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3月17日。フェミニストの知人に誘われて、イトー・ターリさんのパフォーマンス「わたしを生きること」を見る(WAN
ACT 2「女たちの自画像を語ろう」@横浜女性フォーラム)。
まわりを見渡すと、当然のことながら女性ばっかで、額にくっきりフェミニストって文字が刻印されているかのような幻覚。こういう状況においては、どのあたりの椅子に坐ればいいものか気になるもので、最前列中央に坐れるだけの神経の図太さもなく、できるだけ端っこにある椅子を選ぶ。
予定よりちょっと遅れて、山上千恵子監督登場。ドキュメンタリ作品「ディア・ターリ」の上映、はじまる。
冒頭、執拗に繰り返される「あなたは誰ですか?」の問い。「わたしは女性です」「わたしは小金井市に住んでいます」といった返答が続く。最後に、「わたしは、レズビアンです」とカミングアウト。ターリさんについての予備知識、まったくなしのぼくは、ここではじめて、ターリさんがレズビアンであることを知る。でも、それで動揺しない程度には太い神経である。へえ、そうなんだ、それで……?
と思うだけ。
映画では、ターリさんと彼女を囲むたくさんの女性たちの日常がスケッチされる。公園みたいなところで、みんなで輪になって、お弁当を食べながら、お喋りしたりしてて、楽しそう。途中、江ノ島水族館のくらげの映像が挿入される。ひたすら、くらげに見とれる。くらげはいいよな、くらげになりたいな、などと思っているうちに、映画が終わり、休憩をはさむ。
緊張した空気の中、ターリさんのパフォーマンス、はじまる。でも、いったい、パフォーマンスについて何を書くことができるのだろう。一回性の体験。黒いコート、赤い毛糸、ターリさんのお母さんの映像、ターリさんの身体を包む透明なゴム、大きなヴァギナのオブジェ、床一面に塗られたとても広いゴム。そういった小道具の記憶。しかし、ビデオに録画したわけでもなく、曖昧な記憶があるだけ。ただ、いくつかのシーンとアクションは、強烈なイメージとして残っている。それらのイメージについて書こうとすると、言葉は抽象的になってしまう。言葉に翻訳することが、パフォーマンスを理解したことになるのだろうか。わからない。
北原恵『撹乱分子@境界』(インパクト出版会)に、ターリさんのインタビューが収録されている。これを読むことで、パフォーマンスを見たときの体験のかなりの部分が想起される。
たとえば、赤い毛糸、血の色をした毛糸。それは女たちが編んできたテキスト=歴史の隠喩なのか?
「編んでいく、つまり女の歴史を編んでいくというよりも、むしろ過去に積んできたいわゆるトラディッショナルなものをほどいて欲しいという意味合いで、母には全部ほどいてもらおうと思ったんです。そういった女の人たちがほどいたものをもう一度巻く、つまり検証する、自分のものとして考えてみたいなっていう思いもあって、巻くという行為は私がしました。あと、真ん中に象徴的にヴァギナのオブジェをポンと置いているでしょ。そこに毛糸を戻していく。」
あるいは、床一面に塗られたゴムの中に、ターリさんが入っていくシーン。
内側と外側、そして境界。
昔読んだ、ジル・ドゥルーズのフーコー論(『フーコー』河出書房新社)の一節「彎曲あるいは思考の内(主体化)」を思い出す。
「私たちは、地層から地層へ、帯から帯へと身を沈め、表層つまり、光景と曲線を横断し、亀裂をたどり、世界の内部へ到達しようとする。私たちは、誰もいないのではないかと恐れ、人間の魂が巨大な恐るべき空虚をあらわにするのではないかと恐れながら、中心の部屋をさがし求める。しかし同時に、外に、大気的要素に、「地層化されない実体」に到達しようとして、私たちは地層を超えようとする。」
ただし、ドゥルーズの文章でターリさんのパフォーマンスをなぞっただけでは、それを見たときの体験の、何か決定的な直接性を、捉えそこねてしまうように思う。なぜなら、内と外と境界という抽象的なダイアグラムには、ジェンダーが重ねられているのだから。
ヴァギナのオブジェに睨まれているような気がしてくる。
2メートルくらいありそうなヴァギナのオブジェを見るぼくの視線は、どうしたって、ヴァギナをもつ女の人の視線と、同じではないだろう。
北原恵さんによるインタビューの中で、ターリさんはヴァギナのモチーフについて、次のように語っている。
「やっぱり自分のセクシュアリティと関係あるんじゃないでしょうか。ヴァギナというものが単に自分のものだけじゃなくて、対象であるということが私にとってすごく具体的に見えてきた時に、セックスは男と女というだけじゃないわよというか、そういうのもあるんだっていうことをいいたくなったんじゃないでしょうかね。それと女性性器はやっぱりずっとタブー視されてきている。日本じゃ性器を女性が自分のものなのだと考える認識が育ってきていないですよね。白日の下にもっと出されてしかるべきって思ってたし。」
だから、ヴァギナのオブジェにからむパフォーマンスは、ヴァギナをもつ人が自分のヴァギナを認識する契機になりえる効果があるとしても、ヴァギナをもたないぼくにとっては、ヴァギナそのものは仮想的で想像的なオブジェクトでしかありえない。いや、むしろ、ヴァギナは、オブジェクトの非在を表象しているというべきなのだろうか。
もしヴァギナのオブジェを男が直視できないとしたら、たぶん男の視線が攻撃され、拒否されているからだろう。そして、女がヴァギナの美を獲得したとき、その美を男はあるがままに受け入れることができるか、ということが問われているのだろう。
ぼくはヴァギナのオブジェを、あるがままに見ることができたのだろうか。
あなたは見ることができた、と誰が言うのだろうか。
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