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映画を観てから、その映画で使われていた音楽を聴きたくなることが、たまにある。
パッヘルベルの『カノン』やキース・ジャレットの『ケルン・コンサート』を聴いたのは、ニコラス・ローグの『ジェラシー』を観てからだったし、ベートーヴェンの第7を聴いたのは、ジョン・ブアマンの『未来惑星ザルドス』を観てからだった。
『ザルドス』が日本で上映されたのは1974年で、当時中学生だったぼくは、日曜日になると、クラスの友人とふたりで一緒に映画を観にいっていた。学校が許可した映画しか観てはならないという校則があって、これがばれると、翌日の朝礼の後、全生徒の前で陰険な「指導」にあうことになるのだが、そのようなドジを踏んだことはなかった。『レット・イット・ビー』や『タクシー・ドライバー』なんかを観にいったのを憶えてる。
ベートーヴェンの第7の2楽章は『ザルドス』のラストシーンで使われていたわけだが、最近この映画のことを思い出したのは、とあるメール友達で仲間由起恵のファンという人がいて、その彼がドラマ『トリック』のエンドタイトルは『ザルドス』のパクリだと指摘していたからだ。
『ザルドス』のそれは、ショーン・コネリーとシャーロット・ランプリングが横に並んでいて、子供ができて、成長して、やがて両親のもとを去り、残されたふたりは、老いてゆき、最後は骸骨になる、というシーケンスだった。
物語は、およそこんな感じだ。
2293年、人類は「ボルテックス」といわれるユートピアを作りあげる。ここに住む未来人は、エターナルと呼ばれ、永遠の生命をもつ不老不死の存在となったが、性欲はなくなっている。このボルテックスは、見えないバリアで外界から遮断されていて、外界では野蛮で暴力的な人類の生き残り「獣人」が、ボルテックスに住む未来人のために奴隷としての生活を営んでいる。獣人たちは、ボルテックスから飛行する巨大な首だけの怪物ザルドスを神と信じ、怖れている。ザルドスの口から銃がばらまかれ、その銃で獣人たちの一部は人口調整のために殺戮される。獣人が収穫した穀物は、ザルドスの口の中に積まれ、ボルテックスに運ばれる。
獣人を管理し、殺戮する隊長(ショーン・コネリー)は、ある日、意を決して、ザルドスの中に潜り込み、ボルテックスに侵入する。性欲を失っていたボルテックスの女性たちは、この外界からの侵入者に触れ、忘れていた性欲を呼び起こされ、やがて死を求める未来人による反乱が勃発する。
外部から野蛮な男が侵入してきたことで、「平和な」世界が崩壊するという点では、同じ20世紀フォックスの『猿の惑星』と似ている。「人類の進歩と調和」がもはや信じられなくなり、反ユートピアをテーマとした作品が流行していた70年代前半の時代背景もあるのかもしれない。
それはともかく、『猿の惑星』との共通点としては、チャールストン・ヘストンと同じように、コネリーも半裸姿で通していることがあげられる。007ジェームス・ボンド役をおりて以来不調だったコネリーが、この作品で一気に人気を取り戻せたのかどうかは知らないし、「コネリーの強烈なセックス・アピールで女性ファンは失神」という宣伝文句も嘘くさい。ちなみに、ヘストンは全米ライフル協会員だそうで、銃規制に激しく抗議するような人、マッチョを絵に描いたような人物ではあるらしい。
いま『ザルドス』を観たら、コネリーの半裸姿にどんな印象をもつのか、興味があって、ビデオを探している。それにしても、70年代前半という時代において、なぜ反ユートピアとマッチョがテーマ的に複合していたのだろう。しかも、そのマッチョは半裸姿ときている。
最近テレビで観た『ジョーブラックをよろしく』では、ブラッド・ピットのシャツのボタンがクレア・フォラーニの手でゆっくり外されて、シャツを脱がされるのだけど、ブラピの半裸姿には、ヘテロの目から見ても、ほれぼれするものがあった。ブラピに男も萌えてしまう、そんな現在のセックスシンボル観からすると、コネリーやヘストンがセックスシンボルだった時代って、なんとも野蛮に思えてしまうのはなぜか。漠然とだが、その野蛮さは70年代前半における身体観と暴力観に関係している気がするのだ。
身体という言葉よりも肉体という言葉の方が似合う時代だったのかもしれない。このニュアンスの違いは、おそらくテクノロジーが関係しているように思う。肉体が反テクノロジー的な観念であるのに対して、身体は親テクノロジー的な観念といえないだろうか。アントニオ猪木と小川直也のイメージの違い。あるいは、山中で「野生」の修行をする一方で、実はサーフィンが好きなヒクソン・グレーシー。
同じことは、暴力観についても感じる。時代は少しずれるが、三島由紀夫の割腹による自決、あるいは、よど号ハイジャックで振りかざされた日本刀。三島はともかく、極左と日本刀の組み合せには、すごく違和感を感じるのだ。暴力の手段が、日本刀、火炎瓶、時限爆弾だった時代と、サリン以後の時代の違い。
このように対比してみると、70年代前半から受ける印象は、あまりに情念の色が濃いように思う。そして、情念というものが、ある抑圧された感情の噴出だとすると、この30年あまりで、あたかも情念がなくなったかのように思えるが、それは、おそらく抑圧の構造が変ったからではないだろうか。
もはや見えないバリアはなく、外界もない。ボルテックスだけがある。そしてもし獣人がいるとしたら、それはコネリーではなくて、マイク・マイヤーズみたいなヤツかもしれない。
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