望するように、お前も母親を欲望するのだ、ということを暗黙に強制するように作用しているのではないか。そして、男の子がそれを受け入れることで、父親と同じように母親に似た女性を欲望するようになるのだ。
したがって、エディプス・コンプレックスは、父親を殺したい、母親と寝たい、という願望がタブーなのではなく、父親と寝たいという願望こそがタブーだったということになるのではないだろうか。
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