ゲイでもクィアでもない男のセクシュアリティ考
第13回 男が精液を飲むという倫理

豊福剛

 「便所にドアーがない。しきりもない。丸出し。地元の人のおしっこはすごい」

 トイレのことを考えていたら、ふと、そういえば武田百合子がロシアのトイレについて書いていたのを思い出した。『犬が星見た──ロシア旅行』(中公文庫)を図書館から借りてきて、確認したら、ハバロフスク空港のトイレだった。1969年の話である。

 「便所を探す。男と女の横顔が描いてある扉。女の横顔の扉を押して入る。ロシア女たちが、壁に向いたり、こちらを向いたりして、ずらりとしゃがんでいる。立ったまま用を足している人もある。太り過ぎてしゃがめないのかもしれない。その勢いのよさ――めいめいの湯気が立ち昇っている。扉も衝立てもない。コンクリートの床に琺瑯洗面器風のものが、並べて埋め込んである。」

 武田夫婦のロシア旅行に同行している竹内好は、この話をきいて、「便所に入ると、その土地の土地柄というものが一番わかる」と言っているけど、ハバロフスク空港のトイレ、いまはどうなっているのか、気になる。
 比較的最近ロシアに旅行した人の文章を読むと、ロシアの各家庭には個室トイレが普及しているらしいが、駅のトイレや公衆トイレになると、とても直にしゃがんで使えるようなものではないらしい。ドアのないトイレというのも、けして珍しくないようだ。
 ロシアにかぎらず、トイレの歴史には興味深い話が多い。ロジェ=アンリ・ゲラン『トイレの文化史』(筑摩書房)には、1865年頃のパリの公衆便所の写真が載っていて、それを見ると、ちょうど現在の公衆電話ボックスみたいに、公衆便所がパリの路上に配置されていたのに驚かされる。
 18世紀のフランスには、まだトイレがなく、汚物を窓から外に捨てていたので、街が汚物まみれだったという。パリの街を歩いていると、上から汚物が降ってきたりもしたわけで、そういう背景からマントやハイヒール、さらには香水が発達したという説もあるらしい。ベルサイユ宮殿には腰掛け式のトイレがあったそうだが、舞踏会に参加する貴族たちは、携帯したオマルで用を足していたし、その中身は宮殿の庭に捨てられていたという。
 18世紀のフランスと現代とで、排泄に対する意識が根本的に変化したとは思わないが、排泄物に対する意識が確実に変化したとしたら、その変化は、下水道という社会的インフラの結果なのだといえるだろう。トイレで排泄物を水に流すとき、意識においては排泄物は消えるとしても、その存在そのものが消えるわけではなく、下水道の水の流れに運ばれ、処理されている。トイレは、この二つの流れ、つまり身体における排泄の流れと下水道という水の流れが接合する場所なのだ。
 トイレは排泄に対して開かれている、ということは、身体はトイレに対して開かれている、ということでもある。身体は、それ自体で完結しているわけではなく、トイレをはじめとする、さまざまな機械に接合される、開かれたものとして存在している。このことは、同時に、身体がさまざまな機械によって規定されているということも意味するだろう。
 それにしても、排泄というのは、なぜ汚いものの筆頭と考えられているのだろうか。もちろん、下水道が誕生した歴史的な背景には、衛生思想がある。ぼくはスカトロ趣味はないけれども、世の中には、おしっこ健康法なるものを実践している人もいるみたいなので、便はともかくとして、小水の衛生上の害というのがどれほどのものなのか、よくわからなくなってしまう。
 排泄物を汚いもの、害のあるものとして排除しようとする意識は、おそらく、その延長として、性器も汚いもの、害のあるものとして排除しようとする意識につながるように思える。それとも、排泄のときの性器は不潔だけれど、セックスのときの性器は清潔なのだろうか。セックスのときの性器は、あらかじめ清潔にしているから清潔だ、とはいえるかもしれない。それでは、精液はどうなのだろうか。
 たとえば、自分の精液を舐めたり、飲んだりしたことがある男って、実際にはどれくらいいるのだろうか。フェラチオなんかで、精液を飲むのを相手に強要するのに、自分では飲むのを拒む男は、たぶん少なくない気がする。実際に試してみたことがあるけれども、そのときは、精液って思ったほど苦くもしょっぱくもないよなと思った。
 男にとって自分の精液って何なのだろうか。オナニーの後のティッシュやセックスの後のコンドームをゴミ箱に捨てるとき、精液はあたかもゴミであるかのように扱われている。ということは、男にとって精液とは自分の身体のゴミなんだろうか。
 もしそれをゴミのようなものだと考えるなら、それをセックスの相手(女とは限らない)に飲ませたり、相手の身体の中に放出する行為って、その相手をゴミ箱や便器のようなものとして扱うことになるのではないのか。
 たぶん、小水と精液は、同じところから出てくるので、心のどこかで等価なものと思われているのかもしれない。10代の頃、マスターベーションの仕方がよくわからなかったのは、おしっこをする感覚と射精の感覚の違いがうまく弁別できなかったからだ。
 でも、小水と精液は、同じではない。まったくの別ものだ。そして、それらが別ものであることは、まず実践的に自分の身体で証明すべきだ。たとえセックスの相手が精液を飲むことを拒まないとしても、まず自分の精液を飲むことができなければ、そうするべきではないのだ。