ゲイでもクィアでもない男のセクシュアリティ考
第10回
プラトニックセックスとプラトンの同性愛論


豊福剛

 飯島愛の『プラトニックセックス』は、ふだん本を読まない人たちに売れたらしい。週刊誌でやけに取り上げられたり、新聞にでかい広告が載ったりで、立ち読みすらしてないのに読んだ気になってしまった。
 むかしテレビ東京の土曜の深夜番組に『ギルガメッシュNIGHT』ってのがあって、そのオープニングで、飯島愛がスカートをめくって、Tバックのお尻を見せるのがお決まりになっていた。『プラトニックセックス』の読者の中には、そういう時代の飯島愛を知らない若い人たちも少なくないのだろう。AV女優からタレントに転身できた唯一例外的存在なんだろうけど、当時は「飯島愛みたいになれるよ」というのが、若い女の子をスカウトするときの口説き文句だったらしい。とはいえ、飯島愛に憧れてAV女優になったという人がほんとにいたのか、疑問ではある。AV女優になる人というのは、多かれ少なかれ、いろいろな事情を抱えてのことだろうし、それは飯島愛にしても例外ではなかったようだ。
 読んでないので断言するのも何なのだが、この自伝というか告白本のメッセージは、「わたしはセックスが好き」ということなのだろうと思う。重要なのは、そのメッセージそのものよりも、それがどのように語られているかにある。おそらく、セックスそのものよりも、それがプラトニックなものとして形容されている点に、この本が売れた理由があるように思う。
 プラトニックラブというときのプラトニックは、ふつうは「精神的」という意味で理解されていて、そのときの精神的とは、肉体関係を持たないということだった。なので、プラトニックセックスというのは、精神と肉体を二項対立的に前提しているかぎり、矛盾した言葉であるように思える。純愛という言葉もあるが、これもプラトニックラブと同じようなニュアンスであって、この言葉が成立するのは、肉体関係を不純なものと前提しているからだろう。しかし、プラトニックという語が成立した背景を考えると、プラトニックセックスという用法は、かならずしも矛盾したものではないようだ。
 プラトニックとはプラトン的ということであり、そのプラトンとはギリシア哲学のプラトンのことである。
 古代ギリシアでは、同性愛は抑圧されるどころか、逆に賞賛されていたらしい。プラトンの『饗宴』では、成人男性と少年の間の同性愛が、真理への道として提案されている。このあたりの話は、ミシェル・フーコーの『快楽の活用』で詳しく考察されている。
 プラトンは、成人男性が美しい少年の身体を愛すること(ペデラスト)は、身体そのものの美に目覚めることにつながり、それはさらに美そのものに目覚めることにつながる、と考えた。エロスはイデアに向かうものであるかぎりにおいて、賞賛されたのである。一方、少年が成人男性を愛すること(フィレラスト)は、成人男性の身体を欲望するのではなく、その成人男性が真理に向かって進んでいくことを欲望することで、やはり真理に進むことができる、と考えた。
 こんなことをプラトンがわざわざ提案したのは、セックスの相手である少年が、セックスの客体ではなく主体となりうる理屈が求められたからであるらしい。というのも、古代ギリシアにおいては、セックスの客体であることは、受動的であることを意味し、それは支配される存在であることを意味したからだ。だから、奴隷や女性とのセックスは、成人男性にとって道徳の問題にはならなかった。支配される存在である奴隷が問題にならないのは当然だし、女性が受動的な存在であるのは自然であると考えられていた。しかし、少年は、奴隷や女性と違って、将来は政治的に人々を支配する地位につく存在であるから、彼をセックスの客体として扱うことは、道徳的に良くないことと考えられたのだ。
 ギリシア時代の同性愛は、同性愛と異性愛の二項対立で考えると、同性愛といえるのだろうが、その実態は、むしろ少年愛だったといえるだろう。プラトンの同性愛論に従えば、成人男性同士のセックスは、一方が能動的で他方が受動的になる以上、受動的な側の男性にとっては、屈辱を意味したことになるだろう。男性とのセックスにおいて、女装して女性の役割を演じることを欲望する男性(モルリス)は、性的倒錯と考えられたらしい。男性とのセックスよりも女性とのセックスの方をより好み、男性とのセックスはあくまで女性とのセックスの代替とみなした男性(トゥリバウス)についても同様である。
 ギリシア時代においては、成人男性が自己を制する強さは、他者を支配する能力の証しであったらしい。自己を支配することが、家庭を支配することにつながり、さらには国家を支配することにつながると説いたのは孔子だったが、そうした考えはプラトンにも共通するように思う。同性愛を正当化することと、他者を支配する権力を真理の名のもとに正当化することとは、プラトンの中では矛盾していないのだろう。