ゲイでもクィアでもない男のセクシュアリティ考
第8回
ボーイ・ミーツ・ガール/ガール・ミーツ・ボーイ


豊福剛

「ボーイ・ミーツ・ガール」というフレーズには、恋愛の方程式のような響きがある。
 TRFのヒット曲。レオス・カラックスの映画。それから、昔読んだ小説に、ある作家がタイプライターに向かって、ひたすら「BOY MEETS GIRL」と打ち続けている描写があった気がする。田口賢司の「ボーイズ・ドント・クライ」だったと思うが、違うかもしれない。外国の小説だったかもしれない。まあ、いいや。映画『シャイニング』ではないけど、タイプライターに向かってパラノイア的に打ち続けているイメージと、このフレーズが、頭の中でリンクしているのだけは確かだ。
 ボーイ・ミーツ・ガール。少年が少女に出会い、物語が始まる。恋愛の方程式。

 そもそも、人は、どのようにして、恋愛するようになるのだろう。
 ぼく個人でいえば、マンガや小説や映画よりも先に、ヒット曲の歌詞に、すごく影響されてきた気がする。ぼくの中の恋愛にまつわるヒット曲の記憶をたどっていくと、その一番底の層にあるのは、たとえば山本リンダの『こまっちゃうナ』あたりだったりする。
 はじめて男の子からデートに誘われた女の子がいて、ママに相談しても、笑っているだけ、といった内容の歌詞だった。女の子は、デートに誘われると、困っちゃったり、ママに相談したりするものなんだと思ったぼくは、当時4歳の幼稚園児だったことになる。もちろん、デートがどんなものであるかも、なぜ困っちゃうのか、なぜママは笑っているのか、そういったことを幼稚園児だったぼくが分かっているはずもない。でも、意味など分からなくても、デートという言葉を学習したわけだ。
 昭和41年に15歳くらいだった女の子は、デートに誘われたくらいで、困っちゃったりするところが、時代を感じさせる。それにしても、なぜママに相談するんだろうか。
 ママといえば、荒井由美の『ルージュの伝言』にもママが登場するが、このママは、浮気してる相手の男のママだ。女は列車に乗ってそのママに会いにいく、そしてそのママに相手の男を電話でしかってもらう、という内容の歌詞だった。当時13歳だったぼくは、なぜこの女の人は、男が浮気したときに、なぜ、男と直接向き合わずに、男のママにいいつけたりするのだろうと、不思議に思ったのだった。
 女にとってママとは何かについて、男のぼくが問いをたてても、仕方ない気がする。ただ、ママの存在には、なにかとっても鬱陶しいものを感じる。
 ともかく、恋や愛やラブという言葉は、何よりもまず、歌謡曲の歌詞によって学習したのだ。
 その後、ロックを聴くようになってから、どうもロックの英語のLOVEと、歌謡曲の恋や愛とは、似ているようでいて、しかし、どこか意味するものに違いがある気がしてきたのだが、いまだにその違いを明確に説明できないでいる。LOVEという言葉には、もちろんプライベートな恋愛関係も含まれるのだが、もっとパブリックな、それこそ全人類を射程に入れたようなスケールの大きさもある。それを日本語の愛という言葉で置き換えてしまうと、どこか気恥ずかしい感じがしてしまう。LOVEの意味するものは、キリスト教のことが分からないと、ほんとうには理解できないような気がする。ただし確信はない。

 それにしても、どうして、ボーイ・ミーツ・ガール、なのだろう。どうして、ガール・ミーツ・ボーイ、ではないのか。もっといえば、ボーイ・ミーツ・ボーイとか、ガール・ミーツ・ガールがあっても良さそうなものなのに。小説は、数えるほどしか読んでないので、どこかで誰かが、そんな小説や曲を作っているのかもしれない。
 もちろん、ガール・ミーツ・ボーイをテーマにした小説や映画は、たくさんある。たとえば『嵐ケ丘』がある。ボーイ・ミーツ・ボーイをテーマにした、いわゆる少年愛ものも、やはりたくさんある。ガール・ミーツ・ガールも、知らないだけで、たぶんあるのだろう。
 ただし、「ボーイ・ミーツ・ガール」が、語感的にバシッと決まるのに対して、それ以外のフレーズには、どことなく収まりの悪さを感じるのだ。それは、ゲイでもクイアでも、ましてレズビアンでもない、ヘテロな男の感性の問題なのだろうか。それとも、英語という言語に、そもそも異性愛と男性中心主義が、織り込まれているのだろうか。
 ボーイ・ミーツ・ガール。サブジェクトはボーイで、オブジェクトはガール。主体は少年で、客体は少女。この構造に対して、フェミニズムは憤る。
 でも、この構造は、とてもとても、しぶといものに思える。それは、小説や映画やヒット曲が、男の作家が作っているから、そうなっているのだ、とは思えないのだ。女の作家が作っていても、この構造そのものは、しぶとく反復されているのではないか。
 そんなことを考えながら、いまセジウィックの『クローゼットの認識論』を読んでいる。どうやら異性愛と同性愛の二項対立を考えずにすますことはできないようだが、これについては次回ということで。