ゲイでもクィアでもない男のセクシュアリティ考
第14回
エディプス・コンプレクスでフロイトが言えなかったこと


豊福剛

 思想の本を読む人にはタイプがあって、たとえば、マルクスを読む人はフロイトを読まない、フロイトを読む人はマルクスを読まない、てなことが70年代頃には言われていたように思う。この分類でいくと、ぼくは前者のタイプのようで、いまだにフロイトってちゃんと読んだことがない。
 どうしてフロイを読んでないのかというと、一番の理由は、エディプス・コンプレクスって話が嫌いだったからなのだろう。14歳のときに父親が死んだのだけど、その話をすると、たいていみんなから、それはまるでフロイトのエディプス・コンプレクスみたいな話だね、とか言われたりするので、そんなんでぼくの実存を決定せんといてくれ、とずっと思ってきた。
 なので、ドアーズの「ジ・エンド」で、"father, I want to kill you, mather, I want to fuck you"とか叫ばれたりすると、なんか取ってつけたような感じがして、それまで音楽に集中していた耳が、途端にへなへなって感じになって白けてしまう。ふん、だから何なのさって切り返して、ジム・モリソンの横面をひっぱたきたくなるのだ。
 100歩譲って、父親を殺したいってのは、まあ、わからんでもない。でも、母親を犯したいってのは、なんかピンと来ないのだ。で、エディプス・コンプレクスが嫌いなのは、ほらほら、君はほんとは母親を犯したいんだろ、そんなことないって言ってても、君の無意識ではそう思ってるんだよ、と脅迫されているみたいな気がするからだ。
 英語でmother fuckerってのが、侮蔑の表現になるのはなぜなんだろう。日本語だと「かあちゃんのおっぱいでも吸ってな」みたいなニュアンスなんだろうか。外の女とセックスできない未熟な坊や、という意味なんだろうか。でも、仮に、男の子が内心では母親とセックスしたいという欲求があるとしたら、mother fuckerって侮蔑にならないのではないだろうか。mother fuckerという表現は、母親がセックスの対象、性的欲望の対象にならないことを前提にしているはずだ。
 文化人類学の本なんかだと、近親相姦のタブーって必ず出てくるみたいなのだけど、あれは子供の立場からではなくて、親の立場から考えると、そういう欲望があるのは、まだわからなくもない。自分の娘に欲情する父親というのは、気色悪いけど、まあ、いても不思議ではない。思春期になってオナニーしたりもする息子をもつ父親が、内心では息子を怖がっている、というのは、ありそうな気がする。だから、エディプス・コンプレクスは、父親が息子に殺されるかもしれない、自分の妻を息子に奪われるかもしれない、という不安という話だったら、まだわかるのだけど。
 エディプス・コンプレクスは、親の不安を説明するためにでっちあげられた神話である気がするのは、父親だけでなく母親にとっても言える気がする。10代の頃、つきあってた彼女のことを母親は、声がおばさん臭いだの、歯並びが良くないだのと、やたらと粗探ししたもの言いばかりしてて、うんざりしたことがある。別に母親を喜ばせたくて彼女とつきあってるわけじゃないわけで、彼女の悪口を言われるたびに、なんか自分が非難されてるみたいで、嫌な気分になった。そういう心理ってのは、自分の息子が外の女の子に奪われた気がすることによる、まさに嫉妬なんだろうけれども、それは母親が息子を独占していたい、ということでもあるのだろう。そう考えると、エディプス・コンプレクスは、母親が息子とセックスしたい、という無意識の欲望なのだと考えると、実際にそんな無意識があるのかどうかはさておいて、論理的には辻褄があうではないか。
 そういうわけで、いまでもエディプス・コンプレクスってのは、なんか変てこで気色悪い話だよなあと思っている。それで、この連載をはじめた頃に、知人に橋本治の『蓮と刀』を読んだら、と勧められて、この半年くらいだらだらと読んできたのだけど、橋本治のフロイト批判はすごく面白かった。フロイトのエディプス・コンプレクスはでたらめなんだということが、しつこく、しつこく、書いてある。
 フロイトがついてた嘘、それは「おかあさんと寝たい、セックスしたい」ってことで、その嘘が堂々と世間に罷り通って行ったのは、「世間の男はみんな、セックスの時に女に甘えるから」と言ってる。
 男は女に甘えるとき「自分の母親に甘えてるのと同じような感情を持ってしまう」から、あたかも男は母親とセックスしたい欲望があるのだと信じ込まされそうになるわけだけど、それは何のことはない、たんに「男は、自分の奥さんなるものに巡り会う迄、母親以外に一遍も甘えたことないから」というだけなんだ、と。
 じゃあ、フロイトがエディプス・コンプレクスで、何を言いたかったのかというと、それは「おとうさんがこわい」と言えなかったフロイトが、そのことを正当化したくて「男の子は父親を殺したいと思っている」ということなんだ、と。
 つまり、母親とセックスしたいから父親を殺したい、という論理は後づけで、ほんとは、父親を殺したい、なぜなら、父親がこわいからって話だったというわけだ。
 さあて、そうなると、なんで父親をこわいと言えなかったのかが、フロイトの問題の核心にあるわけなんだけど、このあたりをじっくり考えると、宿題だったセジウィックの話、ホモソーシャルやホモフォビアの議論ともつながることになるはずだ。