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中学のとき給食がなくて弁当だった。それで、アルミの弁当箱の蓋には、ミロのビーナスの写真がプリントしてあった。これがもし、ミケランジェロのダビデだったら、どういう人間になっていたのだろう。
高校のときブリタニカ百科事典をみてたら、ギリシア神話を題材にした彫刻の写真がたくさん収録されていて、その中にゼウスが人間の女に抱きついている写真があった。ゼウスの女好きはともかく、それを造形化した彫刻は、抱きつかれている女の腰のねじれがリアルで、ドキドキしてしまった。
神はみずからの姿に似せて人間をつくったと考えた西洋は、人間の姿に似せて神の彫刻をつくったわけだが、ギリシアやルネサンスの彫刻をみてると、神がつくった人間の身体に対する絶対的な自信のようなものを感じてしまう。ミケランジェロのダビデにしても、ついつい目がいってしまうそのちょっと小さめなペニスは、テリビリタと呼ばれるダビデの激しい表情と調和して堂々としている。
このような西洋の彫刻から伝わってくる堂々とした感じは、西洋人の身体そのものが、東洋人から見たときに、堂々としたものに感じられることと、たぶん同じことであるように思う。
たとえば、フィギュアスケートの国際大会なんかをテレビで見てると、東洋人と西洋人とでは、どうしようもなく身体の違いが感じられて、それは身体だけでなく、動きや表情にまで決定的に影響しているように思う。もちろん東洋人でも回転ジャンプに代表されるような個々の技はクリアできるのだが、あるポーズを決めるときのジャストなタイミングとか、技から技へ移行するときのスピード感とかが、どうしてもトップクラスの西洋人のようには決まってない気がする。
東洋人と西洋人の身体の違いについては、おいおい考えるとして、彫刻の話からはじめたのは、ヌード写真やポルノグラフィにおける男の問題を考えたかったからだ。
『POSSESSION』(光琳社出版)という写真集があって、バレエダンサーの首藤康之をモデルに、操上和美が撮影している。鍛え抜かれたダンサーの身体って、ほんと彫刻みたいに美しい。こういう、身体そのものの造形の美しさや、ひとつひとつのポーズの美しさを鑑賞できる男性ヌード写真というのは、あるにはある。
ダンサーではないが、デビッド・ボウイーの『アラジンセイン』の見開きにある写真なんかも、はじめて見たときは、ドキドキした。ボウイーはリンゼイ・ケンプのところでマイムをやってたこともある人なので、ダンサーの身体の系譜に置いてもいいだろう。これは正確には全身ヌードではなくて、胸から下は、タイツをはいたみたいに銀色のマスクがかかっている。最近のロック系では、マリリン・マンソンの『メカニカル・アニマル』の写真をみたとき、画像処理で胸をなだらかに隆起させてはあるけど、ちょっと『アラジンセイン』入ってるよなあ、と思った。
では、このような男性ヌードの系譜に、そうだな、たとえば江頭2:50を置けるだろうか。
郷ひろみ、だったらどうだ。
やっぱり、笑ってしまうと思う。
それは、彼らが芸能人だからでも、あまりにキャラが立ちすぎているからでもなく、何かがあまりに過剰になってしまうがために、笑うしかなくなるのではないだろうか。あるいは、彼らの身体をヌード写真として表現するときのコンテキストが貧困だからなのか。
ヌード写真といっても、もちろん幅は広い。
大学のとき、ある知人のトイレにわりと大きめのポスターが貼ってあった。ジョン・レノンとオノ・ヨーコが並んで立ってるモノクロ写真で、二人とも裸になっていて、ジョンのペニスもしっかり写っていた。ジョンのお腹のあたりは、ちょっとだぶついていた気がするけど、この写真はこの写真で、いい写真だと思った。ジョンとヨーコが、アダムとイブみたいに見えて、とてもイノセントな感じがした。
『PLAYBOY』なんかでも、真ん中のプレイメイトの写真は、背景にしろ、ポーズにしろ、どれもいくつかの類型パターンを延々と反復しているだけで、写真としての新しさとか斬新さは感じないのだけど、70年代には、たまに、女だけの写真ではなく、男と抱き合ってる写真があった。日本で出版されてるヌード写真集のほとんどは、女だけを写してるけど、『XTC』(ブックマン社)なんかだと、白石ひとみと熊坂幸雄が砂漠で抱き合っていたりもする(撮影:小林響、アートディレクション:仲條正義、編集:菅付雅信)。これ、かなりいい写真集だと思うのだけど、終わり近くになると、やっぱり白石の顔の表情だけがアップになってしまうのだった。
ヌード写真といえば、そのほとんどが女のヌードであって、男のヌードは例外的な存在でしかない。男のヌードがほとんどメディアに流通しないのは、誰もそんなものを見たくないからだといわれる。でも、そうではない気がする。男のヌードが例外的なのは、たぶん、見たくない/撮りたくない、というよりも、どのように見たら/撮ったらいいのか、わからないからではないか。男のヌードにどのような視線を向ければいいのか、そのコンテキストがいまだ十分に形成されていないからではないのか。
海外のポルノビデオなんかをみてると、射精するときの男優の表情を写してあることがよくあるのだが、日本のAVなんかでは、そういうのはまず皆無ではないだろうか。日本のAVのほとんどは、男の側の視線だけで構成されている。情けないと思うのは、その男の視線は、一方的に見るだけの視線であり、見られるという意識が欠けているところだ。このことと、AVにおける男優の演技や撮り方の貧しさは、深く関係しているはずだ。AVを見ていて恥ずかしくなるのは、そのような貧しい男の視線を共有させられるからなのだ。
男のヌードとは、たぶん、男の視線の問題である。女の視線が男のヌードをどのように見るのか/撮るのかという問題もあるが、それは女がやってくれ。男が男のヌードをちゃんと見れるようになったとき、女のヌードへの視線も変わる気がする。
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